日本の道路
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/29 10:57 UTC 版)
日本の道路と法律
日本の道路では、私道を除いて公共の営造物(公物)として地域住民と合意形成を得ながら、主に国や地方公共団体などが直接管理している[1]。そのため、一定水準の管理の下で道路を維持しつつ、広く提供(供用)される必要があり、そのための法律が定められている[1]。日本の道路の多くは道路法に基づいて管理されているが、その他にも農道や林道などでは別の法律に基づいている[1]。
各関係法律別に、対応する道路をまとめると、下表のようになる。
法律 | 道路の種類 | 備考 |
---|---|---|
道路法 | 国道(高速自動車国道・一般国道)・都道府県道・市町村道 | 特別区道を含む。 |
都市計画法 | 都市計画道路 | ただし、そのすべてが道路法による道路でもある。 |
道路運送法 | 自動車道(一般自動車道・専用自動車道) | |
土地改良法・農用地開発公団法 | 農道(農免道路・広域農道) | |
森林法・林業基本法・森林開発公団法 | 林道 | |
漁港漁場整備法(旧称・漁港法) | 漁港施設道路・漁免道路 | 漁免道路は完成後、道路法上の道路となる。 |
港湾法 | 臨港道路 | |
鉱業法 | 金属鉱山等保安規則による道路 | |
自然公園法 | 公園道・自然研究路・長距離歩道 | |
都市公園法 | 園路 | |
国有財産法 | 里道 | 2005年4月1日までに、現に機能を有するものについては、市町村へ所有権を移転。 |
法律なし | 私道 | 建築基準法第42条第1項第5号の規定による「位置指定道路」を含む。 |
道路交通法や道路運送車両法による道路上の規定は、一般の交通の用に供される全ての道路について適用される。
日本の道路の分類
日本の道路網では、都市や拠点を結ぶネットワーク機能を有しており、都市間の道路では通行機能、都市内ではアクセス機能や滞留機能が求められている[2]。また、山地部の道路では勾配やカーブの半径を厳しくとる必要がある[2]。道路計画設計の基本においては、これら機能や地域特性に応じて代表的な指標を設けて、道路にいくつかの区分を設けている[2]。具体的には、ネットワーク機能は「道路の種類」で表現し、交通機能を「計画交通量」で表現し、地域特性を「都市部・地方部」、「平地部・山地部」で表現している[2]。
管理主体による分類
また、都道府県道と政令指定都市の市道には主要地方道に指定されている道路がある。
道路構造令による種級区分
道路構造令に基づいて、道路の規模により第1種から第4種に分類され、それぞれはさらに、計画交通量によって第1級から第5級に分類(交通量が少ないほど級の数字が増える)される。 種の区分では、道路の種類として高速自動車国道や自動車専用道路と一般道路の別、都市部・地方部の別で区分している[2]。級区分は、道路の種類、平地部・山地部の別、計画交通量で区分している[2]。道路の建設を計画する際には、区間ごとにどれに分類するかを決定し、それに基づいて設計が行われる。
- 第1種:地方部の高速自動車国道及び自動車専用道路(平地部1 - 4級、山地部2 - 5級)
- 第2種:都市部の高速自動車国道及び自動車専用道路(1 - 2級)
- 第3種:地方部のその他の道路(平地部1 - 5級、山地部2 - 5級)
- 第4種:都市部のその他の道路(1 - 4級)
また、通行することのできる交通の種別による分類として、自動車専用道路、自転車専用道路、歩行者専用道路、自転車歩行者専用道路という道路法の専用道路と、道路の一部分を区画して自動車の通行を制限している道路構造令上の歩道、自転車道、自転車歩行者道がある。
機能区分
- 主要幹線道路
- 幹線道路
- 補助幹線道路
- その他の道路
接続制限による区分
自動車専用道路
自動車だけが走れるような構造になっている道路で、以下の条件を満たし道路管理者が法規に基づき指定を行ったものを自動車専用道路という。歩行者や自転車などの通行は禁止される。
- 自動車だけの通行に限られること。
