昭和36年 (かのとうし 辛丑)
年(年号) | |
●1941年 (昭和16年) | ■対英米宣戦布告 |
●1945年 (昭和20年) | ■ポツダム宣言受諾 |
●1946年 (昭和21年) | ■日本国憲法公布 |
●1951年 (昭和26年) | ■サンフランシスコ講和条約 |
●1953年 (昭和28年) | ■テレビ放送開始 |
●1956年 (昭和31年) | ■国際連合加盟 |
●1960年 (昭和35年) | ■東京タワー完成 |
●1960年 (昭和35年) | ■日米新安保条約調印 |
●1964年 (昭和39年) | ■東京オリンピック |
●1968年 (昭和43年) | ■GNP世界第2位に |
●1970年 (昭和45年) | ■大阪で万国博覧会 |
●1971年 (昭和46年) | ■環境庁設置 |
●1973年 (昭和48年) | ■第1次オイルショック |
●1976年 (昭和51年) | ■ロッキード事件 |
●1978年 (昭和53年) | ■日中平和友好条約 |
●1978年 (昭和53年) | ■成田空港開港 |
●1979年 (昭和54年) | ■第2次オイルショック |
1961年
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1961年(1961 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、日曜日から始まる平年。昭和36年。
- 1 1961年とは
- 2 1961年の概要
1961年(昭和36年)-
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「学習指導要領」の記事における「1961年(昭和36年)-」の解説
系統性を重視したカリキュラム。道徳の時間の新設、科学技術教育の向上などで教育課程の基準としての性格の明確化を実現。 公立学校に対して強制力がある学習指導要領が施行された。 小・中学校の学習指導要領は1958年(昭和33年)に告示され、 小学校は1961年(昭和36年)度から、 中学校は1962年(昭和37年)度から実施されたが、 道徳のみ1958年10月から実施されている。 又薬業は1962年(昭和37年)に追加された。 高等学校の学習指導要領は1960年(昭和35年)に告示され、 1963年(昭和38年)度の第1学年から学年進行で実施された。 小学校6年間の総授業時数は5,821コマで、国・算・理・社の合計授業時数は3,941コマ。中学校3年間の総授業時数は3,360コマ。 中学校の職業・家庭科が技術・家庭科に改められ、 高等学校の古典、世界史、地理、数学II、物理、化学、英語にA、B(または甲・乙)の2科目を設け、生徒の能力・適性・進路などに応じていずれかを履修するなど、科目数が大幅に増加した。 高等学校の外国語が必修となったほか、科目の履修に関する規定が増加した。 学校種教科区分各教科、各科目教科以外の教育活動小学校教科 国語、社会、算数、理科、音楽、図画工作、家庭、体育 道徳 中学校必修教科 国語、社会、数学、理科、音楽、美術、保健体育、技術・家庭 道徳、特別教育活動(生徒会活動、クラブ活動、学級活動) 選択教科 外国語、農業、工業、商業、水産、家庭、薬業、数学、音楽、美術 高等学校教科 国語 現代国語、古典甲、古典乙I、古典乙II 特別教育活動(ホームルーム活動、生徒会活動、クラブ活動) 社会 倫理・社会、政治・経済、日本史、世界史A、世界史B、地理A、地理B 数学 数学I、数学IIA、数学IIB、数学III、応用数学 理科 物理A、物理B、化学A、化学B、生物、地学 保健体育 体育、保健 芸術 音楽I、音楽II、美術I、美術II、工芸I、工芸II、書道I、書道II 外国語 英語A、英語B、ドイツ語、フランス語、外国語に関するその他の科目 家庭 家庭一般 家庭、農業、工業、商業、水産、音楽、美術、その他特に必要な教科 中学校の選択教科の外国語は、英語、ドイツ語、フランス語、その他の現代の外国語のうち1か国語を第1学年から履修することを原則とする。 高等学校の現代国語、倫理・社会、政治・経済、数学I、体育、保健は必修。 高等学校の国語科は、古典甲または古典乙Iの1科目を必ず履修(普通・音楽・美術科の生徒は特別の事情のない限り古典乙Iを履修)。 