特別攻撃隊
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特攻隊員
主として特攻隊に所属し、体当り攻撃に従事する部隊の構成員を指す。 特攻隊員を指した造語として「特攻兵」という言葉が戦後の著作物に使用されたが、「特攻兵」という兵種は陸軍・海軍とも存在しない。
構成と戦死者数
1945年1月25日までのフィリピンでの航空特攻は、特攻機数は海軍333機、陸軍202機。戦死者は海軍420名、陸軍252名であった。沖縄への航空特攻は海軍1026機、1997名、陸軍886機、1021名を数える。
特攻隊は主に現役士官/将校(含む海軍特務士官)と予備役士官(将校)と准士官、下士官で構成されていた。
海軍では現役士官は主に海軍兵学校卒業生と下士官からの昇進者である特務士官からなり、陸軍では主に陸軍士官学校・陸軍航空士官学校(士官候補生)の卒業生と准士官・下士官のうち陸士に短期間学び少尉に任官した者(少尉候補者)で構成されていた。予備役士官は海軍は主に飛行予備学生、陸軍は主に甲種幹部候補生と特別操縦見習士官出身者から構成されていた。下士官は主に海軍は海軍予科飛行練習生、陸軍は主に陸軍少年飛行兵出身であり、特攻出撃人数は圧倒的に多く、特攻隊編成上の主軸となった。
特攻隊員で最年少は海軍甲種飛行予科練習生第12期後期生の西山典郎2飛曹であり、1945年3月18日に所属の762空攻撃262飛行隊で編成された「神風特別攻撃隊・菊水銀河隊」の一員として、指揮官松永輝郎大尉の乗機銀河の電信員で特攻出撃した時の年齢は16歳であった[558]。最高齢且つ最高位は、玉音放送後に沖縄に突入して消息不明となった宇垣纏中将で、享年55歳であった。
第4航空軍司令官として特攻を含むフィリピン航空戦を指揮した冨永恭次陸軍中将の長男である冨永靖を始め、阿部信行朝鮮総督(陸軍大将、第36代総理大臣)、松阪広政司法大臣といった陸軍および政府高官の子息も特攻隊員ないし特攻で戦死している。
海軍の全航空特攻作戦において士官クラス(少尉候補生以上)の戦死は769名。その内飛行予備学生が648名と全体の85%を占めた[559]。これは当時の搭乗員の士官における予備士官の割合をそのまま反映したものといえる。
あ号・捷号・天号作戦期間中の海軍搭乗員の戦死者数を下表[560] に挙げる。比島戦期間中の数字には同時期に行われた501特攻隊・第一御盾隊の戦死者数が含まれる。
階級 | あ号作戦期間中の戦死者数 | 構成比率 | 捷号作戦期間中の戦死者数 | 構成比率 | 天号作戦期間中の戦死者数 | 構成比率 | 搭乗員戦死者合計 | 構成比率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
現役士官 | 99名 | 6.5% | 185名 | 9.9% | 190名 | 6.6% | 474名 | 7.6% |
予備士官 | 23名 | 1.5% | 163名 | 8.7% | 963名 | 33.6% | 1,149名 | 18.3% |
特務士官 | 38名 | 2.5% | 30名 | 1.6% | 55名 | 1.9% | 123名 | 2.0% |
准士官 | 115名 | 7.5% | 124名 | 6.6% | 67名 | 2.3% | 306名 | 4.9% |
下士官兵 | 1,257名 | 82.0% | 1,371名 | 73.2% | 1,591名 | 55.5% | 4,219名 | 67.2% |
合計 | 1,532名 | 100.0% | 1,873名 | 100.0% | 2,866名 | 100.0% | 6,271名 | 100.0% |
※海軍の戦死者の内、特攻戦死者として認定されたのは捷号作戦期間中戦死者数1,873名中419名(22.4%)、天号作戦期間中戦死者数2,866名中1,590名(55.5%)。
顕著に増加したのは天号作戦期間中の予備士官の戦死である。これは、海兵・陸士出身の現役航空士官がそれまでの激戦で多大な戦死者を出し枯渇していたのに対し、この頃から予備士官の実戦配備が軌道にのり、天号作戦時点では士官の数的主力を占めていた為である。
下表[560] は昭和20年4月1日と7月1日現在の海軍航空隊の搭乗員構成比率である。すでに予備士官は現役士官の5倍近い数に達しており、この後さらに終戦までに海兵出身士官の補充0名に対して予備士官は実に6279名が新たに戦列に加わった。終戦時点で海兵出身士官1034名に対して予備士官は8695名にも及んでおり、全体の9割を占めるに至っていた[559]。
一部で海兵や陸士の現役士官/将校は、予備役士官/将校と比較し温存されていたとの指摘があり[561]、なかには、特攻隊員の70%が学徒出陣のエリートであったなどと、下士官や兵卒の特攻隊員を無視した誤った認識を持つものもいるが[562]、特攻主体の作戦となった、捷号作戦や天号作戦の搭乗員戦死者の現役士官と予備士官の構成率は、上記の通りの大戦末期の海軍航空隊士官における、現役士官と予備士官の構成率と変わらず、数字を比較する限りでは現役士官が温存されていたという事実は読み取れない。特攻に限らず海兵卒業生の戦死率は非常に高く、海兵68期卒業生288名の内191名が戦死し戦没率66.32%、海兵69期卒業生343名中222名戦死し戦没率64.72%、70期は433名中287名戦死し戦没率66.28%と高水準となっている[563]。特に、航空士官の死亡率が高く、例えば1939年に卒業した第67期は全体では248名の同期生の死亡率は64.5%であったが、そのうち86名の航空士官に限れば66名死亡で死亡率76.6%、特に戦闘機に搭乗した士官は16名のうちで生存者はたった1名、艦爆搭乗の士官の13名に至っては全員死亡しており、温存という言葉とはかけ離れている[564]。これらは陸軍でも同様である。
階級 | S20.4.1現在数 | 構成比率 | S20.7.1現在数 | 構成比率 |
---|---|---|---|---|
現役士官 | 1,269名 | 5.3% | 1,036名 | 4.7% |
予備士官 | 5,944名 | 25.0% | 5,530名 | 24.8% |
特務士官 | 675名 | 2.8% | 901名 | 4.0% |
准士官 | 827名 | 3.5% | 714名 | 3.2% |
下士官兵 | 15,114名 | 63.0% | 14,096名 | 63.3% |
合計 | 23,829名 | 100.0% | 22,277名 | 100% |
なお、回天搭乗員については、海軍兵学校と海軍機関学校卒の現役士官の戦没者数が予備士官の戦没者数を上回っており、戦没率も約2倍に達している[565]。
階級 | 搭乗員数 | 戦没者数 | 戦没率 | 戦没者内構成比率 |
---|---|---|---|---|
海軍兵学校卒 | 89名 | 19名 | 21.3% | 17.9% |
海軍機関学校卒 | 32名 | 12名 | 37.5% | 11.3% |
予備士官 | 196名 | 26名 | 13.2% | 24.5% |
一般兵科 | 9名 | 9名 | 100% | 8.4% |
予科練習生卒 | 1,035名 | 40名 | 3.8% | 37.7% |
合計 | 1,361名 | 106名 | 7.8% | 100% |
特攻隊員戦死者数[566]。
- 航空特攻
- 海軍航空特攻隊員:2,531名
- 陸軍航空特攻隊員:1,417名
- 合計:3,948名
- 海中特攻
- 回天特攻隊員:106名
- 特殊潜航艇(甲標的・海竜)隊員:440名
- 合計:546名
- 海上特攻
- 震洋特攻隊員:1,081名
- 海上挺進戦隊員(マルレ):263名
- 合計:1,344名
出撃した特攻隊の一覧
特攻隊員の著名人
選抜方法
日本海軍
海軍では、特攻は志願を建前に編成していたが、募集方法や現場、時期、受け取り方により実態は異なっていた。中島正飛行長によれば、特攻の編成はだいたいこれだと思うものを集めて志願を募っていたという[567]。「たとえ志願者であっても、兄弟の居ない者や新婚の者はなるべく選考から外す」とされたが、戦局が極度に悪化した沖縄戦後半頃の大量編成時には、その規定が有名無実化した部隊もあった。また大戦末期には、飛行隊そのものが「特攻隊」に編成替えされた[568]。
