応仁の乱 経過

応仁の乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/19 20:42 UTC 版)

経過

御霊合戦

「応仁の乱勃発地」の石碑(京都市上京区御霊前通烏丸東入、上御霊神社鳥居前)

文正元年(1466年)12月、7年前の追放以来畿内近国で抵抗・逃亡を続けていた畠山義就が大軍を率いて上洛し、千本地蔵院京都市北区)に陣取った[注釈 2]。これまで連携していた細川勝元と山名宗全であったが、畠山氏の継承問題を巡っては立場を異にしていたため、両畠山の抗争が再び中央に持ち込まれ緊張が高まると対立するようになる。

年が明けて1月2日1467年2月6日)、将軍義政は正月の恒例である春日万里小路の畠山邸(政長側)への御成を取り止めて[22]室町第に義就を招き、さらに追い討ちをかけるように山名邸の酒宴に出席して義就・宗全側を支持する姿勢を示した。1月6日には政長の管領職を罷免し、畠山邸を義就へ明け渡すよう命じた[22]。これに対して勝元は室町第を包囲して将軍から義就追討令を得ようと企図したが、勝元夫人(宗全の娘)が事前に宗全に情報を漏らしたため、宗全・義就・斯波義廉(管領)が先手を打って室町第を占拠し[22]、勝元側は御所巻に失敗した。

1月18日2月22日)、政長は自邸に火を放って上御霊神社(京都市上京区)に陣を敷き抗戦の構えを見せた。義就は天皇上皇らも室町第に避難させて将軍とともに抱え込み[23]、勝元・政長・京極持清の兵がこれを御所巻にした[24]。ここに至って将軍義政は畠山氏の私闘への関与を禁じたが、宗全や山名政豊(宗全の孫)・斯波義廉・朝倉孝景(斯波氏宿老)らはこれに取り合わず義就に加勢した[25]。義政の命に従って政長への加勢を止めた勝元は「弓矢の道」に背くものとして非難を受けた[26][27]。義就側は釈迦堂から出兵して御霊社の政長軍を攻撃した(御霊合戦)。戦いは夕刻まで続いたが、政長は夜半に社に火をかけて自害を装い逃走した。勝元邸に匿われたといわれる[28]

大乱前夜

応仁元年(1467年)の勢力図
水色:東軍、黄色:西軍、黄緑:両軍伯仲

山名宗全らが室町第を占拠したことで幕府中枢から排除された格好となった細川勝元は、御霊合戦の後も没落せずなお京都に留まり続けていた。山名方は斯波義廉(管領)の管領下知状により指令を行っていたが[29]、勝元も代々管領職を務める細川京兆家当主の立場で独自に(管領の職務である)軍勢催促状や感状の発給、軍忠状の加判などを自派の大名や国人に行った[30]。そして四国など細川氏一族の分国からも兵を京都へ集結させるなどしたため緊迫した状態が続いた。3月5日に改元されて後の応仁元年(1467年)4月に細川方の兵が山名方の年貢米を略奪する事件が相次いで起き、足利義視が調停を試みている。また細川方の兵は宇治や淀など各地の橋を焼き、4門を固めた。

宗全は5月20日に評定を開き、五辻通大宮東に本陣を置いた。両軍の位置関係から細川方を「東軍」、山名方を「西軍」と呼ぶ。『応仁記』によれば東軍が16万、西軍が11万以上の兵力だったというが、これは誇張と考えられる。京都に集結した諸将は北陸信越東海九州筑前豊後豊前が大半であった。守護分国の分布では、東軍が細川氏一族の畿内と四国に加えその近隣地域の自派の守護、西軍は山名氏の他に細川派の台頭に警戒感を強める周辺地域の勢力が参加していた。当初の東軍の主力は細川氏・畠山政長・京極持清・武田信賢文正の政変で失脚した赤松政則斯波義敏を加えた顔ぶれで、西軍の主力は山名氏・斯波義廉(管領)・畠山義就・一色義直土岐成頼大内政弘であった[31]

開戦と東軍の足利義視推戴

応仁元年(1467年)5月、東軍はかつての播磨守護赤松氏の一門赤松政則が山名分国の播磨国に侵攻し奪還した。また武田信賢細川成之らが若狭国一色氏の領地へ、斯波義敏越前国へ侵攻した。美濃土岐氏一門の世保政康も旧領であった一色氏の伊勢国を攻撃している。

そして、5月26日に京都での戦いが始まる(上京の戦い)。夜明け前、東軍は成身院光宣興福寺衆徒)が室町第西隣の一色義直邸に近い正実坊を、武田信賢が実相院を占拠した[32]。武田信賢・細川成之の軍が続いて一色邸を襲撃し、義直は直前に脱出したものの屋敷は焼き払われた。細川勝元は戦火から保護するという名目で室町第を押さえて将軍らを確保し、自邸(今出川邸)に本陣を置いた。勝元は匿っていた畠山政長を含む自派の諸将兵に応じるよう呼びかけた。また西軍についた幕府奉行衆の責任を追及し、6月11日には恩賞方を管轄していた飯尾為数が殺され、8月には伊勢貞藤(貞親の弟)が追放された[33]