- 出入はインターチェンジに限られること。
- 往復車線が中央分離帯によって分離されていること。
- 他の道路、鉄道等との交差方式は立体交差であること。
- 自動車の高速通行に適した線形になっていること。
これらの道路には、高速自動車国道、都市高速道路および上記の条件を満たす一般有料道路、自動車専用道路が該当する。なお、これらの法規の適用を受けない例外的存在として、私道である宇部伊佐専用道路がある。
高速道路のうち、高速自動車国道および一般国道の自動車専用区間の一部は、主に東日本高速道路株式会社・中日本高速道路株式会社・西日本高速道路株式会社・本州四国連絡高速道路株式会社が建設・管理を行う。
また都市高速道路とは、大都市圏およびその周辺地域でひとつのネットワークとして機能する自動車専用道路を指し、その事業主体は下記の都市高速道路会社や地方公社が中心となっている。
首都圏・阪神圏の都市高速道路である首都高速道路・阪神高速道路は都府県道または市道であるが、国・地方自治体の設立・出資による特殊会社(首都高速道路株式会社・阪神高速道路株式会社)がそれぞれ建設(一部、路線の存する都府県、市が施工する場合がある)・管理を行う。また国の認可を経て地方自治体が設立・出資する公社による都市高速道路を指定都市高速道路といい、名古屋、福岡・北九州、広島の3都市圏に整備されている。
なお、高速道路株式会社法(2004年6月9日公布)において高速道路とは次のように定義されている。
- 「この法律において「高速道路」とは、次に掲げる道路をいう。
- 一 高速自動車国道法(昭和三十二年法律第七十九号)第四条第一項に規定する高速自動車国道
- 二 道路法第四十八条の四に規定する自動車専用道路(同法第四十八条の二第二項の規定により道路の部分に指定を受けたものにあっては、当該指定を受けた道路の部分以外の道路の部分のうち国土交通省令で定めるものを含む。)並びにこれと同等の規格及び機能を有する道路(一般国道、都道府県道又は同法第七条第三項に規定する指定市の市道であるものに限る。以下「自動車専用道路等」と総称する。)」
- (平成16年6月9日法律第九十九号 高速道路株式会社法第二条第二項)
一般道路
上記の自動車専用道以外の道路を、通常「一般道」と呼んで区別している。
日本の道路の歴史
古代
考古学的な発見にもとづく歴史では、日本列島では、縄文人の縄文時代前期中頃から中期末葉(今から約5900-4200年前)の遺跡である三内丸山遺跡に幅12メートルの舗装された道路があったことが、2000年に発見された[3]。
日本の土木工学の専門家は、古代の人々が農耕を始めて定住した場所には、集落間での交易が始まって往来が頻繁になり、多くの人が歩いた結果、自然発生的に踏み分けられた原始的な道ができたといわれている[4]。
日本における人工的な(人工的で、距離の長い)道路整備では、諸説あるが紀元前548年頃の綏靖天皇時代に山陽道が開かれたのが最も古いといわれている[5]。日本国外では、紀元前3000年頃にエジプトでピラミッド建設のための道路が整備されていた記録があることから、日本の道路整備は海外に比べて時代的に大きな後れをとって始められていた[5]。
なお日本の書物の中の道路についての最も古い記述としては、日本書紀(養老4年、西暦720年 完成)におさめられている「神武東征」の件りで、河内国から大和国に兵を進めた様子を書いた記述、「皇師兵を勅へて歩より龍田に赴く。而して其の路嶮しくして、人並み行くを得ず。」であるとされている。
7世紀当初、飛鳥地方に大和政権が誕生し、奈良盆地東縁を通る山辺の道や、聖徳太子が通ったとされる太子道、南北に通る上ツ道・中ツ道・下ツ道、これに直行する横大道、竹内街道などが造られた[6]。日本書紀の推古天皇21年(613年)11月の記事には、「難波より京に至る大道を置く」とあって[7]、当時の京は飛鳥であり、竹内街道は現在の奈良県葛城市 - 大阪府堺市を結ぶもので、今の国道166号のルートにほぼ相当するものである[8]。