終戦後のアメリカ戦略爆撃調査団の事情聴取で、海軍兵学校卒の現役士官4名、学徒出陣の予備士官2名が、アメリカ軍ヘラー准将の「特攻は強制であったか、志願であったか?」との質問に対し、兵学校出身の現役士官は「全て志願であった、しかしフィリピンでは戦況によって部隊全部が特攻出撃したこともある。」「内地で募集した際も殆ど全員が熱望し、中には夜中に学生から何度も起こされて自分を第一番にしてもらいたいと言われたこともある。また一人息子だから対象者から外したら、母親から息子を特攻隊員にしてほしいとの嘆願書が来たこともあった」と答えている。また学徒出陣の予備学生の2名も「学徒出陣の我々は軍人精神を体得した者とは言えないが、一般人として戦況を痛感し、特攻が最も有効な攻撃法と信じた。我々が身を捧げる事により、日本の必勝を信じ、後輩がよりよい学問を成し得るようにと考えて志願した」と答えている。このやり取りの中で「アメリカの青年には到底理解できない。生還の道を講ずることなく、国家や天皇の為に自殺しようとする考え方は考える事ができない」と言っていたヘラー准将も、最後には「特攻隊の精神力をやや理解できた。君らのいう事は理に適っており、アメリカ人にも理解できると思う」と話している[569]。
特攻兵器の部隊は比較的早い段階から特攻要員が集められ、実験や訓練に従事していた。
坂本雅俊(回天要員)は戦局を挽回する兵器とだけ知らされ志願したという[570]。竹森博(回天要員)によれば、志願は希望する者は○を、しないものは白紙を出し、志願したのに選出されなかったものは教官に詰め寄ったという。決まった後も回天を見せられ、特攻の説明があり、もし嫌なら原隊へ返すと説明されたという[571]。
桜花搭乗員の募集は、1944年8月中旬から始まっており、海軍省の人事局長と教育部長による連名で、後顧の憂いのないものから募集するという方針が出されている[572]。台南海軍航空隊では、司令の高橋俊策大佐より、搭乗員に対して「戦局は憂うべき状況にあり、中央でとても効果が高い航空機が開発されているが、それは死を覚悟した攻撃である」との説明があり、「確実に命を落とすが、現状打破にはこの方法しかない、海軍としてはやむを得ない選択であり志願を募る」と告げた。ただし妻帯者、一人っ子、長男はその中から除外された。3日間の猶予を与えられたが、鈴木英男大尉は「自分の命を引き換えに日本が壊滅的な状況になる前に、有利な講和交渉に持ち込める一助になれば」という気持ちで志願したという[573]。他の桜花搭乗員では、佐伯正明によれば一人ずつ呼ばれ説明を受け行くか聞かれて志願したという[574]。湯野川守正によれば、詳細は伏せられて、必死必中兵器として募集があり、志願したという[575]。
最初の神風特攻隊編成では、編成を一任された玉井浅一によれば、大西の決意と特攻の必要性を説明して志願を募ると、皆喜びの感激に目をキラキラさせ全員もろ手を上げて志願したという[576]。しかし当時の志願者の中には、特攻の話を聞かされて一同が黙り込む中、玉井中佐が「行くのか行かんのか」と叫び、さっと一同の手が上がったと証言するものもいる[577]。志願した浜崎勇によれば「仕方なくしぶしぶ手をあげた」という[578]。志願者した山桜隊の高橋保男によれば「もろ手を挙げて志願した。意気高揚した。」という[579]。志願した佐伯美津男によれば強制ではないと説明されたという[580]。志願者の井上武によれば、中央は特攻に消極的だったため現場には不平不満がありやる気がうせていた、現場では体当たり攻撃するくらいじゃないとだめと考えていた、志願は親しんだ上官の玉井だからこそ抵抗もなかったという[581]。
特攻第一号の隊長関行男大尉は海軍兵学校出身者という条件で上官が指名したものであった。人選に関わった猪口力平によれば副長の玉井浅一が関大尉の肩を抱くように軽く叩きながら「零戦に250kg爆弾を搭載して敵に体当たりをかけたい(中略)貴様もうすうす知っていると思うが、この攻撃隊の指揮官として貴様に白羽の矢を立てたい」と涙ぐみながらたずねると、関大尉は両肘を机の上に付き頭を両手で支え、5秒程度黙止熟考した末に、静かに頭を持ち上げながら「ぜひやらせてください」とよどみのない明瞭な口調で答えたという。[582] しかし、その玉井浅一によれば関は「一晩考えさせてください」と即答を避け翌朝受けると返事をしたという。報道官に関は「KA(妻)をアメ公(アメリカ)から守るために死ぬ」と語った[583]。
フィリピンの201空の奥井三郎は志願は氏名を書き封筒に入れ提出する方法で募集されたという[584]。クラーク基地で神風特攻隊の志願者は前へと募集がかかると全員志願したため、多いので選考し連絡するということになった。志願者杉田貞雄によれば葛藤もあったが早いか遅いかの違いで行くものは誇るように残るものは取り残された気分になったという[585]。
菅野直大尉は特攻に再三志願したものの技量が高く直掩、制空に必要なため受理されなかった[586]。杉田庄一は笠井智一とともに、玉井浅一司令に特攻を志願したが、却下され、代わりに墓参りを頼まれて内地への帰還命令があった[587]。
角田和男少尉によれば特攻出撃前日の昼間に喜び勇んで笑顔まで見せていた特攻隊員たちが、夜になると一転して無表情のまま宿舎のベッドの上でじっと座り続けている光景を目の当たりにし、部下に理由を尋ねたところ、目をつぶると恐怖から雑念がわいて来るため、本当に眠くなるまであのようにしている。しかし朝が来ればまた昼間のように明るく朗らかな表情に戻ると聞かされ、どちらが彼らの素顔なのか分からなくなり割り切れない気持ちになったという[588]。角田少尉は1944年11月11日に神風特別攻撃隊「梅花隊」「聖武隊」の誘導任務に就く予定であったが、搭乗予定の零戦のエンジンが不調で飛行できないために、僚機に「俺が行くから、お前が残ってくれ」と何機かに声をかけたが、どの特攻隊員も出撃を譲らなかった。仕方なく航空隊指揮官に隊長名で誰か交代する者を指名して欲しいと申し出したが、隊長の尾辻中尉は「我々は死所は一つと誓い合ってきた者同士です。今ここで誰かに残れと言う事は私にもできません。分隊士(角田少尉の事)は他部隊からの手伝いですから残ってください。(中略)長い間ご苦労さまでした。」と征く者の方からご苦労さまと言われた角田少尉は、「梅花隊」「聖武隊」の不動の決意を思い知らされ、出撃を見送る時は、自分の不甲斐なさを一生後悔すると言う気持ちがわき上がったという[589]。
高知海軍航空隊は練習機白菊による搭乗員訓練の航空隊であったが、戦局も逼迫した1944年末に横須賀鎮守府より特攻隊編成の訓示があり、航空隊司令加藤秀吉大佐から各員に「特別攻撃隊を編成するから、志願する者は分隊長に申し出るように」との指示があった。一応は各人の意志に委ねられた形式で積極的に志願した者もいたが、搭乗員である以上は勇ましい志願をせざるを得なかったと言う。それでも分隊長代理木村芳郎大尉は、一人息子や長男は“技量未熟”との名目で特攻隊に編成せず訓練隊になるべく残すようにした[590]。司令の加藤秀吉大佐は終戦後の1945年8月20日の高地空解隊まで司令として残務をこなすと、8月30日に責任をとって自決している[591]。
桑原敬一は、民間航空機搭乗員を希望して乙種海軍飛行予科練習生第18期生として土浦海軍航空隊に入隊したが、ある日他の搭乗員と共に講堂に集合させられ、参謀より「戦局悪化により特攻隊編成を余儀なくされたので、諸君らの意思を確認したい。各人に用紙を渡すから明日までに特攻志願する場合は所属部隊名と氏名を用紙に書き、志望しない場合は白紙で出すように」と言われた。各隊員は来るべきものが来たという気持ちで、複雑な心境ながら翌日に大多数は志願したが、一部白紙で提出した隊員もいたという。しかし参謀からの言葉は「諸君の意思は全員熱望であり、一人の白紙もなかった」という意外なものであった。その言葉を聞いた桑原は憤りで頭にカアッと血が上ったと言う。桑原はこの自分の体験により、末期の特攻志願は似たような「志願の強制」事例が横行していたと推量している[592]。
早稲田大学より学徒出陣した江名武彦少尉は、ある日突然に黒板に特攻隊に指名すると書いてありそれを見て血の気がサーッと引いたという。その後上官より訓示があり、日本のため家族のためと覚悟し命令した軍を恨む気持ちはなかったが、やはり死について割り切れず未練が出てきたとのこと、江名は以上の経緯より自分に関しては特攻出撃は「命令」であったと証言している[593]。
末期にはパイロットはすべて特攻要員に下命されたが、田中国義は何度でも行くからせめて爆撃をやらせてほしかったが誰にも言えることではなかったという[594]。清水芳人によれば、海上特攻は否応なしの至上命令であったという[595]。
日本陸軍
陸軍は、特攻隊を志願者をもって充当することを根本方針とし、必死の攻撃であるから要員は特攻実施の熱意が旺盛で家庭的にも係累の少ない若年者を選ぶという考え方が基本的となった[596]。特攻隊の志願は増大に伴い、調査が形式的になり、その場の空気に押されて表面的に志願であっても内心は熱意が乏しいものも含まれていた。第6航空軍司令官菅原道大中将によれば、特攻の志願は、部隊の状態、時期、部隊長の性格などによって千差万別であり、時日の経過に従い減少したが、反面に時局は要員の増加を要求し、志願を建前とする中央と指示の部隊数を編成しなければならない部隊長の間に問題が生じる余地があり、各隊各様の状態を生んだという。また、「いずれの場合も家庭の事情を十分に考慮するのは一般的であった」「有形無形の雰囲気の中で起居する関係者は少なからぬ圧迫を感じたことであろう」という[597]。