応仁の乱

京都で開戦した26日、西軍は斯波義廉(管領)配下の朝倉・甲斐氏の兵が山名宗全邸南側の細川勝久邸を攻めて細川勢と激戦を展開し、東から援軍に来た京極持清を返り討ちにした。東軍の赤松政則は南下して正親町を通り、猪熊に攻め上って斯波勢を退け、細川勝久はこの隙を見て東の細川成之邸に逃げ込んだ。西軍は勝久邸を焼き払い、さらに成之邸に攻め寄せ雲の寺、百万遍の仏殿・革堂にも火を放ち成之邸を攻撃したが東軍の抵抗で勝敗は決せず、翌日両軍は引き上げた。この合戦による火災のため、京都は北の船岡山から南の二条通りまでの一帯が延焼した[34]。将軍義政は28日に両軍に和睦を命じ、勝元の行動を非難しながら、義就には河内下向を指示し、また伊勢貞親に軍を率いて上洛させるなど乱の収束と復権に向けた動きを取っていた[35]

ところが6月3日に勝元の要請によって将軍の牙旗が東軍に下され、足利義視が総大将に推戴されたことで[36]、戦乱は拡大する方向に向かっていく。東軍は軍事行動を再開し、6月8日には赤松政則が一条大宮で山名教之を破った。さらに将軍義政が降伏を勧告すると斯波義廉ら西軍諸将は動揺して自邸に引きこもったが[37]、東軍は義廉邸も攻撃した。京都は再び兵火に巻き込まれ、南北は二条から御霊の辻まで、東西は大舎人町から室町までが炎上した。義廉・六角高頼土岐成頼はいったんは降伏の意向を示したが、東軍に激しく抗戦する朝倉孝景(斯波氏宿老)の首級を条件とされたため断念した[38]

西軍大内政弘の入京と義視の逃亡

西軍は6月14日大和国古市胤栄19日に紀伊国の畠山政国などの援軍が到着し始めたが、8月23日周防国から大内政弘伊予国河野通春ら7か国の軍勢1万と水軍2千艘[39]を率いて入京して勢いを回復した。同日天皇・上皇が室町第に避難し、一郭が仮の内裏とされた。一方では足利義視が伊勢貞親の復帰に危険を感じて出奔し、北畠教具を頼って伊勢国に逃亡した。この頃から西軍は管領下知状にかわって諸将の連署による下知を行い始めた。

大内政弘は8月中に船岡山に陣取った。9月1日に攻めかかった武田勢を畠山義就朝倉孝景が追い出し、武田勢が逃げ込んだ三宝院に火を放った。6日に将軍義政は再度義就の河内下向を命じたが、義就は従わず戦いを続けた[注釈 3]9月18日に京都郊外の南禅寺山でも戦いが起こり(東岩倉の戦い)、10月3日に発生した相国寺の戦いは激戦となり両軍に多くの死傷者を出したが、勝敗を決するには至らなかった。しかし、焼亡した相国寺跡には斯波義廉が陣取り、また義就は宗全邸の西に進出し、東軍は劣勢に立たされた。

朝廷においては10月3日に後花園法皇が興福寺に山名宗全の追討を命じる治罰院宣を発したほか、12月5日12月31日)に正親町三条公躬(公治)・葉室教忠・光忠父子・阿野季遠・清水谷実久ら西軍派とされた公家の官爵剥奪が決定された。彼らは富子の実家である日野家と対立関係にあった三条家の一族や縁者が多く、義視を支持していた公家達であった。

斯波義廉の管領解任

応仁2年(1468年3月17日に北大路烏丸で大内政弘と毛利豊元小早川煕平が交戦、3月21日には、稲荷山稲荷社に陣を張って山名側の後方を撹乱・攻撃していた細川方の骨皮道賢が攻撃されて討死し、稲荷社が全焼した。5月2日細川成之斯波義廉邸を攻めたり、5月8日に勝元が宗全の陣を、8月1日に勝元の兵が相国寺跡の義就の陣を攻めていたが、戦闘は次第に洛外に移り、山科、鳥羽、嵯峨で両軍が交戦した。