律令制が制定されて広域地方行政区画として五畿七道が定められると、日本で最初の計画的な道路網の整備が始められるようになり、646年、孝徳天皇の「改新の詔」により、地方に国司・郡司を置き、中央と地方の官庁とを結ぶ「駅路」が整備されることになった[9]。中央政府を中心に、大路・中路・小路の制度が定められ、これが日本における道路制度の始まりと言われている[5]。駅路の全長は6500キロメートル (km) にもおよび、30里(約16 km)毎に駅が設けられて、輸送機関として駅夫・駅馬が置かれた[9][10]。駅路は大和朝廷の都(畿内)を中心に放射状に作られ、特に山陽道・東海道・東山道・山陰道・北陸道・西海道・南海道の7路線を「七道駅路」「畿内七道」として重点的に整備した[11][5]。これら七道の呼称は、道路を指すだけでなく、その道路によって結ばれる国の地域的集合区分としても用いられた[12]。この内、都と大宰府(九州)とを結び最重要視されていた山陽道と西街道の一部が「大路」、東国へ向かう東海道・東山道を「中路」、その他を「小路」と呼んだ[10][5]。 これらの道路の特徴は、小さな谷は埋め、峠付近は切り通しにするなどして、できるだけ直線的に平坦になるように作られていたため、集落からは遠く離れたところを通っていた[9]。この直線的な道路の傾向は、ローマ帝国におけるローマ街道でも見られる。
奈良時代には行基の指導により、平城京と各地を結ぶ奈良街道などが整備されたほか、神社や寺院が各地で建立されたため、高野街道、熊野古道などの信仰の道が生まれた[10]。
中世
藤原氏が治めた平安時代から鎌倉時代にかけては、大きな道路整備は行われなかった[5]。
源頼朝が鎌倉に幕府を開くと、山陽道に代って都がおかれている京都と鎌倉を結ぶ東海道が重要視されるようになった[13]。この時代には、頼朝が支配圏を拡大していくために道路整備を積極的に行っており、特に東国の関東武士が鎌倉へ集結するための関東各地と鎌倉とを結ぶ鎌倉街道が切り開かれた[13][14]。
室町時代は、道路や交通に対する目立つような施策はほとんど見られず、数多く関所を設けて通行人から通行税をとる政策しか行われなかった[15]。
戦国時代には、各戦国大名にとって物資の往来、敵からの防御が死活問題であったため、領内の道路整備や峠の開削が行われた[16]。特に武田信玄は、棒道と呼ばれる軍事的な輸送目的の道路を積極に整備している[10]。領国の境には関所が設けられて通行税の徴収が行われるようになっていったが、そんな中、織田信長は全国統一を目指して道路整備の方針を制度化し、この思想が江戸幕府に引き継がれることになる。信長は、1574年に道奉行の役職を置き、道路の大規模な改修を実施しており、主要道路の幅員を3間半(約6.54 m)、その他は3間(約5.5 m)として、2160間を1里(約3927 m)と制定している[5]。
織田信長・豊臣秀吉は天下統一のための支配圏拡大を行っていくにあたり交通路を重要視しており、道路改修や橋梁整備を怠らず行い、国の境にあった関所を廃止した[13][10][17]。
江戸時代
江戸時代に入り、幕府は一般旅行者や諸国大名の参勤交代のため全国的な道路整備を行った。その中心となるのが、幕府直轄の五街道である[5]。五街道は4代将軍徳川家綱の時代に定められたもので、江戸の日本橋を起点とする東海道、中山道、甲州街道、奥州街道、日光街道の5つの街道のことである[18]。五街道に繋がる街道(附属街道)のうち主要なものを「脇往還」または「脇街道」という。五街道とその脇街道で、本州中央部のかなりの地域を網羅していた。五街道沿いには原則として天領・親藩・譜代大名が配置された。また、交通上重要な箇所には関所や番所を置いた。
五街道は1601年(慶長6年)に徳川家康が全国支配のため順次整備が始められ、1604年(慶長9年)に日本橋が五街道の起点と定められた[10]。1659年(万次2年)以降になると、五街道と脇街道は幕府の道中奉行の管轄とされた[10]。それ以外の街道は勘定奉行が管理をしていたが[19]、道中奉行のような直接管理ではなく、沿道の藩に実際の管理を行わせた。これは、五街道・脇街道以外の街道が外様大名の大藩の領地であることにも関係がある。
