農奴制 日本における農奴制

農奴制

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/09 07:36 UTC 版)

日本における農奴制

律令制度では五色の賎は百姓の3割を占めており、私奴婢は子孫に相続させることが可能であった。

室町期の在地領主などが欠落(かけおち)した百姓、下人などを連れ戻すことがあった。百姓は年貢を完納している場合、もとの領主に拘束されることはなかったが、下人は無条件に本主の下に戻された。

戦国時代、下人だけでなく百姓の人返しが分国法、人返し令書、朱印状として発布され、欠落の返還が拡大、強化された。

豊臣政権は兵農分離態勢を確立するために太閤検地、人身売買禁止令、人返し令、武家奉公人身分統制等の政策を推進したが、これらの政策によって生産構造が奴隷制から農奴制に移行したとみなされ、中世から近世への時代区分になったとされている[14][15]。「人身売買禁止令は、中世奴隷制から近世の農奴制へと日本社会を発展させた革命的な政策の一つと見なされることになった」[16]

江戸時代に入ると逃散は厳しく禁じられ、移住も原則として認められなかった。

江戸時代の平均的農民は幕藩領主によって土地緊縛されているところから、広義における農奴とみなし、生産物地代負担という点から、狭くは隷属とする定説が広く認められている[17]

1557年、ガスパル・ヴィレラは日本には貴族と僧侶、農民の社会階層があると論じ、貴族と僧侶は経済的に自立しているというが、農民は前二者のために働き、自分たちにはごくわずかの収入しか残らない奴隷状態にあると述べている[18]

ポルトガル人は日本社会での農家使用人(小作人)を奴隷に分類した。コスメ・デ・トーレスは日本の社会について以下のように語っている。

(日本の社会において)使用人(小作人)や家内奴隷は地主に仕え、ひどく崇拝する。なぜなら、どんな質の高い人でも使用人に不従順なところがあれば、殺してしまえと命令するからである。そのため使用人たちは主人にとても従順で、主人と話すときは、たとえとても寒いときでも、いつも頭を下げてひれ伏している[19][20]

コスメ・デ・トーレスは日本人の主人は使用人に対して生殺与奪の権力を行使することができるとして、ローマ法において主人が奴隷に対して持つ権利 vitae necisque potestas を例証として使い、日本における農民等の使用人の地位は奴隷のものであるとした[21]。このように日本における小作人の地位は農奴ではなく奴隷とされた。

中世の日本社会では、百姓は納税が間に合わない場合に備えて、武家の検断人から自分や他人を人質として差し出すことを求められ、税金を全額完納出来ない場合は全ての資産家財を没収した上で人質が売却され奴隷身分へ落とされる等、農民から奴隷への身分落ちは普遍的に認められ、中世前期農村では農家の存続する平均世代数が3~4代である等、農家の維持は簡単な事では無かった[22]

下人と所従

戦国時代に来航したポルトガル商人は主従関係に拘束され自由でない身分を奴隷と考えており、ポルトガル人の理解する奴隷には様々な身分が含まれたことが指摘されている[23][24]

それでは彼らが日本人の奴隷と考えたのは日本のどのような身分の者であったのか。……『日葡辞書』をみると、奴隷を意味する criado, servo とか captivo の語は、Fudaino guenin(譜代の下人)、Fudaino mono(譜代の者)、Fudasodennno mono(譜代相伝の者)、Guenin(下人)、Xoju(所従)、Yatçuco(奴)等の語にあてられている。彼等が日本の奴隷と解した、譜代の者とか譜代相伝とか称せられた下人や所従は、終生或は代々に渡り、農業労働や家内労働に使役されていたし、実際国内では人身売買の対象となっていた[23] — 人身売買 (岩波新書)、牧 英正、1971/10/20, p. 60

奴隷という用語が労働形態、社会集団を隠蔽することで、ポルトガル人が理解していた奴隷の概念の詳細が把握されてこなかった。

ポルトガル語で「奴隷」という語は一般的に「エスクラーヴォ escravo」と表される。日本でポルトガル人が「エスクラーヴォ」と呼ぶ人々には、中世日本社会に存在した「下人」、「所従」といった人々が当然含まれる。しかし、日本社会ではそれらと一線を画したと思われる「年季奉公人」もまた、ポルトガル人の理解では、同じカテゴリーに属した[24] — 日本史の森をゆく - 史料が語るとっておきの42話、東京大学史料編纂所 (著)、 中公新書、2014/12/19、p77-8.