管領斯波義廉は西軍に属したものの、将軍義政から直ちに解任されなかった。将軍が主宰する御前沙汰なども管領不在のまま行われていた[41]。だが、応仁2年(1468年)、幕府と敵対していた関東の古河公方足利成氏に義廉は和睦を提案し、山名宗全畠山義就の連名の書状を送った。この理由については、義廉は幕府の関東政策の一環として斯波氏の当主に据えられたため、成氏と幕府の和睦という成果を挙げて家督と管領職の確保を狙ったと推定される。しかし、義政は独断で和睦を図った義廉を許さず、7月10日に義廉を解任して勝元を管領に任命、義廉の家督と3ヶ国守護職も取り上げられ、松王丸に替えられた。書状が出された月は2月から3月と推定され、相国寺の戦いの後に西軍有利の状況で義廉が動いたとされる[42]

義視の西軍入りと大内軍の優勢

応仁2年(1468年)9月22日、しばらく伊勢国に滞在していた足利義視は細川勝元(管領)や足利義政に説得されて東軍に帰陣した。帰京した義視は足利義尚派の日野勝光の排斥を義政に訴えたが、受け入れられなかった。さらに義政は閏10月16日には文正の政変で義視と対立した伊勢貞親を政務に復帰させ、11月10日には義視と親しい有馬元家を殺害するなどはっきりと義尚擁立に動き出した。勝元も義視擁立には動かず、かえって出家をすすめた。こうして義視は再度出奔して比叡山に登った。11月23日12月19日)、西軍は比叡山に使いを出して義視を迎え入れて“新将軍”に奉った。正親町三条公躬、葉室教忠らも西幕府に祗候し、幕府の体裁が整った。以降、西幕府では有力守護による合議制の下、義視が発給する御内書によって命令が行われ、独自に官位の授与も行うようになった。

一方で幕府では日野勝光、伊勢貞親ら義政側近の勢力が拡大し、文正の政変以前の状態に戻りつつあった。勝元には義視をあえて西軍に送り込むことで、親宗全派であった富子を幕府内で孤立させる目論見があったとも推測されている。以降勝元は西軍との戦いをほとんど行わず、対大内氏との戦闘に傾注していく[43]

大内政弘の圧倒的な軍事力によって山城国は西軍によって制圧されつつあり(西岡の戦い)、京都内での戦闘は散発的なものとなり、戦場は摂津丹波・山城に移っていった。このため東軍は反大内氏の活動を活発化させた。文明元年(1469年)には九州の大友親繁少弐頼忠が政弘の叔父教幸を擁して西軍方の大内領に侵攻、文明2年(1470年)2月には教幸自身が反乱を起こしている。しかしいずれも留守居の陶弘護に撃退されたために政弘は軍を引くことなく、7月頃までには山城の大半が西軍の制圧下となった。

これ以降東西両軍の戦いは膠着状態に陥った。長引く戦乱と盗賊の跋扈によって何度も放火された京都の市街地は焼け野原と化して荒廃した。さらに上洛していた守護大名の領国にまで戦乱が拡大し、諸大名は京都での戦いに専念できなくなった。かつて守護大名達が獲得を目指していたはずの幕府権力そのものも著しく失墜したため、もはや得るものは何もなかったのである。やがて東西両軍の間には厭戦気分が漂うようになった[44]

各勢力の動向

東軍は将軍義政や後土御門天皇・後花園法皇を保護下に置き、将軍牙旗や治罰院宣を駆使して官軍の体裁を整え、西軍は賊軍の立場に置かれていた。しかし、正親町三条家阿野家葉室家などのように将軍姻戚の日野家と対立する公家の一部は義視とともに西軍に投じており、さらに西軍は「西陣南帝」と呼ばれた小倉宮後裔を担ぐなど朝廷も一時分裂状態に陥った。

宗教勢力の動きでは蓮如率いる浄土真宗本願寺派の活動が知られ、文明5年に東軍の加賀半国守護・富樫政親の要請を受けて下間蓮崇率いる一向一揆が政親方に加担。本願寺派と敵対する浄土真宗高田派と結んだ西軍の富樫幸千代と戦い、翌文明6年に幸千代を破っている[45]。ただこの一件が後に加賀一向一揆を勃発させる遠因となった。

関東や九州では鎌倉公方少弐氏らによりたびたび大規模な紛争が発生しており、大乱以前から長い戦乱状態にあった。室町幕府が直轄しない関東八ヶ国及び伊豆甲斐鎌倉府管轄)は享徳の乱の最中にあったが、将軍義政が送り込んだ堀越公方に対し、古河公方側が西軍と連携する動きもあった[46]。文明7年には関東管領上杉顕定の後見人の越後守護上杉房定(実父)が西軍の能登守護畠山義統とともに東軍の畠山政長が領する越中を攻撃している[47]

応仁の乱における守護大名・国人の東軍(細川方)・西軍(山名方)去就一覧表[48]
×印は応仁の乱終戦までに死去した武将、勢力欄の桃色表記は足利氏一門、黄緑色表記は足利氏一門以外の七頭を示す。
勢力 領国 西軍
★印は東軍から西軍へ寝返った武将
東軍
◆印は西軍から東軍へ寝返った武将
備考
足利氏 奉公衆
奉行衆
足利義視(義政の弟)★