軍事・警察上の必要から街道の要所には関所を配置して検問が行われたほか、一里(約4 km)ごとに一里塚が設けられ、一定間隔ごとに開設した宿場には本陣・脇本陣、旅籠などが立ち並んだ[10]。 江戸時代の街道には、古代の駅路などに比べて一般民衆の通行も多くなったが、旅人は道路を見てその藩の状況を判断するからということで、各藩は道路の整備に気を配っていた。また、当時は、馬や駕籠は使われていたものの、まだ馬車は無く交通の大半が徒歩であったことから、道路の傷みは馬車交通で破壊された欧州諸国の道路のようにひどくなかった[20][21]。日本を訪れていた西欧人の旅行記などには、この当時の日本の道路の印象について書かれており、ヨーロッパの道路と違い整備状態が実によく行き届いていたことを示す評価がなされている[20][21]。
平戸や長崎には、オランダ人の手によって、石畳による日本初の舗装道路が作られた。
明治時代
徳川第15代将軍慶喜による大政奉還後、明治新政府によって近代的な道路整備が始まり、道路行政に関する諸制度が次第に整備されるようになった[22]。1869年(明治2年)、全国諸道の関所が廃止されて制度面での交通障害が除かれた[23]。また、それまで車両の使用に課されていた制約が除かれ、この結果、従前の駕籠に代わって、1870年に和泉要助が考案した人力車が軽便な交通機関として急速に普及した。さらに都市では上流層が馬車を用いるようになり、1869年(明治2年)には、東京 - 横浜間に日本で初めての乗合馬車が開業した[24]。その後、東京 - 高崎間や東京 - 宇都宮間など、相次いで主要都市間の乗合馬車が開業されるようになった[24]。日本にも馬車が輸入されて導入されるようになると、それまで徒歩に耐えられる程度に砂利を敷き砂で固めてあった当時の日本の道路は、馬車の通行によってすぐに傷んでたちまち悪路と化し、あまりのでこぼこ道に、馬車が横転する事故も発生していた[25]。
明治政府が最初に行った道路方策は、1871年(明治4年)の太政官布告で発した有料道路制で、道路・橋梁などの築造や運営を民間人が実施し財源として料金を徴収することを認めた。この制度を基に1875年(明治8年)に、東海道に並行する小田原 - 箱根湯本間に日本初の有料道路が開通する[26]。1872年(明治5年)には、太政官布告(道路清掃ノ条目)が制定されて、街路樹が植えられ、車道に砂利、歩道は煉瓦・敷石で舗装された近代的な道路が東京市にできた[22]。さらに1876年(明治9年)の太政官布告第60号により、道路を国道・県道・里道の3種類に分け、さらに一等・二等・三等の等級に格付けする道路の法律制定されて[22]、1898年(明治18年)内務省告示第6号に、江戸時代以来の主要な街道は日本橋を起点とする国道に指定されて1号から44号まで番号が付けられた[23][27][28]。
1886年(明治19年)内務省訓令により、道路の施行方法について基準が定められ、割石道路(マカダム道路)が標準道路となった[22]。この道路工法は、路床と路面は中央が少し高くなるように歪曲を持たせて、路床の上に4 - 5センチメートル (cm) 大の砕石を厚さ12.5 cmに敷き、その上の表層面に細砕石および接合剤を厚さ7.5 cmで敷き固めたものである[29]。
1872年(明治5年)に新橋 - 横浜間に日本で最初の鉄道が開業して以来、明治政府も長距離の交通手段としては、安全性が高く、より速度や輸送力に優れていた鉄道の建設を優先し、また沿岸部では内航航路が輸送に占める比重も大きかった[30][31]。明治新政府の中には、鉄道整備を優先すべきと強力に主張する者がいたこともあって[22]、道路の中では限られた幹線が馬車交通を辛うじて可能とする程度に整備されたに過ぎず[注釈 1]、鉄道路線の延伸に伴い馬車は幹線道路から影を潜めるようになり、やがて鉄道が陸上交通の主役の座に就いた[24]。
それでも、鉄道建設が明治時代中期以降まで遅れた地域では、新道開削が大規模に行われた例も見られた。よく知られるのは、明治10年代に三島通庸が相次いで県令(県知事)を務めた山形・福島での道路整備である。三島は県民に労働力と費用供出を強制し、文字通りの力業で道路建設を急速に推進した[33]。その使役ぶりは官憲による強圧を伴うもので苛烈を極め、三島は「鬼県令」として恐れられた。福島・山形両県を結ぶ50 kmの新道「万世大路」(1881年全通)は、当時日本最長のトンネルである栗子山隧道(全長約870m)を含む馬車通行可能な道路で、三島の建設した道路の中でも最も有名な例と言える[34]。