陸軍初の特攻隊の1つ富嶽隊の選出方法は「志願を募ればみんな志願するので指名すればそれでいい」というものであった[598]。終戦後、アメリカ戦略爆撃調査団からの質問に対して、陸軍航空本部次長の河辺虎四郎中将は「志願者に不足することはなかった」と証言している[599]。
もう1つの万朶隊については、1944年10月4日、鉾田教導飛行師団長今西六郎中将に特攻部隊編成の準備命令があったが、今西中将は特攻に批判的であり、この命令に苦悩していた。その後10月13日に隊員の人選方法について部隊幹部と協議したが、結論は出なかった。しかし10月17日にレイテにアメリカ軍が来襲し捷号一号作戦が発令されると、20日には編成命令があり、今西中将は苦悩の末、最初の特攻は確実を期さなければいけないと判断し、陸軍航空隊きっての操縦技量を持ち、特攻には批判的で跳飛爆撃(海軍名称では反跳爆撃)の研究に携わっていた岩本益臣大尉(53期)を中隊長とした精鋭16名を指名し、飛行隊長が面接を行い志願を募っている[143]。岩本ら士官には今西ら司令部から特攻についての説明はあったが、下士官以下には「特殊任務」という曖昧な説明しかなかった。のちに、風防ガラスから3本の角を突き出すような異様な姿に改造された九九式双発軽爆撃機を前にして、士官らから「特殊任務」とは体当たりのことで、突き出た3本の角が搭載爆弾の信管であると説明を受けて動揺している[600]。万朶隊隊長の岩本はフィリピンに移動した後、マニラの第4航空軍司令部に出頭する際に操縦機がアメリカ軍の戦闘機に撃墜され出撃前に戦死した。岩本大尉は新婚であったが、未亡人となった妻和子は亡くなるまで岩本大尉の遺品を大事に保管していており、死後に有志により、岩本大尉の故郷である福岡県豊前市に遺品が寄贈された[601]。
藤井一中尉は、熊谷陸軍飛行学校生徒隊第二中隊長であったが、特攻出撃をする事を願い陸軍に二度に渡り特攻を志願するが、歩兵より転科した整備及び高射機関銃(地上対空小火器は、陸軍飛行学校が担任した)を履修した将校のため、いずれも却下された。(空中勤務者としての適性、飛行隊指揮官としての勤務未経験等の理由があったものと思われる。)夫の固い決意を知った妻女は「私たちがいたのでは後顧の憂いとなり、十分な活躍ができないと思いますので、一足先に逝って待ってます。」という趣旨の遺書を遺し、子供2人と入水自殺を遂げた。その後3回目の志願を血書で陸軍に提出、陸軍もようやく藤井中尉の志願を受理し、特攻隊長要員となって昭和20年2月鉾田教導飛行師団にてと号第45飛行隊が編成され、航空総軍直轄を経て第六航空軍司令部隷下5月28日出撃し戦死している[602]。振武隊名簿および功績資料によれば、名目上は航法将校、特業は軽爆・操縦者として掲載されている。
陸士57期の吉武少尉は九九式軍偵察機の搭乗員であったが、軍偵班全員に特攻隊編成の命令があっている。従って「志願」ではなかったが、当時の気持ちを同僚の軍偵班・市原哲雄少尉の言葉を借りて「戦局いよいよ最高潮に達し皇国の興廃を決せんとする時、選ばれてその一戦力となり得るは、誠に栄光の至りにして男子の本懐たり」と感じ、軍偵班全員同じ気持ちであったと述べている。吉武少尉は石腸隊として1944年12月12日に出撃したが、途中でF6Fに迎撃され被弾しながらも巧くかわし、その後どうにか海軍基地に不時着し九死に一生を得ている。そのような経験をしてもなお当時の思いを振り返り、戦後に平和な時代の価値観で特攻隊員に向けられた「特攻隊員は軍国主義の被害者だ」とか「国家に騙された可哀想な人たち」という評価を真っ向から否定し、「当時は国の為に命を捧げる事に大いなる価値があった」とし「現代の若者も、もしあの時代に生きていれば、我々と同じ心境になったはず」と述べている[603]。
同じく陸士57期堀山久生中尉は、躊躇なく特攻志願しているが、その理由を「陸軍士官学校では、戦争が危急の際は率先して陸軍士官学校出の将校が危険な任務に就くべきと叩きこまれており、それが現役士官の取る道と考え、全員が志願した」と述べている[604]。
第4航空軍司令官富永恭次中将の長男である富永靖少尉は、フィリピンの戦いで父親が敵前逃亡の汚名を着せられていたことから、その汚名返上のために特攻に志願している。富永は中学生のときから、英語の教育者でもあった祖父の影響もあって英語に堪能で、親友の鈴木啓正と、将来、英語の普及のため英語の弁論大会を開催しようと約束をしていた。のちに鈴木は陸軍士官学校卒業し任官、富永は慶應義塾大学卒業後に特別操縦見習士官1期生となったが、いずれも特攻隊員に志願した。富永は、第58振武隊員(特攻隊員)として、1945年5月25日、父恭次から貰った日章旗と母セツが準備した千人針を携えて、四式戦闘機「疾風」爆装機に搭乗し都城飛行場より出撃し特攻戦死した。富永の戦死後、親友の鈴木には「出撃のときは父から贈られた日の丸で鉢巻し、母から頂いた千人針を身につけて行きます。敵艦に突入するとき、君の名を叫びながら。さようなら」という富永の遺書が届けられている。鈴木はこのときの気持ちを「神様、自分は国のために死ななければならない。でも生きたい。もし、生き残ることができたら私が富永君と中学時代から計画していた英語弁論大会の事業を必ずやります」と記している。鈴木は、特攻に志願しながらも戦後まで生き残り、親友富永との約束通り英語弁論大会の開催に尽力、日本学生協会を設立し、高松宮宣仁親王にはたらきかけるなど、大変な苦労をしながら1949年に第1回目の開催にこぎ着け、この後も設立者として大会の運営に尽力した。この英語弁論大会は、学生の英語弁論大会としては日本最高峰とも称される「高円宮杯全日本中学校英語弁論大会」に発展していった[605]。
満州で搭乗員の訓練を行っていた関東軍第5練習飛行隊は、8月15日の玉音放送の後に関東軍司令部より戦闘停止命令が届いたが、ソ連軍による葛根廟事件などの虐殺事件を目の当たりにし、「このまま降伏すれば葛根廟の悲劇がここでも繰りかえされる」や「戦いもせずにおめおめとソ連軍に降伏できるか」との思いで結束し、ソ連軍に一撃を加え居留民の避難する時間を稼ぐこととしたが、練習飛行隊に残った練習機ではソ連軍の重戦車相手に体当たり攻撃しか通用しないため、異例の戦車に対する特攻を計画した。計画の中心であった二ノ宮清准尉が賛同者を募ったところ士官である少尉ばかり10名が賛同し(二ノ宮をいれると11名)二ノ宮らは自らを「神州不滅特別攻撃隊」と名付けた。その中の谷藤徹夫少尉は妻の朝子を、大倉巌少尉は婚約者のスミ子を同乗させての出撃を申し出た。一般女性を作戦機に搭乗させるのは軍規違反であったが、二ノ宮らは敢えて同乗を許している。2人の女性が特攻機に同乗を希望した経緯は不明だが、特攻出撃当日の8月19日に、2人の女性は白いワンピースを着て日傘をさして飛行場に現れ、それを見送りと勘違いした基地の兵士が日傘をさしていることを咎めると、朝子は涼しい顔で「女性ですから、日焼けはしたくないんです。」と冷静に切り返したとこから覚悟はできていたものと思われる。神州不滅特別攻撃隊は故障で墜落した1機を除き、2人の女性を乗せた10機でソ連軍の戦車部隊に向かったが、特攻が成功したかは不明である(ソ連側の記録は#対陸特攻参照)[606]。
太平洋戦争当時、東京大学文学部より学徒出陣で陸軍の二等兵となった後の読売新聞グループ本社会長・主筆渡邉恒雄は、太平洋戦争終盤に行われていた特攻に関して、従来よりほとんどが暴力による強制であったという認識であり、ニューヨーク・タイムズのインタビューに答えて、「彼らが『天皇陛下万歳!』と叫んで勇敢に喜んで行ったと言うことは全て嘘であり、彼らは屠殺場の羊の身だった」「一部の人は立ち上がることが出来なくて機関兵士達により無理矢理飛行機の中に押し入れられた」と語っている[607][608]。
戦後に多数の特攻隊指揮官から隊員の生存者まで尋問した米国戦略爆撃調査団の出した結論は「入手した大量の証拠や口述書によって大多数の日本軍のパイロットが自殺航空任務に、すすんで志願した事は極めて明らかである。機体にパイロットがしばりつけられていたという話[注 22] は実際にそういうことが起きたとしても、一度だけだったであろう。また、戦争最後の数週間前までに、もっとも熱心なパイロットは消耗されつくしたか、あるいは出撃を待っている状態だった事も明らかである。陸海軍両軍とも、新米で訓練不足のパイロットを自殺部隊に割り当てる、つまり志願者を徴集する段階に到達していた。」と原則志願制ながら、それが既に限界に達しつつあったと分析していた[609]。
反対・拒否