高等学校の社会科は、普通科の生徒は日本史、世界史AまたはB、地理AまたはBの3科目を必ず履修。職業・音楽・美術科の生徒は日本史、世界史AまたはBから1科目、地理AまたはBの1科目を必ず履修。 高等学校の数学科は、普通・音楽・美術科の生徒は数学IIAまたはIIBの1科目を必ず履修。職業科の生徒は数学IIAまたはIIB、応用数学から1科目を必ず履修。 高等学校の理科は、普通科の生徒は物理AまたはB、化学AまたはB、生物、地学の4科目を必ず履修。職業・音楽・美術科の生徒は物理AまたはB、化学AまたはB、生物、地学から2科目を必ず履修。 高等学校の芸術科は、普通・職業科の生徒は音楽I、美術I、工芸I、書道Iから1科目を必ず履修。音楽科の生徒は美術I、工芸I、書道Iから1科目を必ず履修。美術科の生徒は音楽Iまたは書道Iの1科目を必ず履修。 高等学校の外国語はいずれか1科目を必ず履修。 高等学校の家庭科は、普通科の女子生徒は家庭一般を必修。
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1961年(昭和36年)
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「高松市の歴史」の記事における「1961年(昭和36年)」の解説
屋島ドライブウェイが開通する。 国鉄予讃線の高松多度津間複線化工事が起工する。 高松市民会館が竣工する。 宇高国道フェリーが就航する。 第2室戸台風が襲来し、高松気象台開設以来の強風と大雨を記録する。 米国フロリダ州セント・ピーターズ・バーグ市との姉妹都市縁組を結ぶ。 市内バスで初めてワンマンカーが走る。(高松琴平電気鉄道社史によれば日本初)
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1961年(昭和36年)
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「夜の十時劇場」の記事における「1961年(昭和36年)」の解説
鳥井強右衛門(1961年4月15日 / 吉川英治 原作 / 大垣肇 脚本 / 伊藤雄之助、南原宏治、桑山正一、織田政雄 主演) 青べか物語(1961年5月13日 / 山本周五郎 原作 / 若尾徳平 脚本 / 堀雄二、須賀不二夫、花柳小菊 主演) 花影(1961年6月9日 / 大岡昇平 原作 / 馬場当 脚本 / 小田切成明 演出 / 鳳八千代、徳大寺伸、船山裕二、万代峰子、溝田繁 主演) - 関西テレビ製作。 落城(1961年7月1日 / 田宮虎彦 原作 / 久板栄二郎 脚本 / 小川秀夫 演出 / 森雅之、北村和夫、村瀬幸子 主演) 待っていた男(1961年7月22日 / 北上弥太郎、福田公子、嵐吉三郎 主演) 大桶師為三郎(1961年7月29日 / 清水毅 原作 / 霜川遠志 脚本 / 小沢功 演出 / 田崎潤、堀越節子、上月佐知子、天知茂 主演) 母子裸像(1961年8月26日 / 若尾徳平 作 / 丹羽茂久 演出 / 丹波哲郎、野口ふみえ、夏川大二郎 主演) 夜の波紋(1961年9月16日 / 菊島隆三、内川清一郎 脚本 / 小川秀夫 演出 / 鳳八千代、細川ちか子、福田公子 主演) 瞼の母(1961年10月14日 / 長谷川伸 原作 / 矢田弥八 脚本 / 中村勘三郎、中村時蔵、波野千代枝 主演)※ 現代愛(1961年11月25日 / 寺田信義 作・脚本 / 中島寛 演出 / 根岸明美、古畑弘二、安田千永子=荒砂ゆき 主演)
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1961年(昭和36年)
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全国的に猛暑となり、干害が発生した。また、豪雨や台風の接近も多かった。この年は9月以降も高温傾向が著しく、当時としては極めて稀に見る顕著な残暑、暖秋となった。なお、この年は猛暑になりやすいとされるラニーニャ現象は発生していなかった。
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1961年(昭和36年)
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1961(昭和36)年