ポルトガル人は日本人が一般的な雇用形態とみなした年季奉公人も不自由な封建的主従関係である事から奴隷とみなすなど、各種奉公人はポルトガル人の基準では奴隷であった[24]。ポルトガルでは不自由な主従関係における従属は奴隷であり、私的に使役される傭兵(武家奉公人)や銭雇いの雑兵も奴隷の名称で分類された[25]

年季奉公人

日本においては、中世に始まる下人(永年奉公)が年季奉公の形を取り始めるのが江戸期であり、農村奉公人、武家奉公人、町家奉公人などの種類によって分けられる。江戸時代の代表的奉公には、子子孫々に至るまでの事実上の永代の身売りつまり奴隷である譜代奉公、身代金を支払って請戻す本金返年季奉公、借金担保人質として奉公人を金主に渡し質流になれば上記の譜代奉公に転じる質物奉公、そして年季を定めた年季奉公があった[26]

江戸時代前期の主流は先祖から奴婢下人の系譜を引く者や刑罰,年貢未納,永代身売り,誘拐,人質の質流れ等に因る終身又は永代の永年奉公や譜代奉公で、後期の主流は農村から都市への様々な形式の身売りに因る年限を限って売られた流入民であり、共に奉公人は人身売買の対象となったが、後者はより雇用関係要素が強い。江戸幕府は法律上は金銭による終身の奴隷契約を禁止したが、実際においては父や兄が子弟を売ることは普遍的且つ一般的に存在し結果的に終身になる事も珍しくなかった、また年限を限った主従契約である年季買いは非合法でなかった[26]。主人と奉公人との間には法律が適用されず家父長権に因る主人の私的制裁権が認められ、忠誠の関係があるべきものとされた。奉公人は主人を訴えることが許されず、日本国外で呼ぶところの奴隷であった[27]

幕府は元禄11年(1698年)には年季制限を撤廃して永年季奉公や譜代奉公(永代の世襲身分)を容認した[28]

美濃国安八郡西条村の例では、1773年から1825年の間に奉公を経験した者は男子50.3%、女子62%に達した。(11歳に達した者に対する率)[29]

時効・相続

貞永元年8月10日(1232年8月27日)に制定された御成敗式目では、賤民、下人等の雑人は(逃亡等から)10年以上放置すれば(人返しされなければ)所有権は無効と定められた。

本百姓と世襲的な借家・小作関係にある譜代下人も存在した。地方によっては家抱、門屋、庭子、内百姓、名子と呼ばれ、強い隷属性を特徴とし、村内での地位は農奴である水呑百姓以下の奴隷で、地域によって異なるが人口の10%程度存在していた。

作手、領主との請負関係

中世ヨーロッパの農奴は耕作した土地の耕作権および相続権を持ち、移動・職業の自由を金銭的に購入することができたが、中世日本の作手には耕作権、専有権しかないとの従来からの通説と、領主の持つ上級所有権に対して不文律的な下級所有権が一部にあったとの異説が混在する。

前者の説では、移動や職業選択が制限され耕作権しかもたない百姓は中世ヨーロッパの農奴と比較されてきた[30]

後者の説では不文律的な下級所有権を持つとされる本百姓は、自由権と土地所有権が成文法で保障された中世ヨーロッパの独立自営農民との対比が試みられてきた。但し、水呑百姓下人の隷属的な請負関係は耕作権ではなく労働力の供出義務であるから影響しない。中世も時代が下り室町時代後期に至ると、土地の耕作権、占有権の売買が見られる様になる、これは前述の不文律慣習的な下級所有権の観念が無ければ行われない。

作手は有期耕作権、永作手は永代耕作権として区別する見解が有力であるが、一部に同一とする見方もある。

地主制度への移行

明治期、地租改正によって土地の私的所有権が成文法で確立されたが、高額な税率によって地主制度が形成された。

1947年、GHQ地主制度を解体するために農地改革を行った。財界人や皇族・華族といった地主層の抵抗が強く、GHQの威を借りる形で行われた。全農地面積の約47%が買収され、小作人の家に売り渡された。


