禅 霊魂(精神の永遠性、小我)の否定

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/24 01:41 UTC 版)

霊魂(精神の永遠性、小我)の否定

禅宗(特には臨済宗)では肉体と精神とは同一のものと考え、区別をしない。肉体があるから精神もありうるのであり、精神があるというならばそこには発生原因として肉体がなければならない。そのような意味で、肉体がそのまま精神であり、精神は肉体である。もし死体を見て、肉体は滅んだが精神はどこかへ移動して不滅のまま残っていると考えるならば、これは大乗仏教ではない。霊魂の存在を認めると生と死に関する深い執着が発生するため、仏道成就を阻害するとされる。

禅宗では、心というものは刻一刻と変化しており、これこそ我が心であるといえるような一定の形態を持たないと考える。したがってこの心は実は幻の心である。この点では肉体についても同様のことが言え、肉体だと思っているものは実は物質が縁によって和合して仮に人間のすがたが現れたものにすぎず、縁が滅ぶ時には元通りバラバラになるためまったく実体がない。したがって心身はもとより一つの幻である[注 25]。幻だから、生きたり死んだりするものではない。生きたり死んだりしないから、常住不滅である[注 26]

もし悟った禅僧が、心身は一如であり肉体も精神も不滅であるというならば、これは仏性を直指した奥の深い説法であるといえる(無常喝: 諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽)。

日中の禅宗比較

中村元は『日本人の思惟方法』において、民族性からくる思惟傾向に応じた日本と中国の仏教の性質の相違について考察し、禅宗においても日本と中国とでは教義が同一でなく、中国人の思惟方法が非論理的かつ苛酷残忍であることを反映するかたちで、中国の禅宗も隠遁的・独善的であるのに対し、日本人の思惟方法が寛容と愛情を強調することを反映するかたちで、日本の禅宗も宥和的・慈悲的なものへと変化しているのだという。中村は日本人の思惟の特徴に寛容性があるとして、これを反映して日本の禅宗は宥和的・慈悲的なものへと変化しており、日本人は国内においてもそれはそれでゆゆしき宗派であるとして敬意を払いながらも、ただ自分は別の道を行くというだけであって、キリスト教でいうプロテスタントのように論理的に争おうとはしなかった、と主張した。

日本の仏教は諸宗派がそれぞれの特徴を保持したまま今日まで維持発展しており、禅宗においてもこれは同様であるが、宗教法人制度が確立される明治初期頃までは禅宗内で臨済曹洞の宗を超えて他派の修行道場で指導者に師事する「遍参」という修行習慣が残っていた。一方、後の中国では禅宗(とりわけ臨済宗)を称するものが多数派、内容的には念仏禅が主流となり、文革の宗教弾圧後の復興を経た現在の中国大陸においては、清代の史跡を中心とするチベット仏教の寺院が都心部などで散見されるほかは、浄土教的要素が混淆した禅宗が一様化して残るのみとなった。結果として、二種類の中国禅や日本禅の古法の一部を継承する台湾や香港、華厳禅(曹渓宗)の韓国を除けば、今日の中国大陸では日本にあるようなセクト主義的な諸宗派の伝統はほぼ消失している。

世界の禅

禅者でもある仏教学者の鈴木大拙によって20世紀に日本からアメリカヨーロッパへと禅が紹介された。更にはサンフランシスコ禅センターを開創した鈴木俊隆によるZen Mind, Beginner's Mind や、弟子丸泰仙によってヨーロッパでの布教により、日本語の発音による Zen が世界的に広まり、臨済宗、曹洞宗共にアメリカやヨーロッパに寺院を構えている。カトリックでも習慣で元々瞑想が存在していたため、一部で取り入れられている。

近年において

現在[いつ?]ベルギーではセクト(カルト)に関する報告書政府文書により禅がセクト(カルト)の一つとして分類されている。1997年にフランスドイツオーストリアに続き、セクト(カルト)に対する政策を作るためベルギー代議院の社会正義委員会で審理委員会が設けられた。同委員会が作成した、670ページにわたる報告書に取り上げられた189の運動の中に禅も含まれている。ただし、「このリストに載っている事実は、公訴の調査中であったとしても、当委員会がその運動をカルトと見做しているとは意味しない」とも記されている。