第三四三海軍航空隊では特攻を出していない。司令の源田実大佐は空戦による制空権奪回を目指し特攻の指導をせず[610]、空中特攻の命令にも司令自らが特攻することを決めている[611]。また、特攻の打診があった際も、行けと言ってくる参謀が最初に来るならやると上に伝えてほしいという飛行長志賀淑雄少佐の意見に源田司令も賛同している[612][613][614]。
歴戦の戦闘機指揮官の戦闘303飛行隊の飛行長岡嶋清熊少佐は、フィリピンで特攻を推進する大西ら第一航空艦隊司令部に強く反発し[615]、「特攻は邪道である。内地に帰り再編成の上、正々堂々と決戦をすべきである。自分の隊からは一機の特攻も出させぬ」と頑張り、士官室で全員特攻を唱える第201海軍航空隊飛行長の中島正少佐と激論を交わしていたという[616]。岡嶋は「戦闘機乗りというものは最後の最後まで敵と戦い、これを撃ち落として帰ってくるのが本来の使命、敵と戦うのが戦闘機乗りの本望なのであって、爆弾抱いて突っ込むなどという戦法は邪道だ」という信念の持ち主であり、上層部のなかには岡嶋を国賊と呼ぶ者もいたという[617]。その後、岡嶋率いる戦闘303飛行隊は日本本土に転戦し、主に特攻機の護衛任務で戦い続けて、沖縄戦中に89名の戦闘機搭乗員のうち38名を失ない戦死率は43%にも上った。これは特攻隊として編成された第二〇五海軍航空隊の103名の特攻隊員中戦死者35名(戦死率34%)と比較しても、護衛任務に従事した戦闘303飛行隊の戦死率の方が高くなっているほどであった[618]。戦後に岡嶋は「参謀が特攻の話をしたときです。わたしは拳銃を握っていた。『この野郎、ぶち殺してやろう』と思いました。戦死を拒みはしないが、搭乗員を虫けらのように言うのがたまりません。その男は特攻に出ないのに」と振り返っている[619]。
特攻の志願が募られた際、岩本徹三海軍少尉は「死んでは戦争は負けだ。戦闘機乗りは何度も戦って相手を多く落とすのが仕事だ。一回の体当たりで死んでたまるか。俺は否だ。」と志願しなかった。203空の飛行長進藤三郎少佐も司令に反対意見を述べた[620][信頼性要検証]。第三四一海軍航空隊の飛行隊長藤田怡与蔵少佐も新鋭機の部隊であることを理由に特攻に反対した[621]。
芙蓉部隊の指揮官の美濃部正少佐は、夜間攻撃を重視し、練習機で特攻を行う計画に反対したとされる[622]。しかし、美濃部は特攻そのものを拒否をしていたわけではなく、硫黄島の戦いや沖縄戦で度々部下に特攻を命令して戦死者も出している[623]。美濃部は、対敵機動部隊の戦術として「敵の戦闘機隊が十分な行動ができない未明に、まず芙蓉部隊機が敵空母甲板上の敵機をロケット弾で攻撃し、発艦前に打撃を与えて友軍特攻機突入を援護する。最後には、芙蓉部隊機も搭乗員諸共敵空母甲板上に特攻し、敵空母甲板上の艦載機を一掃する。」との特攻戦術を考案しており[624]、終戦間際に特攻を計画した際には自ら指揮官として出撃する予定であった[625]。
陸軍航空隊初の特別攻撃隊となった万朶隊のうち、佐々木友次伍長が敵艦に体当たりせずに通常攻撃を行い、ミンダナオ島のカガヤン飛行場に生還している[147]。この後も帰還を続ける佐々木に第4航空軍第4飛行師団参謀長の猿渡篤孝大佐が「爆撃で敵艦を沈めることは困難だから、体当たりをするのだ。体当たりなら確実に撃沈できる」と次回出撃時は確実に体当たりするよう諭したが、佐々木は「私は必中攻撃で死ななくてもいいと思います。その代わり、死ぬまで何度でも行って、爆弾を命中させます」と反論している。上官に対する明白な反抗で本来であれば軍法会議行きでもおかしくなかったが、この時はさらに諭されただけで不問とされている[626]。佐々木はこの後も合計9回出撃を命じられたとも言われるが、敵艦に突入することなくいずれも生還している。航空機を失った第4航空軍の他の操縦士は台湾に撤退したが、公式には戦死扱いであった佐々木には台湾への撤退許可は出なかったため、ルソン島山中に立てこもり終戦を迎えている[627]。佐々木は特攻しなかった理由として「日露戦争で金鵄勲章を受賞した父親や、戦死した万朶隊隊長岩本大尉の死ぬなという言葉が支えになった」「乗機(九九式双発軽爆撃機)が乗りやすい飛行機で、これに乗って自爆はしたくないという気持ちがあった」と述べている[628]。
しかし、戦後に第4飛行師団参謀の辻秀雄少佐が語ったところによれば、最初の出撃で帰還した佐々木への対応について、佐々木が所属した第4飛行師団では判断がつかずに第4航空軍に協議したところ、第4航空軍参謀より「行って、それが命中して効果をあげたんなら、もう1回やらせてもいいんじゃないか」という提案があり、その後も佐々木が帰還を繰り返すと、「もう1回やるんだから、2回でも3回でもやれば、それだけ戦果をあげるんだから、それだけこっちに利があるんじゃないか」「こういう風な状況になったんだから、やむを得ない。彼(佐々木)にいい死に場所を与えようじゃないか」ということで、第4航空軍司令部が佐々木の帰還を容認していた[629]。この第4航空軍の佐々木に対する方針は、司令官の富永恭次中将の裁量であったとも言われており[630]、富永は佐々木が特攻出撃から帰投するたびに「おお、佐々木、よく帰ってきたな」「よくやった。これぞという目標をとらえるまでは、何度でも帰ってこい。はやまったりあせってはいかん」と親しげに声かけをし、「昼飯を一緒に食べようと思ったら、他に予定があるそうだ。せっかくだから、お土産を進呈しよう」と上機嫌で缶詰を手渡したりと佐々木に好意的であり[631]、また出撃前には特別に一房のバナナを渡して佐々木を感激させている[632]。また、特攻に批判的で佐々木に生還を指示したとも言われる隊長の岩本であるが、報道班員には「万朶隊の攻撃はたった1度です。1度で必ず成功しなければなりません。死ぬことは、そんなにやさしいものではありません」と特攻を覚悟した発言をしている[633]。
陸軍飛行第62戦隊隊長石橋輝志少佐は、大本営作戦課から第62戦隊を特攻部隊に編成訓練するよう要請されると「部下を犬死にさせたくないし、私も犬死にしたくない」と拒否した。石橋少佐はその日のうちに罷免された[634]。この後、第62戦隊は特攻専用機に改造された四式重爆撃機を装備して特攻攻撃に借り出されている。
特攻隊員の待遇
日本海軍
特攻隊は、各部隊から原則は志願により選抜された特攻要員が予定戦力となり、特攻配置の部隊、あるいはそれに準じる部隊に移動して、出撃が決まると隊名が付されて特攻隊員となり、特攻隊が編成される。特攻により戦死した搭乗員は、特別進級(特進)[注 23] の栄誉を受けることが原則であった[635]。大西瀧治郎中将は特攻隊員の心構えの厳粛化に特に注意しており、宴会に招いたりして特別な待遇はしないことや、正式な特攻隊として編成された者以外の勝手な体当たりの禁止などを強く指導した[109]。
出撃当日は、時間帯によっては出撃前にも食事が出されることがあったが、ある日、昼過ぎに特攻出撃が決まっていた部隊が、急遽時間を繰り上げて出撃したことがあり、特攻隊員は準備されていた昼食も食べずに出撃した。それを知った飛行長が激怒し主計長を呼び出し「これから敵艦に突入しようとする隊員を空腹のまま出撃させたとは何事か!最後の飯ぐらいゆっくり腹いっぱい食わしてやれんのか。お前らは我々戦闘員を何と心得ているのか」と特攻隊員みんなの前で大喝した事もあった[636]。出撃時には海苔巻きやサイダーなどの軽食が機内食として支給された。夜間出撃の際には緑茶の粉末を砂糖で固めた『居眠り防止食』も支給されている[637]。
特攻隊が編成されるまでは隊員は特攻基地にて待機することとなるが、出撃がいつ命じられるかは解らず、早い隊員で2 - 3日で出撃していったが、なかなか出撃とならない隊員にとっては毎日が昼夜の区別もなく極度の緊張だったという。出撃待機中は基本的に食事以外はすることがなく単調な毎日であった。ある程度の自由はあったようで、海軍特攻串良基地より九七式艦上攻撃機で2度も特攻出撃しながら、いずれも機体の故障で九死に一生を得た桑原敬一によれば、緊張をほぐすためか串良基地ではコックリさんが流行しており、戦争の行方や自分の出撃日などを占って気晴らししていたとのことであった。また飲酒も自由で麻雀や花札で遊ぶ隊員も多かった[638]。また、しばしば外出をして他の特攻隊員と共に深夜まで酒宴を開いていたという[639]。
高知海軍航空隊は練習機白菊による搭乗員訓練の航空隊から、白菊を爆装しての特攻隊となったが、特攻隊員たちは飛行科を志望した時に死を覚悟していたが、実際に死が現実的になると、ちょっとしたことで腹を立てたり、些細な事で喜んだりケンカ早くなったりと情緒不安定になったという。それでもしばらくすると覚悟を決めて落ち着いたように見えたが、眼光が人を射抜くような鋭さになっていたという。また特攻隊員は夜目を鍛えるため、黒い眼鏡をかけることが命じられたり、遺髪を遺すために丸刈りにせず頭のてっぺんに少しだけ髪を残しておく風習があったので、眼光の鋭さもあって人相・風体が悪くなり愚連隊と間違えられ、小料理屋に行っても仲居さんが近付いてこないほどになり、当時は人気があった海軍の搭乗員であったのに全く女性からモテなかったという[640]。天候不良が続き訓練飛行ができないときは、近所の農家で農作業の手伝いを行い、お礼に卵や果物をもらったが死を覚悟した隊員にとってはよい息抜きになった。特攻出撃が決まると、子供を残すために結婚すべきか否かについて隊員らで熱っぽく討論を行ったが、結局終戦までに誰も結婚しなかったということであった[641]。