  1. ^ a b Mackay, Christopher (2004). Ancient Rome: A Military and Political History. New York: Cambridge University Press. p. 298. ISBN 0521809185 
  2. ^ Finley, Moses. The Ancient Economy. Berkeley: University of California Press, 1999. p. 92
  3. ^ Finley, Moses. The Ancient Economy. Berkeley: University of California Press, 1999. Foreword by Ian Morris. p. xviii-xix
  4. ^ Ways of ending slavery
  5. ^ Sept essais sur des Aspects de la société et de l'économie dans la Normandie médiévale (Xe-XIIIe siècles) Lucien Musset, Jean-Michel Bouvris, Véronique Gazea, Cahier des Annales de Normandie 1988, Volume 22, Issue 22, pp. 3–140
  6. ^ Bishop, Morris. (2001) The Middle Ages. Houghton Mifflin Harcourt, p.296.
  7. ^ Hollister, Charles Warren; Bennett, Judith M. (2002) (英語). Medieval Europe: A Short History. McGraw-Hill. pp. 171. ISBN 978-0-07-112109-5. https://books.google.com/books?id=G5chAQAAIAAJ&q=serf+richer+free 
  8. ^ Bailey, Mark (2014) (英語). The Decline of Serfdom in Late Medieval England: From Bondage to Freedom. Boydell & Brewer Ltd. pp. 63. ISBN 978-1-84383-890-6. https://books.google.com/books?id=SLjCAwAAQBAJ&q=manumission+serf&pg=PA64 
  9. ^ Richard H. Helmholz, Fundamental Human Rights in Medieval Law, University of Chicago Law School, 2001, p.3
  10. ^ Brian Tierney, Medieval Poor Law: A Sketch of Canonical Theory and its Application in England (University of California Press, Berkeley and Los Angeles 1959), pp. 37-38.
  11. ^ a b 『世界史を読む事典』(1994)p.105
  12. ^ 松原は「産業革命以前のヨーロッパの農民に関する資料を調べた時に、必ず出遭う農民の姿、生活である」と述べている。(松原久子『驕れる白人と闘うための日本近代史』 [要ページ番号]
  13. ^ 土肥(1996)
  14. ^ 下重清『〈身売り〉の日本史——人身売買から年季奉公へ』吉川弘文館、2012年、115頁
  15. ^ 嶽本新奈『境界を超える女性たちと近代 ——海外日本人娼婦の表象を中心として — —』一橋大学、博士論文、p. 14
  16. ^ 下重清『〈身売り〉の日本史——人身売買から年季奉公へ』吉川弘文館、2012年、8頁
  17. ^ 小学館 2021, p. 「農奴制」.
  18. ^ Juan Ruiz-de-Medina (ed.). Documentos del Japón, 2 Vol. Rome: Instituto Histórico de la Compañía de Jesús, 1990-1995. II, pp. 695-8, p705
  19. ^ Tōkyō Daigaku Shiryō Hensanjo (ed.). Nihon Kankei Kaigai Shiryō –Iezusu-kai Nihon Shokan, Genbun, 3 volumes. Tokyo: Tōkyō Daigaku Shiryō Hensanjo, 1990-2011. I, p. 170
  20. ^ Juan Ruiz-de-Medina (ed.). Documentos del Japón, 2 Vol. Rome: Instituto Histórico de la Compañía de Jesús, 1990-1995. I, p.216
  21. ^ WESTBROOK, Raymond. “Vitae Necisque Potestas”. In: Historia: Zeitschrift für Alte Geschichte, Bd. 48,H. 2 (2nd quarter, 1999). Stuttgart: Franz Steiner Verlag, 1999, p. 203
  22. ^ MIZUKAMI Ikkyū. Chūsei no Shōen to Shakai. Tokyo: Yoshikawa Kōbunkan, 1969.
  23. ^ a b 人身売買 (岩波新書)、牧 英正、1971/10/20, p. 60
  24. ^ a b c 日本史の森をゆく - 史料が語るとっておきの42話、東京大学史料編纂所 (著)、 中公新書、2014/12/19、p77-8
  25. ^ BOXER, Charles R. Fidalgos in the Far East (1550-1771). The Hague: Martinus Nijhoff, 1948, p.234.
  26. ^ a b 丹野勲『江戸時代の奉公人制度と日本的雇用慣行』国際経営論集 41 57-70, 2011-03-31, p. 58
  27. ^ 丹野勲『江戸時代の奉公人制度と日本的雇用慣行』国際経営論集 41 57-70, 2011-03-31, p. 62
  28. ^ 丹野勲『江戸時代の奉公人制度と日本的雇用慣行』国際経営論集 41 57-70, 2011-03-31, p. 61
  29. ^ 速水融, 『歴史人口学で見た日本』, 文藝春秋.
  30. ^ Strayer, Joseph R. Western Europe in the Middle Ages. Longman Higher Education, 1982. ISBN 978-0673160522.
  31. ^ チベット旅行記(西蔵旅行記) 河口慧海”. 青空文庫. 2021年12月4日閲覧。





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