日本に初めて自動車が導入されたのは、1903年(明治36年)のことである[35]。当時の日本の道路は全くの未舗装で、東京の都心部も舗装されていなかった[35]。このため、雨が降ればたちまち道路は泥沼と化し、車のタイヤが泥にのめりこむのは当たり前で、でこぼこ道にたまった水溜まりを通り抜ける車がはねた泥水は、通行人に浴びせられることも日常茶飯事であった[35]。初めてのアスファルト舗装が行われたのは明治の終わりごろだといわれており、まだこの当時の舗装技術は未熟だったため、簡易舗装的なものだったと考えられている[35]。その後、大正期にかけて自動車の輸入が増大していき、道路の重要性も増してきたことから、市街地の道路整備も本格的に行われるようになっていった[22]。
大正時代から第二次世界大戦まで
1919年(大正8年)に道路法が初めて制定され、道路は国道、府県道、郡道、市道、町村道の5種に分類され、国道も再編成が行われた[36][37]。なお郡道は1923年(大正12年)4月1日に郡制が廃止されたことにより府県道及び市町村道に昇格及び降格となった[38]。軍港や基地に達する国道路線が多く置かれ、軍事国道と呼ばれる国道も設置された[36]。国道に関しては、建設費および改修費は国が負担し、その他の道路は地方公共団体が負担することになっていた[37]。 1920年(大正9年)、日本初の道路整備長期計画である「第1次道路改良計画」が策定される。しかし、その3年後に関東大震災が発生し、帝都復興が優先された結果、地方道路の整備は更に遅れてしまった。日本初となる本格的な舗装道路、つまり現在でいう本舗装が誕生したのは、1926年(大正15年)に完成した東京・品川 - 横浜市間の約17 kmと、兵庫県尼崎市 - 神戸市間の約22 kmの道路であった[35]。
この時代には、ドイツのアウトバーンを参考に、産業・軍事用の高速道路計画と主要道路の改良策も検討されたが、1937年(昭和13年)の日中戦争突入にはじまり、1941年(昭和16年)の太平洋戦争勃発という事態になると、戦争が最優先されて道路整備は実現不能なものとなっていた[23][39]。
第二次世界大戦後
敗戦国となった日本は、戦争末期の空襲で甚大な被害を受けて、戦時中は保守管理が行き届かなかった道路も相当に荒廃していた[40]。舗装はもとより路盤を造る砕石がほとんどない路面は、自動車の重量を支えられずに轍(わだち)はのめり込み、道路幅員もすれ違いが出来ないほど狭く、車両によっては沿道の家屋と接触するほどであった[41]。また、トラック走行によって舞い上がる砂塵は、日常生活や周囲の農作物に対して被害を及ぼした[41]。破損した道路の復旧・維持修繕を促すために、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)のマッカーサー司令官は、1948年(昭和23年)に「日本の道路及び街路網の維持修繕五箇年計画」の策定を要請し[42]、1952年(昭和27年)に改正道路法が制定された[23][22]。自動車の普及とともにその重要性が認識されはじめ、1954年(昭和29年)に「第一次道路整備五か年計画」が発足し、政府も道路整備に本腰を入れ始めるようになった[43]。自動車保有台数も100万台を突破していたため、政府は国内初の高速道路である名神高速道路の実現可能性を探るべく、世界銀行が派遣したアメリカのラルフ・J・ワトキンスを長とする調査団に調査依頼したところ、1956年(昭和31年)に提出されたワトキンス・レポートで日本の道路事情の悪さを痛烈に指摘されるほど[注釈 2]道路整備を行うための財源不足が外国人によって認識させられ、これが戦後日本の道路整備を推進するきっかけとなったといわれている[23][43]。その後、田中角栄らが道路整備を行うための特定財源制度を議員立法で制定させて、その財源をもとに急速に道路整備が行われたことにより[22]、ワトキンスが来日した当時は日本政府の道路整備支出予算は国民総生産(GNP)の0.7%に過ぎなかったものが、10年足らずの間に大幅に拡大されて2%を突破し、その後も2%台を維持した[43]。