江名武彦少尉は早稲田大学在学中に学徒動員で海軍航空隊の特攻隊員となったが、江名によれば海軍での生活は、物資は十分だったので食事には事欠かず、金曜日には海軍カレーが出され、ウィスキーも倉庫に沢山あり酒に困ったことはなかったとのこと。また手紙についても軍事郵便で出せば検閲があったが、一般の郵便局から郵送すれば検閲もなく、大半の兵士は一般の郵便局から手紙などを郵送していた[593]。
東京大学より学徒出陣した手塚久四によれば、食糧も酒も豊富であったが献立で出てくるサメの煮つけがアンモニア臭くて不味かったとのこと、本土決戦での特攻要員として香川の観音寺基地に配属される途中で終戦となったが、その前には5日間の休暇が与えられ実家に帰省を許されたという[642]。
桜花を運用する神雷部隊では、司令の岡村基春大佐の方針で放任主義であり、隊員は出撃まで自由に生活していた。それを見かねた中島正中佐が岡村大佐にもっと規律を厳正にするよう苦言を呈したが岡村大佐は「自分は部下を信じている。私の指導・指揮は間違っていない。いざという時はみんな黙って命令に従ってくれる」と取り合わなかった[643]。桜花搭乗員の鈴木英男大尉によれば、出撃までは毎日の日課があったが、内容としては航空機の操縦訓練と座学(机の学習)があり、座学ではアメリカ艦艇のシルエットを見て艦名を覚える学習をしたり、精神訓話と称して各人がスピーチをしたが、特に内容の制限もなく、くだけたスピーチでみんなが笑うことも多かったという。また空いた時間にはバレーボールや野球といったスポーツも盛んに行っていた。桜花隊員は他の特攻隊員と異なり純粋な志願者ばかりだったので、訓練所も落ち着いた感じだったと言う。休日もあり、みんなで映画を観に行ったり下宿でのんびり過ごしたり、遠くの親戚を訪ねる隊員もいた。また、近隣の街の軍の後援者が自宅を隊員に開放しており(海軍は下宿やクラブと呼んでいた)後援者の家で御馳走になったり、世間話をしたり、各々が自由に休日を楽しめたという[644]。
特攻隊の軍律の乱れが蔓延していたとの指摘もある。特攻第一号となった関大尉ら敷島隊以来、特攻隊員の取材を続けてきた従軍記者の小野田記者によれば[注 24]、大戦末期の九州の特攻基地の雰囲気は、関大尉らの当初の様な純粋さは無くなり、参謀らは戦意高揚のための芝居っ気ばかりが先行していたと指摘している。また、一部の特攻隊員は白昼から酒に酔い抜刀して暴れるものもいたが、憲兵は参謀らより、特攻隊員は明日なき命なのだから好きなことをさせよとの指示を受けており、見て見ぬふりをしていた状況を目撃している。また第256飛行隊の清水正邦一飛曹によれば、海軍串良基地の特攻隊員については、軍律が乱れ、無断外出が大っぴらに行われており、番兵も咎めなかったが、明日をも知れない命だから、どうしても足が自然と外に向いてしまったと回想している。また、服装は乱れ、好きな時に起き好きな時に食事をするなど、自由気ままに生活していたと言う。厳正だった出撃の際にも軍律の乱れが及び、中には真偽不明ではあるが無線で「海軍のバカヤロー」叫びながら出撃した隊員や、出撃後に司令官室に向けて突入するふりをした隊員もいたという[645]。
日本陸軍
フィリピンの戦いで陸軍の特攻を指揮した第4航空軍司令官富永恭次中将は、特攻隊員をよく可愛がっており、富永自身は下戸で、自ら好んで飲酒をすることはなかったのにもかかわらず[646]、軍司令官官舎に特攻隊員を招待すると、酒宴や会食の席を設けて歓待して、冗談を交えた声かけをしていた。富永は、毎夜のようにマニラの料亭で芸者を交えて宴会をしていたなどと主張する者もいるが[647]、そもそも、富永が陸軍次官時代に「高級享楽停止に関する具体策要綱」を定めて、料亭などの高級享楽は全面的に停止を決めており[648]、レイテの戦いが開始される前の1945年9月の時点で、マニラ市街地では、激化する空襲とゲリラの跳梁による治安の悪化で、不要な外出は禁止されていた[649]。また、近くのパラオ諸島で激しい戦いが繰り広げられ、フィリピンへの連合軍侵攻の懸念が高まると、富永は第4航空軍参謀たちの危機意識のなさに危機感を覚えて、自らが毎日早朝5時30分に司令部に出勤するようになった。参謀たちからは「これから、いくさになると眠る暇がなくなりますから、今のうちごゆっくりしてください」と全く危機感のない申し出があったが、それを聞いた富永は激怒して「貴様らがたるんでいるから、鍛えなおしてやるために、早くくるのだ。日が高くなってからくるような参謀だから負けてばっかりいるんだ」と呑気な参謀たちに危機感を植え付けている[650]。
第4航空軍の軍司令官官舎は洋館を接収したもので、大広間にはピアノが置いているような大邸宅であったが、富永はその官舎を特攻隊員歓待のために活用しており、特攻隊員を官舎に招くと、ゆっくりと入浴させて、お菓子を食べさせながらピアノで遊ばせるなどして寛がせた[651]。富永自身は軍司令官でありながら、平素は一般将兵が食べる兵食の白米の割合が少しだけ多い程度の質素な食事をしており[652]。さらに、連合軍のルソン島進攻が迫り、マニラ付近に陸海軍の部隊が集まるようになると、補給がひっ迫して、ますます食糧事情が悪くなっており海軍の司令長官クラスでも、毎日の食事は白米に薄いサツマイモを並べたものや、単に白米と芋を混ぜ合わせたかて飯という粗末なものになっていたが[653]、富永は特攻隊員を接待する時には豪華な献立を準備させた[654]。南方ならではのバナナ、パパイヤ、ヤシといった果実をふんだんに用意して、食べ過ぎた特攻隊員に「甘い物はもう見るのも嫌」と言わせてみたり[655]、さらには南方最前線では珍しい刺身をわざわざ準備して特攻隊員を喜ばせた[656]。
そして、特攻機の出撃時には頻繁に見送りに来て、ひとりひとりと固い握手をかわした[657]。富永が特攻隊の出撃を見送るさいには、将官用の黄色い標識がついている富永の軍用車のトランクに、いつも菊の紋のラベルの日本酒が入っており、富永はその一升瓶を持ち出すとひとりひとり酒を注いで回り、そして小さな体で大きな体の搭乗員たちをじっと見上げながら、「しっかりたのむ」と息をつまらせるようにして語りかけた[658]。
以上のような富永の特攻隊員への接し方は、同じくフィリピンで特攻を指揮した海軍の大西とは対照的で、大西は特攻隊員の心構えの厳粛化をはかるためとして、特攻隊員を招いての宴会は厳禁とし、特別扱いもしないように指示するなど一線を引いていた[659]。陸軍の特攻隊員は、自分たちに目をかけてくれている富永をよく慕い厚い信頼を寄せて、「参謀も部隊長も信用出来ぬ、ただ(富永)司令官だけは俺たちの気持をわかつてくれると思ふ」と報道班員に話している[660]。また出撃前には直接富永宛てに、有り金全部を国防献金として託した特攻隊員も多かった[661]。
フィリピンで陸軍の特攻を取材していた報道班員の読売新聞記者辻本芳雄によれば、富永は特攻隊員に対する想いとして「戦争しているのは兵隊だよ、私がここでいくら力んでみても勝てやしない。ただ、私のする仕事というのは兵隊を働かせることなんだ」「感状なんてものは死んでからではないとくれはせん、死んでもらって、それが何になる。兵隊は生きているうちに励まさなければダメなんだ」「昔の戦場で武将はお墨付きというのを出している。また、自分の刀をやったりした。あれでなければならぬのだ」「ただ、私は、若いものを励まして死地に追いやっている。それが私の仕事だから仕方がない。だから私は苦しい」と語っている。そのときの富永の目は、辻本が取材などでよく見る、戦友を失った若い兵隊たちの怒りと悲しみに満ちたギラギラとした目つきと同じであり、辻川は富永の精神状態を懸念したが[662]、こののち富永は、特攻機を見送り続ける精神的負担で心身に変調をきたし[663]、将兵を置いて大本営に無断でフィリピンを脱出している。