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宮城魚糧工業株式会社を設立する。 オートメーション設備を独国より導入し、鯨の残滓を利用した配合飼料を製造する。
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1961年(昭和36年)
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「日本におけるアメリカ軍機事故の一覧」の記事における「1961年(昭和36年)」の解説
1月11日 - 神奈川県厚木市妻田にある麦畑に海軍所属のジェット機が墜落して大破。乗員はパラシュートで無事に脱出。 1月11日 - 八丈島の南東約100キロメートルの太平洋上に、1人が乗った海軍所属のF4D戦闘機が墜落。墜落前に無線で脱出するとの連絡があったため、その後数日間にわたり米軍や海上保安庁が付近の海域を捜索したが乗員は見つからなかった。 1月18日 - 10時15分ごろ、神奈川県大和市上草柳の相模鉄道本線の相模大塚駅から東へ約600メートル離れた線路脇に、離陸直後の厚木基地所属のA4D攻撃機が、基地北側のフェンスに張られた鉄線に車輪を接触させたために墜落し大破炎上。乗員1名が逃げ遅れて機内で焼死した。この事故で架線や線路が損傷したため相鉄本線は運行できなくなり、復旧するまで5時間ほどかかった。また電話回線も切断されたため付近一帯で電話が使えなくなった。 3月22日 - 茨城県那珂郡東海村照沼原の畑に米軍機の模擬爆弾が落下した。落下地点からわずか15メートル離れた場所では住民2人が農作業中だったが幸いに無事だった。この爆弾は地中4 - 5メートルの深さにまで突き刺さっており、現場検証にきた米軍は「模擬爆弾だから爆発の危険はないし、深く刺さっているから掘り起こすのが大変だ」との理由でこの模擬爆弾の撤去作業を拒否した。 4月21日 - 岩国海兵隊航空基地所属のA4D攻撃機が厚木基地を離陸直後に高圧電線に接触、藤沢市高倉の民家に墜落。パイロットと住民1人が死亡、2人が負傷した。 4月24日 - 静岡県吉原市(現富士市)の沖に空母レキシントン所属のF-4D戦闘機が墜落。 6月3日 - 東京都青梅市上成木下分二本竹にある雑木林に、横田基地を離陸したジョンソン基地所属のF-102戦闘機が墜落。乗員2名はパラシュートで脱出したが、うち1名は脱出時の高度が低かったためパラシュートが完全に開く前に地面に激突して死亡した。 6月23日 - 伊豆大島の波浮港より南へ約11キロメートル離れた太平洋にB-57爆撃機が墜落。 9月6日 - 茨城県内で米軍のP33機から増槽が落下。民家の屋根に落ちたあと転がって民家の庭先で遊んでいた6歳の児童の上に落下し児童は即死した。 11月2日 - 神奈川県中郡大磯町の南約11キロメートルの相模湾に厚木基地所属のジェット機が墜落。乗員1名は墜落後にゴムボートで漂流したが無事に立川基地のヘリコプターに救助された。 11月20日 - 長野県東筑摩郡麻績村叶里の農家横の桑畑に厚木基地所属のF-4D戦闘機が火を吹きながら墜落。乗員1名はパラシュートで脱出したが地上降下後に死亡した。 11月20日 - 茨城県那珂湊市(現ひたちなか市)にある米軍射爆場を飛行中のB-57爆撃機が、射撃の訓練中に誤って付近の繁華街へ向けて20ミリ機関砲を発射。これにより同市釈迦町の旅館やその近辺の民家8軒などに多数の砲弾が打ち込まれた。この事故により民家の屋根瓦や窓ガラスなどが破損した。現場から警察と住民が合計13発の20ミリ機関砲弾を回収した。この事件では幸いに死者やけが人は出なかった。 11月27日 - 神奈川県横浜市戸塚区瀬谷町本郷3丁目の民家の近くにA4D攻撃機が墜落。乗員1名はパラシュートでの脱出を試みたがパラシュートが開かず、地面に激突して即死。 12月7日 - 沖縄の具志川村(現うるま市)川崎に米軍のジェット機が墜落。住民2名が死亡、4名が重軽傷を負った。 12月7日 - 福岡県福岡市香椎にある民家にF-100戦闘機が墜落。墜落現場のすぐ近くにあった民家3戸は事故機から飛び散ったジェット燃料を浴びて瞬く間に炎上、家の中にいた3名が焼死し、3日後に病院に運ばれていた住民1名も死亡。最終的にこの事故による一般人の死者は4名となった。パイロットは墜落前にパラシュートで飛行機から脱出したものの負傷した。