1960年頃まで、日本の道路のほとんどは非舗装といってよい状況であった[45]。1960年代半ばまで一般国道の改良率や舗装率を伸ばすことが最重要課題で、道路整備五箇年計画の計画的・重点的実施により、道路水準は著しく向上し、高度経済成長期を支える基本インフラ整備に貢献した[46]。その後は政府の経済計画である全国総合開発計画(全総)との連動で、時代による道路整備の方向性も変化していき、幹線道路の混雑の解消とともに高速道路の全国的整備へとシフトしていった[46]。
1964年(昭和39年)東京オリンピックを1つの契機として、高速道路や都市高速道などが整備されていき、その前年の1963年(昭和38年)には日本初の高速道路である名神高速道路が誕生した[43]。当初、高速道路は6つの法律に基づき個別路線ごとに計画されたが、全国的構想に基づくものではなかったため、1966年(昭和41年)に国土開発幹線自動車道建設法が制定され、延長7600 kmの全国高速道路網計画が策定された[47]。
また、1960年代後半から始まったモータリゼーションは日本の道路の舗装化が急速に進んだ時期でもあったが[48]、自動車の台数は急増していき、交通事故死者が激増して社会問題となり、昭和40年代は交通戦争という言葉まで生まれた[23]。交通公害も社会問題となり、多様化する社会ニーズへの対応など、道路整備延長を増やすだけでは解決できない問題に対し、本格的に自動車や道路の対策が行われることになる[46]。
1980年代に入ると、人口が東京・首都圏だけに集中し始める現象が起こるようになり、政府はこれに対処すべく1987年(昭和62年)に第四次全国総合開発計画(四全総)を策定し、「多極分散型国土の構築」を「交通ネットワークの構築」によって実現することが提唱され、7600 kmに代わる新たな高速道路網計画として延長1万4000 kmの高規格幹線道路網が主要プロジェクトとして位置づけられた[49]。この計画では、目標サービスの改善としてインターチェンジまで1時間以内に見直され、災害に対するリダンダンシー(冗長性)などの視点が加えられた[49]。バブル景気の時代に入ると道路の開発ラッシュで整備がさらに進んだ。
平成
高速道路など高規格幹線道路のネットワークは全国を網羅し、それを補助する地域高規格道路も整備が行われた。道路において一定の量的ストックは形成されたため、2000年代に入り、道路整備予算は縮小されつつあるが、過去の道路建設に伴う負債が多くの自治体で問題となっている。
また、交通事故による死者数はピーク時1万5千人を超えていたが、2007年には高度な医療体制の確立や、エアバッグや衝突安全ボディーなど自動車の安全装置の充実、自動車台数の減少などによって5千人以下となった。
注釈
- ^ 明治政府は交通インフラに鉄道の整備を優先させたため、他国に比べ道路整備が相対的に遅れたともいわれる[32]。
- ^ 1955年(昭和30年)の道路舗装率は、国道だけとってもわずか13.6%にすぎなかったといわれる[44]。
- ^ 車道と歩道が分離されている場合などを除く。
- ^ ただし、農道・林道・自転車道・自然歩道などは含まない。
- ^ 面積1平方キロメートルあたりの道路の延長。
- ^ 都道府県面積に対する道路面積が占める比率。
- ^ 個別最適ではなく、全体最適の観点でとらえて、計画と実績を管理していくこと。
- ^ 維持管理指数(英語:Maintenance Control Index)。道路管理者の立場からみた舗装の維持修繕の要否を判断する評価値であり、地域や路線ごとに供用年数・車線当たりの交通量・大型車混入率を説明変数にして、劣化曲線の線形回帰式から算出される将来予測値で評価する。数値レベルは0から10までの範囲で、数値が5を下回ると修繕の必要性があるとされる[66]。
出典
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