マニラには、軍高官や高等文官しか利用できないような高級料亭「廣松」があった。「廣松」は台湾の嘉義でハワイ出身の日系二世の夫婦が開業した料亭であったが[664]、日本軍の支援によって、マニラのリサール・メモリアル・スタジアム近隣のパサイ区ドナダ街1755番地に2号店を開店している。軍の予算をふんだんに使うことができたので、75畳の大広間を有する3棟建ての豪華なもので、普段から軍や政府高官たちが会合や会食につかうため、30台駐車できる駐車場はいつも満杯だったという[665]。 特攻隊員も兵舎代わりに宿泊することもあり、1944年11月にも14から15名の特攻隊員が「廣松」に宿泊したが、特攻隊員はまだ20歳であった女将(源氏名 雛千代)を「お母さん」「お姉さん」と呼んで慕い、他の同世代の芸者たちとも意気投合したという。「廣松」はフィリピンを統括する第14方面軍の指揮下で、女将自身も陸上部隊所属士官の婚約者がおり、富永ら第4航空軍司令部とは懇意ではなかったので、他の芸者と一緒になって特攻隊員に同情して、第4航空軍の上官たちが自分たちで特攻すればいいのに姑息だ、と口々に批判していたという[666]。
「廣松」が第4航空軍専用の料亭であり、富永や参謀たちが専用の芸者を囲っており、毎晩、富永や参謀が盛大な宴会を行い、自分たちの都合で「廣松」のマニラ撤退を許さなかったなどと主張する者もいるが[667]、そのような事実はなく、「廣松」の芸者たちは、第14方面軍の指示で野戦病院を回って、日本舞踊を踊るなどの傷病兵の慰問活動に従事していたため、連合軍がルソン島に迫るまで撤退することができなかった。ようやく第14方面軍から撤退指示が来たのは、ルソン島に連合軍が上陸した1945年1月6日で、撤退指示に際して第14方面軍から女将たちに「3ヶ月後には戻れる」という説明があり[668]、女将たち20から30名の女性たちは、第14方面軍の軍属が準備した2台のトラックに着の身着のままで押し込まれると、そのままマニラを後にしてダバオに移動したが、「3ヶ月後には戻れる」という約束が守られることはなかった[669]。その後は第14方面軍の保護もない中でジャングルの中を逃げ回り終戦を迎えたが、創業者や芸者3人が死亡している[668]。
沖縄戦においても、特攻隊員ら航空機の搭乗員は普段から、白米、肉、魚など特別メニューが与えられていたが、特攻隊員の出撃前日の食事はさらに豪勢になることもあり、菊水作戦初期には、何段も重なった豪華な幕の内弁当やデザートのゼリーの他に、酒もワイン、ウィスキーの角瓶などが準備され、沢の鶴の樽酒も軍司令官から届けられた。また皇室からは菊の御紋入りの煙草も支給された。しかし、そのような豪勢な食事でも喉に通らず、ただ酒をあおる特攻隊員も多かったという[670]。
知覧には鳥濱トメが営む陸軍指定の食堂「富屋食堂」があり、多くの特攻隊員が食事に来店していた[671]。トメはできうる限り特攻隊員の面倒を見ようと思い、家財を処分してまで食材を仕入れて隊員のどのような注文にも応えようとし、多くの隊員も足繁く富屋食堂に通っていた[672][673]。また隊員もそんなトメを慕っており、いつしか「特攻の母」と呼ばれるようになった。特攻隊員は富屋食堂で出撃の数日前から盛大な酒宴を催したが、トメに家族への遺書や言付けを預ける隊員も多かった[674]。トメは、戦後に放棄された知覧基地跡に知覧特攻平和観音堂の建立の旗振り役となったり、遺族へ特攻隊員の言付けを伝えたり、生前の姿を聞かせたり、知覧を訪れる遺族のために旅館を買い取って宿泊させたり、知覧基地の語り部になったりと特攻隊員の慰霊に尽力している[675]。
特攻隊員の多くが訓練を受け、後に特攻隊も編成された下志津教導飛行師団の搭乗員らは、銚子の馬場町にあった「伊藤屋」という料亭に毎日のように入り浸っていたという。この料亭の女将の大塚蝶子は当時30半ばであり、若い軍人らを我が子の様に可愛がり、食糧事情の悪化で乏しくなった中でも、酒や食糧をどうにかやりくりしながら搭乗員たちに饗し、特攻隊員らに親身になって応対し、将校相手にでも歯に衣を着せず厳しいことを言ったりしていたので、搭乗員らも大塚蝶子を「お蝶さん」と言って母のように慕ったという[676]。
陸軍航空隊の特攻隊「振武隊」の知覧基地では知覧高等女学校の女生徒が勤労奉仕隊として振武隊員の寝床作りから食事、掃除、洗濯、裁縫、などで身の回りの面倒を見ていた[677]。女学校の校章がなでしこの花であることから、彼女らは、戦後に同窓会として「なでしこ会」を結成したことにより、彼女達奉仕隊が「なでしこ隊」と呼ばれる事になった。当初は18人であったが、振武隊員が増えるに従って順次増員され延べ人数は100人になったという。なでしこ隊には「特攻班」「戦隊班」があり、それぞれが居住する三角兵舎を担当した。打ち解けるに従って隊員は彼女らを妹の様にかわいがり、彼女らも隊員と一緒に談笑したり、手作りのマスコットを送ったりと隊員の心の支えになっていた。彼女らに家族への遺書を託したり、自分の夢や本心を打ち明けたりする隊員もいたという[678][679]。海軍にはなでしこ隊の様な女性の勤労奉仕隊はいなかったため、特攻出撃しながら機体の不調で知覧基地に不時着した海軍の江名武彦少尉は、なでしこ隊ら女性が知覧基地で働いているのを見て部下と「陸軍はいいな」と羨ましかったという[593]。「なでしこ隊」の勤労奉仕は3週間で終了となったが、打ち切られた理由は、女学生の一人が特攻隊員にぜひ一緒に特攻機に乗せていってほしいと懇願し、あまりの熱意にほだされたその特攻隊員が女学生を特攻機に乗せようとして問題となったことがあり、急遽勤労奉仕を中止にしたとも言われている[680]。
沖縄戦の頃には陸軍でも特攻隊員の士気低下が顕著になっており、大刀洗陸軍飛行場に隣接した料亭経の娘は、黙々と酒を飲む組と、軍指導部を批判して荒れる組の二種類に分かれ、憲兵ですら手が出せず、朝まで酒を飲んで出撃していったと証言している[681]。そんな中で特攻隊員の精神的な動揺も広がっており、1945年5月に陸軍航空本部が六航軍の特攻隊員へ面接やアンケート調査を行ったところ、1⁄3の隊員が特攻に対して決心が固まっておらず、精神に動揺をきたしていると判定されている[645]。
陸軍特攻振武隊員1,276名のうち、機体故障などの理由によって帰投した605名の内の一部が福岡県の振武寮(福岡女学院女子寮)に収容された。振武寮は、小説月光の夏でその存在が広まったが、存在した期間は1か月余、収容された人数も最大で80名[191] とされている。またその振武寮に滞在した期間は、第6航空軍参謀で、振武寮運営の中心人物とされる倉澤清忠が保管していた「振武隊異動通報」によれば、1945年6月5日 - 6月19日までの間に“在福岡”(振武寮行きの事)となった振武隊隊員のほとんどは1945年6月23日 - 6月25日に、明野教導飛行師団や鉾田教導飛行師団へ本土決戦に備えて異動となっているが、“在福岡”の期間が一番長い隊員で18日、一番短くて3日であった[682][683]。振武寮では、収容者は担当者だった倉澤らによって再教育と称し、反省文の提出、軍人勅諭の書き写し、写経などをさせられ「人間の屑」「卑怯者」「国賊」と罵倒されるなど、差別的待遇を受けた者もいたが[684]、そのような待遇を受けていたのは重謹慎の処罰を受けていた者に限られており[685]、他の入寮者は通常の生活を送っていた[686]。その存在は秘匿されていたとされ[191]、軍の公式資料では詳細を確認できないが、当時の陸軍では飛行兵を居住させる兵舎を「寮」と呼称しており、この「振武寮」も特別な施設ではなく「振武隊員」の兵舎なので「振武寮」と呼称していたにすぎないという指摘もあり[687]、実際に山口県防府市の防府飛行場の「振武隊員」兵舎も「振武寮」と呼ばれていた[688]。振武寮の中心的人物とされ多くの証言を残している倉澤ですら、「振武寮」という名称の特別な施設の存在を否定している[689]。
また、倉澤は「当時航空軍としては、決死の特攻隊員が目的を果たさずに生きて帰って来るなどとは、考えていなかったのです。」と証言したとされるが[690]、振武隊が編成される前のフィリピン戦や九州沖航空戦で、陸軍航空隊の特攻機多数が天候の問題や会敵できず帰還していた上に、陸軍航空隊の特攻隊員らを教育・訓練していた下志津教導飛行師団が1945年5月に作成した「と號空中勤務必携」という特攻隊員の教本により、「中途から還らねばならぬ時は」や「中途から還って着陸する時は」など、隊員らは帰還の際の心得や具体的手順について教育されており、倉澤の証言と矛盾する[290]。その運用状況も、隊員らが反省文の提出を強要されたり、激しい罵倒を浴びせられたり、外部との接触は一切禁止されていたという証言もある一方で[691]、収容された隊員が福岡女学院の女子学生の慰問を受け、休日に女子学生とデートを楽しんだり[692]、日本発送電福岡支店の女子社員とお茶会をして、後日、隊員が会社に大挙して押しかけたり[693]、病院に通院すると嘘をついて自由に外出したりと、戦闘行動中の軍施設とは思えないような自由な運営状況でもあった[694]。
支給品