  1. ^ 了義(りょうぎ)。解りやすく崩したり表現を変えるようなことをせず、完全・明白に説かれた教え。『涅槃経』の四依品には、末代の人は了義によるべきであり、不了義によってはならないとある。
  2. ^ 棄悪(きあく)。心の正しき働きを覆い隠すような一切の悪を捨て去る
  3. ^ 功徳叢林(くどくそうりん)。衆徳のあつまること叢林のようである。
  4. ^ 念修(ねんしゅう)。修は習得すること。習得して得られるものは棄悪・功徳叢林である。
  5. ^ 悟りは文字によって得ることはできないとはいえ、沈黙によっても得ることができないとされるため、一切の説明を行わないということはなく、臨機応変な方便として様々な方法で説かれる
  6. ^ 教外別伝(きょうげべつでん)。人格を相伝すること。文字や言葉を残す以外にも、禅師の全人格をそのまま弟子に伝えることが重要であるとされる。
  7. ^ 師資相承(ししそうしょう)。 悟りの機微は師から弟子へと受け継ぐべきものであり、それが法脈となって後世の人々を救う。生きた仏として残るため個別のケースに応じた柔軟な指導が可能となる。そのため固定の戒律を持たず、固定の修行方法を持たず、特別な本尊を定めることもなく、必ず出家しなければならないというような決まった形もない。
  8. ^ 臨機応変(りんきおうへん)。 例えば、あまりに経典を大切にしすぎる人には、正法眼蔵も世尊拈華も真実の悟りから見れば寝言のようなものであるといって捨てさせたり、あまりに経典を軽んじすぎる人には読経を勧めたりといったことである。
  9. ^ 実は『六祖壇経』に慧能は「本来正教無有頓漸(正しい教えに本来は頓も漸もない)」と説いている。従って差異があると主張していたのは神会である。
  10. ^ 教宗では俗人と仏とを別々のものと考えた上で仏性という言葉を使うが、禅宗では俗人も欲を除けばそのまま仏であるという意味で仏性という。全ての人がそなえていると書いたが実際は人に限らず生きとし生けるものすべてが円満に持っており、姿形は動物によって違うが仏性は平等であるとされる。ただし、このように読んで頭で理解するにとどまって体感を伴わないことを嫌うのが禅宗である。
  11. ^ 悟って如来と同じ境地に入ること。体験を経てから涅槃に至るまでの一連の流れについて頓悟漸悟あるが、人の利鈍によって早い遅いがあるにすぎない。
  12. ^ 不立文字・教外別伝(ふりゅうもんじ・きょうげべつでん)。言葉や文字によらず、直に本性を指し示すこと。教宗にはない禅宗の特徴とされる。例えば、月とはこういうものだと口で言って説明するのではなく、黙って月を指さすようなものである。ところが、その指を見ても何のことかわからずに、指の長短や肌の濃淡を論じるような者のために教宗があるとする。ただし、禅宗が指すものは悟りの境地であり、教宗が指すものも悟りの境地である。それゆえ禅・教は表裏一体のものであり、禅の中に教があり、教の中に禅があるため、双方を両立するに何ら矛盾はなく、特に他宗派を誹謗する者に対しては禅教の両立が推奨される。
  13. ^ 有田秀穂 東邦大学医学部生理学教授
  14. ^ 世尊拈華、迦葉微笑(せそんねんげ、かしょうみしょう)。故事。釈迦が入滅するに際し、大衆居並ぶ説法の席で一枝の蓮華を拈って見せた。みな何のことかわからず押し黙るなか、ひとりマハーカーシャパだけが微笑してうなずいた。それを見た釈迦はマハーカーシャパが悟りを開いたことを知り、我が不立文字・教外別伝の正法はあなたにゆだねると言って仏法伝授の使命を授けたというもの。
  15. ^ 到達するといっても、なにか悟りという別の境地があってそこへ向かって進むわけではなく、その境地が元々の自分(いわば出生以前の自分)であり、その境地が底なのである。
  16. ^ 外道とは仏教以外の宗教者のこと