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1961年(昭和36年)
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「中原淳一」の記事における「1961年(昭和36年)」の解説
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1961年(昭和36年)
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「1961年-1975年の国鉄ダイヤ改正」の記事における「1961年(昭和36年)」の解説
3月1日、まずこの年初の全国ダイヤ改正が実施された。主に急行列車・準急列車の増発と配列見直しが主眼に置かれ、その他東北本線の特急列車「はつかり」の速度向上が図られたり、東海道本線の東海道本線優等列車沿革#黄金時代の電車化がなったりした。 そして10月1日、初めて白紙ダイヤ改正と呼称が使われる大規模なダイヤ改正が実施された。後に鉄道ファンや関係者からは「サンロクトオ」と呼ばれることになる大改正で、それまで限られた線区しか走行していなかった特急列車が気動車を使用することで全国の主要線区で走行するようになり、また急行列車・準急列車も大幅に増発された。詳しくはサンロクトオを参照。
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「1961年」の例文・使い方・用例・文例
- ロケットによる飛行プログラムで、1961年から1963年にかけて米国によって行われ、人類を地球の周回軌道に乗せることを目的とした
- 石油の生産と販売のために共通の政策について同意するために1961年に形勢された国の組織
- 米国の映画俳優で、強く押し黙った英雄の描写で知られる(1901年−1961年)
- 米国の電気技師で、1907年に初の三極真空管の特許権を取り、電波を検出、増幅することを可能にした(1873年−1961年)
- ソビエト宇宙飛行士で、1961年に宇宙旅行をした最初の1人であった(1934年−1968年)
- 米国の心理学者で、子供の発達における研究で知られる(1880年−1961年)
- 米国の作曲家(オーストラリア生まれ)で、ロンドンに住んで、英語のフォークソングを収集した(1882年−1961年)
- 高得点をとるカナダのアイスホッケー選手(1961年生まれ)
- スウェーデンの外交官で、平和維持問題において、国連の影響を大幅に広げた(1905年−1961年)
- 米国の劇作家で、ジョージ・S・カウフマンと合作した(1904年−1961年)
- 米国の小説家で、1954年にノーベル文学賞を受賞した(1899年−1961年)
- スイス人の心理学者(1875年−1961年)
- 米国の劇作家で、モス・ハートを含む他の多くの作家と共同制作をした(1889年−1961年)
- 彼の技能のために全速力で走って、ジャンプする際に(1961年に生まれます)金メダルをオリンピックで獲得した米国の運動選手
- 米国の薬理学者(ドイツ生まれ)で、アセチルコリンが副交感神経と筋肉の間の接合部で生産されることを最初に示した(1873年−1961年)
- 米国の多彩で初期の田園風景の画家(1860-1961年)
- ロシアのダンサー(1938年生まれ)で、しばしばデイム・マーゴ・フォンテーンのパートナーであり、1961年、米国に亡命した
- 米国の建築家(フィンランド生まれ)(1910年−1961年)
- オーストリアの物理学者で、波動方程式を発見した(1887年−1961年)
- 宇宙飛行士で、1961年に初めて米国の準軌道飛行用ロケットで飛行をした(1923年−1998年)
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株式の投資基準とされる売上高伸び率とは、企業の予想売上高が最新の売上高の何パーセント増加しているかを表したものです。予想売上高が伸びればその分、株価も上昇するのが一般的とされています。売上高伸び率は、...
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