陸軍は航空医学に基づく「航空糧食」に力を入れており、航空病を予防し、パイロットに能力を最大限発揮させる栄養食品を作る事を目的に陸軍第七技術研究所を中心として莫大な陸軍予算を投じていた。当時の東條英機首相もかなり期待していた模様で、首相以下 近衛文麿、広田弘毅、若槻禮次郎といった元老らなど、軍や政治の中枢を首相官邸に集めて、航空糧食の講演会が開かれており、当時の政府や軍の期待度の大きさが覗える[695]。東條失脚後も陸軍の方針は変わらず、陸軍航空技術研究所が東京大学などの協力も受けて「航空ビタミン食」「腸内ガス無発生食品」「航空元気酒」「疲労恢復酒」「防吐ドロップ」「早急出動食」「無火無煙煙草」など多数の栄養食品や機能付食品や嗜好品が作られ、前線のパイロットに支給されていった[696]。特攻隊員でも、1944年12月14日にクラーク基地からパラワン島近海に出撃した、陸軍特攻菊水隊一〇〇式重爆撃機の搭乗員が出撃時に、疲労回復のため、甘味の酒に和漢生薬約20種の成分とビタミンBを混合した「航空元気酒」[697]の小瓶や、酸素不足予防のための鉄分を含む「活性鉄飴」を支給され出撃している[698]。「航空元気酒」は『特攻隊振武寮』(大貫健一郎・渡辺孝 著)により「ヒロポン入りの酒」という解説を加えられているが、成分は前記の通りであり、昭和15年の皇紀2600年記念式典における会食でも出席者に対して供されている。
特攻隊員が出撃に際して覚醒剤(ヒロポン)を投与され、判断力や恐怖心を強制的に失わせた上で出撃させられていたという話が一部で広まっているが、これは正確な表現ではなく、日本軍事史や日本軍の戦争犯罪に詳しい日本近現代史学者吉田裕教授からも「よく戦後の特攻隊に関する語りの中で、出撃の前に覚醒剤を打って死への恐怖感を和らげて出撃させたんだという語り・証言がたくさんあるんですけれども、これは正確ではないようです。覚醒剤を使っていたのは事実のようです。日本のパイロットは非常に酷使されていて(中略)疲労回復とか夜間の視力の増強ということで覚醒剤を大量に使っていて」との指摘もあっている。これを内地錬成中の特別攻撃隊に当て嵌めると、特攻訓練は燃料貯蔵量の関係もあって制限されており、休養・給養等が充分に与えられ、疲労の度を考慮すると実戦部隊の身体的疲労にはほど遠い[699]。
戦後の参議院予算委員会の質疑において、厚生省の政府委員によれば「大体、戦争中に陸軍・海軍で使っておりましたのは、全て錠剤でございまして、飛行機乗りとか、或いは軍需工場、軍の工廠等におきまして工員に飲ませておりましたもの、或いは兵隊に飲ましておりましたものはすべて錠剤でございました、今日問題になっておりますような注射薬は殆ど当時なかったと私は記憶しております。」との答弁通り、戦時中の覚せい剤は広い範囲で使用されており、特攻隊員に限定的に使用されてはいなかった[700]。
また、軍による覚醒剤の使用目的についても、厚生省薬務課長が戦中の覚醒剤の製造認可についての質問に対し「ヒロポン等につきましては、特別に製造許可をいたしました当時は、戦争中でありましたので、非常に疲労をいたしますのに対して、急激にこれを回復せしめるという必要がございましたものですから、さのような意味で特別な目的のため許したわけでございます。」と答弁しており、軍による覚醒剤の使用目的は「疲労回復」であったとしている[701]。従って、他の日本軍兵士や労働者と同様に、特攻隊員の一部も鹿児島から沖縄までの飛行時間が3時間ほどかかることから[702]、「疲労回復」や「眠気解消」を目的として、ヒロポンを投与されたという証言も散見される[702][703]。
特攻隊員への特別な航空糧食として、包装に菊の御紋が描かれた、「ヒロポン入りチョコレート」が製造されていたという証言がある。 この製造にかかわったとする証言者は、先輩からチョコレートに「何か入っているみたい」と言われたこと、食べたところ「カーッとした」としたことと、そのことを聞いた父親が「ヒロポンでも入っていたのでは?」と話したという部分のみを報じたのであって[702]、これが本当に「ヒロポン入りチョコレート」であったのかは断片的な回想で判定することは困難である。陸軍で「ヒロポン入りチョコレート」が製造されたのは事実ながら、他にも他にも栄養剤やブドウ糖を混合したチョコレートも製造されているうえ[704]、アルコールと唐辛子入りで体を温めるチョコレート「航空耐寒食」も製造・支給されている。一方で海軍においては「ヒロポン入りチョコレート」の製造は確認できないが、戦前からチョコレートを製造販売していた大東製薬工業(戦後に大東カカオに商号変更)が、海軍省からの要請で「居眠り防止食」と称した、眠気覚醒のためにチョコレートにカフェインを混ぜたものを製造しており[705]、これを「ヒロポン入りチョコレート」と混同されている可能性もある。これはドイツ空軍のパイロットが好んで口にしていたショカコーラと同じようなものであった[706]。いずれにしても、陸海軍のこれらのチョコレートについては、特攻隊員用に特別に製造されていたものではなく、航空兵全体用に製造されていたものである[704][705]。
特攻隊員が覚醒剤を使用していたという話が蔓延した経緯として、戦後のGHQによる日本軍の貯蔵医薬品の開放指令により[707]、旧日本軍の貯蔵医薬品と一緒に大量に開放された覚せい剤は、一般社会へ爆発的に広まり中毒者が激増し社会問題化したが、他の多くの社会問題と同様に覚せい剤も暗黒時代であった戦時中の象徴であったとする主張がなされるようになり、事実とは異なる証言や回顧が巷に氾濫する事となった。その一例として、自らも薬物中毒で苦しんだ経験を持つフランス文学者平野威馬雄が、戦時中に軍需関係の会社の従業員していた人物より戦後の1949年に聞いた「頭がよくなる薬が手に入った。これは部外秘というやつで、陸海軍の特攻隊の青年だけに飲ませる“はりきり”薬で、ヒロポンという名前だ。長くない命に最後まで緊張した精神を維持させる薬だ。」という話を紹介しているが、一般に流通していたヒロポンを「部外秘」としたり、特攻隊の青年だけに飲ませていたといったような事実に反した話が広まっていたことがうかがえる[708]。これは軍部を非人道的機関と位置づけ、覚醒剤禍の元凶として批判すべき対象とした際に、特攻隊員がその象徴として利用されていたことの例の一つであったと思われる[709]。
第二次世界大戦参戦各国の覚せい剤使用状況を見ても、同じ枢軸国側のナチス・ドイツは、日本のヒロポンより先に1938年より市販されていたメタンフェタミンの錠剤「Pervitin」と「Isophan」を1940年4月 - 7月のわずか4カ月の間に3,500万錠を製造しドイツ陸海空軍の兵士に大量に支給するなど熱心に使用していた[710]。連合軍のアメリカ・イギリスも、メタンフェタミンを使っており、主にドイツや日本への本土戦略爆撃機パイロットに、長時間飛行の疲労回復剤や眠気解消剤として支給していた[711]。またアメリカ軍は、覚醒剤のアンフェタミンを現代に至るまで主にパイロットに使用している。最近でもアフガニスタン紛争 (2001年-)での誤爆事件(ターナックファーム事件)で、アメリカ空軍が疲労回復剤として、アンフェタミンの錠剤の服用をパイロットに強制していたことが明らかになっている[712]。
日本軍の覚醒剤の使用用途は、当時の日本では一般的な用途であった[702]。
特攻隊員の思想
大日本帝国とナチス・ドイツは、共に枢軸国として特攻隊を有し、敗戦国となったこともあって比較されてきた[713]。バード大学教授イアン・ブルマおよびヘブライ大学名誉教授アヴィシャイ・マルガリートの研究書『反西洋思想』によると、特攻隊志願兵たちは、大多数がエリート大学の人文学系の学生だった(理系の学生は文系よりは重宝されていた)[714]。志願兵たちの手紙が示すところでは、彼らはドイツの哲学、文学、社会主義、マルクス主義、さらにはロマン主義や自殺の哲学、「死に至る病」に通じており、少数の隊員はキリスト教徒でもあった[714]。
確かに日本では、「切腹」という自己犠牲の儀式的形が存在していたが、それは武士階級のみに許された特権であり、しかも戦争行為ではなかった[715]。特攻隊員たちの自己犠牲は、武士道や天皇崇拝の結果というより、ロマン主義的なナショナリズムの表れとなっていた[715]。例えば隊員の佐々木八郎は
と述べている[716]。文化人類学者の大貫・ティアニー・恵美子によると、「破壊の灰の中から立ち上がるフェニックス」という隠喩は、佐々木など当時の知識人がしばしば用いていた[717]。かつて神話・哲学・文学などにおける「破壊の後の復活」は、「第三帝国」と関連付けられており、ナチズム(国家社会主義)の中でヒトラーやゲッベルスが多用していた[718]。例えばゲッベルスの主張は、「破壊の後の奇跡的な復活」や、自国再生のための「衛生的な破壊」などだった[719]。