  17. ^ 壁は、外から来る妄念から内心を守り隔てるものの例えである。のちになって、物質的な本物の壁の意味に解されたが、これは誤りであろう。(柳田聖山『達磨の語録』P51)
  18. ^ 身口意の三業(しんくいのさんごう)。みだりに殺すこと、盗むこと、犯すこと、罵ること、騙すこと、綺語を言うこと、詭弁を言うこと、貪ること、怒ること、邪なことの十悪。
  19. ^ 身口意の三業。来世の生存は業を因縁として決定する。悪業に限らず、善業であっても善果としての来世が決定してしまうため、輪廻を逃れることができない。そのため善悪そのものを離れてしまうことが重視される。そして苦楽や生死についても同様に、とらわれないことを重視する。生死にとらわれなければ、輪廻もまた消滅するので、すべてが寂滅した世界観が開ける、というような意味である。しかし、このように学んだだけで実感を伴った悟りに至る人はまれである。それゆえ禅宗では話をせず、一切を投げすてて悟りの本分に直行させるために教外別伝を行う。
  20. ^ 禅宗以外の仏教宗派では衆生を成仏させきってから自らが成仏するのが菩薩であるとされるが、禅宗では先に自らが成仏して如来となってから衆生を導くことを謳う。この両者は手段が違っているだけで、衆生を済度しようという目的は同じであるため、どちらが間違っているということはない。もしこの両者について正誤にとらわれる者があるならば、彼は自分自身が小乗に陥っていないか省みる必要があるとする。
  21. ^ 睡眠中も無意識ではあるが、眠りという無明が付着しているために夢を見て一喜一憂する。理法に目覚めながら目覚める対象にとらわれないのが仏である。
  22. ^ 只管打坐(しかんたざ)。真実の只管打坐は単なる無念無想や無意識というようなものではなく、意識があるでもなくないでもなく、無念でも有念でもなくて、心身が澄み渡った空のように清くありのままを映し出す鏡のように感じられるところにあるとされる。ただし、この境地すらいまだ大悟徹底ではない。しかし大悟徹底の前段階であるとして歓迎される。
  23. ^ 修証一如(しゅしょういちにょ)。坐禅は、まだ悟っていない者が修行によって悟りに到達するようなものではなく、生来的に仏性を持っている(悟っている)はずの者が改めて修行をするのであって、それは修行がそのまま悟りなのであるという意味の喝。どんな凡人・外道も本質は仏なのであって、もともと悟った仏である者が、ことさら悟りを求めて坐禅するということがあってはならない。仏が仏になることを目指すというのであれば、大乗仏教が元々仏たる性質を指摘する本意に反するからである。
    このように、心そのものが即そのまま仏であると教えるのは、悟り・涅槃・仏性に執着させないための方便である。
  24. ^ 心がけの良くない修行者とは、はじめから本気で仏道を求める気持ちが無く、禅僧としての名声を求めていたり、金稼ぎを目論んでいたり、他人に言い負かされたくない一心で、あるいは知識をひけらかすために経典の学習を優先し、初心者に対して褒め貶しを行うような者。
  25. ^ 心身は幻であると聞けば、諸行無常のことを言っているのだと理解するかもしれないが、大乗教では実体がないことを理由に固定観念をうち破って中道に至らせる意味で使う。水面に映った月は、実相であるとは言えないが、確かに姿を映しているように見えるから実相ではないとも言えない。有るわけでもなし無でもなし、しかし有でもあり無でもあるという中道にこそ実相があるという意味である。禅宗では、世界はこのように曖昧であるから捨て置け、坐禅せよと教える。
  26. ^ 唯識では迷妄と悟りが調和した境地を第八識、常住不滅の衆生の本心を第九識などと区別して教えた。




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