もともと日本では、「復活の前提としての暴力的な死」を掲げるナチズムやドイツロマン主義とは縁薄かったが、日本ロマン派(日本浪漫派)はこうした「テーゼ」を重視した[720]。特攻隊員の日記にはこのテーゼや「フェニックス」の象徴が続出しており、佐々木はその一例となっている[720]。また、特攻隊員以外の学徒兵にも同様の傾向があり、例えば「熱心なマルクス主義者」を自称していた[721]林尹夫は、詩で「フィナーレ、タブー、崩壊」を切望し、「カオス」「破壊」「再生」という表現も多用していた[720]。林はまた、ドイツ語混じりの「絶望」についての論考で、「唯心論者」と自称している[722]。
読書はこうした学徒兵たちの生活の核心にあった[723]。主だった四人である佐々木、林尹夫、中尾、和田の鑑賞した作品としては、確認できる文献だけでも1355冊あり、洋楽や映画もある(キリスト教徒の特攻隊員だった林市造の場合、聖書や『死に至る病』について、日記・手紙で頻繁に言及していた)[723]。とりわけ隊員たちが言及した作品の中でも、ドイツの戦争宣伝映画は日本に浸透していた[724]。
特攻隊員は、「近代」(西洋)から影響されると同時に、「近代」を超越する動きを体現していた[725]。そうした彼らの体験の大部分は、ドイツなどで大流行し、日本にも届いたロマン主義だった[725]。世界各地でロマン主義はマルクス主義と同様、「資本主義や物質主義に対抗する運動」でもあった[725]。このため、「マルクスやレーニンはロマン主義の中の少なくともいくつかの要素を重視していた」という[725]。様々なロマン主義は各社会で、「近代の超克」の一部を担い、かつ、国民国家間の武力衝突に向き合っていた[725]。
特攻隊員に選抜されながら戦争を生き残った元隊員らの多くは、戦後の復興に大きく貢献したが、ごく一部に戦後に目標を見失い自暴自棄となり反社会的行為に身を染める元隊員も出ていた。彼らは「特攻くずれ」と呼ばれたが、戦中は多くの国民から特攻隊は「軍神」と崇められたのに、敗戦による国民の価値観の激変により、特攻は軍国主義の象徴として叩かれる対象となり、いわれのない差別を受ける事なったのも、「特攻くずれ」が一般社会に適合できない大きな要因となった。その内、特攻とは関係のない無法者が、特攻隊員の軍装をし元特攻隊員と偽り犯罪を起こすケースも増えて「特攻くずれ」は新聞等でも激しくバッシングされることとなり、特攻隊員の印象の悪化させることにもなった[726]。
注釈
- ^ キスカ島に進出した甲標的隊は北方特有の厳しい天候により全く運用ができず、1943年7月29日のキスカ島撤退作戦の際に全艇が爆破された。
- ^ 大海機密第261917番電 1944年10月13日起案,26日発信「神風攻撃隊、発表ハ全軍ノ士気昂揚並ニ国民戦意ノ振作ニ重大ノ関係アル処。各隊攻撃実施ノ都度、純忠ノ至誠ニ報ヒ攻撃隊名ヲモ伴セ適当ノ時期ニ発表ノコトニ取計ヒタキ処、貴見至急承知致度」発信中沢佑、起案源田実。「一航艦同意シ来レル場合ノ発表時機其ノ他二関シテハ省部更二研究ノコトト致シ度」人事局主務者の意見[81][82]。「神風」の名前が既にあるため大西は出発前にすでに名前も打ち合せていたとも言われる。しかし、命名者の猪口力平は19日に提案したと証言している。最初の編成命令を起案した門司親徳によれば起案日は誤記で23日ではないかと話している[83][84]。電文の起案を担当した源田実はこの電文について日付は覚えていないが、神風特攻隊の名前はフィリピンに飛んだ際に大西から直接聞いたと証言している[83]。この電文を特攻や命名の指示と紹介する文献もあるが、現地で特攻の編成・命名が行われたのは20日であり、この電文が現地に発信されたのは26日であるため、この電文は特攻隊の編成や命名に影響を与えていない。また、連絡のためにこの電報を打ったのは軍令部であるが、案件である発表に関しては海軍省によるものである[85]
- ^ 航空隊司令の山本栄は搭乗していた零戦の不時着による骨折で入院中であった。
- ^ 大戦中にヨーロッパ戦線でアメリカ海軍がUボートにより喪失した駆逐艦はジェイコブ・ジョーンズ、バック、ブリストル、リアリィ、護衛駆逐艦レオポルド、フェクテラー、フィスク、フレデリック・C・デーヴィスの8隻。
- ^ 船が回頭する際の軸。前進中ならば船首から船の重心までの距離の約1⁄3にあたる
- ^ 工場生産における品質管理の思想が日本に入るのは戦後の朝鮮特需の時であり、この当時は量産品に関しては生産量優先で品質は全く考慮されていない。例としては層流翼を採用した紫電の完成機は、工作不良による左右の主翼揚力や主翼取付け角の不均衡により真っ直ぐ飛ばない機体の方が多かったと言われる。
- ^ うち1回は、1機のB-29の水平尾翼を自機のプロペラでかじり取った後、そのまま、そのB-29の背面に馬乗りになった状態で飛行し、そのB-29が失速して高度を下げ始めた直後に、体当たり時に損傷を受けた機体を巧みに操縦して東京郊外の農地に不時着した。終戦時は軍曹。
- ^ 一部の報道機関で九三式中間練習機が120機出撃したが、未帰還機不時着機が続出し、戦果も無かったとの報道がなされたが、九三式中間練習機で特攻出撃したのは「第3龍虎隊」のみであり、白菊を混同しているものと思われる。また練習機特攻は白菊も含めて戦果は挙がっており、事実誤認である[242]。
- ^ 第3龍虎隊の隊員は台湾の龍虎飛行場で元々零戦搭乗員として訓練を受けていたが、零戦が枯渇したため、93式中間練習機で夜間爆撃訓練を受けていた精鋭であり、非常に操縦技術が高かった[361]。 角田和男少尉によれば、第3龍虎隊の内一部の搭乗員は、不時着による機体破損回数の多い搭乗員や、出撃時何らかの理由で途中引き返した回数の多い搭乗員が懲罰的に選ばれたという[362]。
- ^ 特殊潜航艇と回天によるもの。
- ^ 震洋・マルレなどの特攻艇によるもの。
- ^ アメリカ本土に曳航されたが修理不能と判定され除籍されたか、戦後に行われた損傷艦艇の検査の際に、新造以上のコストがかかると判定され、海軍作戦部長命で廃艦指示された艦。
- ^ アメリカ海軍・イギリス軍・ソ連軍各1隻
- ^ 損失数は総数であり、特攻で撃墜された機数は不明
- ^ 護衛空母セント・ローは沈没時に113名戦死したが、その後に負傷が原因で30名が死亡。
- ^ 有効至近命中はアメリカ軍艦艇に損傷を与えたもののみ計上。
- ^ 合計が合わないが原資料のまま。
- ^ ブリタニカ百科事典の海戦項目の執筆やBBC制作『大戦』の総監修を務めるなど、イギリスにおける第二次世界大戦に関する軍事評論の第一人者だった。
- ^ アメリカ軍機の攻撃により着底したという説もあり。
- ^ 輸送・掃海等の用途特化型の駆逐艦を含む。
- ^ 夜間戦闘機型も含む。
- ^ 当時アメリカの一部では特攻隊員は機体に縛り付けられたり、薬やアルコールで判断力を失っていると信じられていた。
- ^ 兵→飛行兵曹長・下士官→少尉、士官→二階級
- ^ 関大尉の「国の為じゃなく新妻の為に特攻する」という本心は、小野田記者が聞いたもの
- ^ 死者が蘇ったゾンビではなく、間抜けとかのろまとかの蔑称。
- ^ 破損したスクリューを修理中に誤って水没させている。
- ^ 伊58潜は回天作戦中であったが、橋本艦長の判断により通常魚雷で攻撃し撃沈している。
- ^ タラーンとも、ロシア語で破城槌という意味。
- ^ この攻撃は玉音放送後の戦闘行動として、特攻扱いにはならず、また戦死扱いにもなっていない。
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亂暴 ()な男と思ふだらう。然し考へて見給へ、艦長は艦と運命を共にする、飛行機の操縦士が機と運命を共にするのは當然 ()ぢやないか、飛行機は軍艦に比べて小さいが、操縦士と艦長とは全く同じだ、僕は今度日本に歸つたら、もう一度是非航空をやる。さうして僕が海軍にゐる以上は、飛行機の體當り ()戰術は誰が何と云つても止めないよ、君見てゐ給へ"と云はれた。眞珠灣攻撃の第一報を見た時も、私は今更のやうに元帥の姿をはつきり目の前に見た』 - ^ 山田国男『国立国会図書館デジタルコレクション 軍神特別攻撃隊九勇士』一心堂、1942年4月 。
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- ^ 上空からの恐怖 B-29 搭乗員からみた戦争と捕虜についての大局観 2017年 B-29国際研究セミナー 2017年4月12日閲覧
- ^ 『証言 真珠湾攻撃』光人社134頁
- ^ 戦史叢書45 1971, p. 333
- ^ “特攻の最期、73年経て特定”. 東京新聞. (2018年5月28日)
- ^ 特攻隊慰霊顕彰会 1990, p. 72
- ^ “「雲の墓標」に不戦誓う 遺影並ぶ石碑に献花、特攻機が向かった南向き黙とう 出水で慰霊祭”. 南日本新聞. 2022年5月5日閲覧。
- ^ 宜蘭保存14座神風特攻隊機堡 盼歷史活化發展觀光、自由時報、2021/09/06
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