足利義政(第8代将軍)
足利義尚(第9代将軍)
将軍家
吉良氏 三河 吉良義藤(東条家) 吉良義真(西条家) 御一家
渋川氏 肥前 渋川教直(肥前守護) 九州探題
御一家
今川氏 駿河 今川義忠(駿河守護)×
仁木氏 伊勢
伊賀
丹波
仁木教将(伊勢仁木氏)



仁木政長(伊賀守護)
仁木成長(丹波仁木氏)
斯波氏 越前・遠江




尾張
斯波義廉(管領・渋川系当主)




織田敏広(尾張守護代・岩倉家)
斯波義敏(大野系当主)
斯波義寛(義敏の子)
斯波持種(大野家)×
甲斐敏光(越前遠江守護代)◆
朝倉孝景
織田敏定(清洲家)
管領(1467-77年)
三管領家
武衛騒動も参照
畠山氏 河内・紀伊・越中


能登
畠山義就(総州家)
畠山政国(義就の猶子)×
遊佐就家
畠山義統(能登守護)
畠山政長(管領・尾州家)
神保長誠(越中紀伊郡守護代)
遊佐長直(河内守護代)

管領(-1467,73,77年-)
三管領家
細川氏 摂津・丹波・讃岐・土佐








和泉

備中
淡路
阿波・三河



伊予
細川勝元(管領・宗家)×
細川政元(勝元の子)
細川政国(典厩家・政元後見)
安富元綱(執事)×
安富元家
内藤元貞(丹波守護代)
細川四天王(讃岐守護代等)
細川勝益(土佐守護代)
長宗我部文兼
細川常有(和泉上半国守護)
細川政久(和泉下半国守護)
細川勝久(備中守護)
細川成春(淡路守護)
細川成之(阿波三河守護)
東条国氏(三河守護代)×
三好長之(阿波郡守護代)
三好之長(長之の子)
細川賢氏(伊予守護)
管領(1468-73年)
三管領家
一色氏 丹後・伊勢

尾張
三河

一色義直(宗家)
一色義春(義直の子)
一色義遠(尾張分郡守護)
一色政照(三河分郡守護)
一色時家
四職
七頭
京極氏 近江・隠岐




出雲
飛騨


京極乙童子丸(勝秀の子)★
京極政光(持清の次男)★×
多賀清直

三木久頼★×
京極持清(侍所所司)×
京極勝秀(持清の嫡男)×
京極孫童子丸(勝秀の嫡男)×
京極政経(持清の三男)
多賀高忠(侍所所司代)
尼子清定(出雲守護代)

侍所所司(-1466年)
四職
佐々木氏庶流
京極騒乱も参照
赤松氏 播磨・備前・美作・加賀




有馬元家(赤松分家)×



 
赤松政則(侍所所司)
浦上則宗(侍所所司代)
宇野政秀(赤松分家)
小寺則職
松田元成
侍所所司(1471年-)
四職
山名氏 但馬・播磨


因幡
伯耆・備前

石見・美作
備後・安芸
山名宗全(宗家)×
山名教豊(宗全の子)×
山名政豊(教豊の子)
山名豊氏(因幡守護)
山名教之(伯耆備前守護)×
山名豊之(教之の子)×
山名政清(教之の子)
 







山名是豊(宗全の子)
四職
1474年以降は東軍
播磨・備前・美作は赤松氏に奪還された
伊勢氏 山城



三河

伊勢貞藤(貞親の弟)
飯尾為数(恩賞方)×




伊勢貞親(政所執事)×
伊勢貞宗(貞親の嫡子)
伊勢盛定後北条氏の祖・伊勢宗瑞の父)
蜷川親元(政所執事代)
戸田宗光
松平信光徳川氏の祖)
政所執事
将軍養育係
土岐氏 美濃




伊勢
土岐成頼(美濃守護)
斎藤利藤(美濃守護代)
斎藤妙椿(利藤の後見)
斎藤妙純(利藤の弟)
石丸利光
 


富島光仲
長江景秀×
長江利景(景秀の子)
土岐政康(伊勢半国守護→解任)
富樫氏 加賀
富樫幸千代(政親の弟) 富樫政親(加賀半国守護)◆
小笠原氏 信濃

小笠原清宗(府中家)
 
小笠原政秀(信濃守護・鈴岡家)
小笠原家長(松尾家)
姉小路家 飛騨

姉小路勝言(宗家。小島家)
 
姉小路基綱(古川家)
姉小路之綱(向家)
飛騨国司家
北畠氏 伊勢


北畠教具(伊勢国司・伊勢半国守護)×
北畠政郷(教具の子)
木造教親(北畠分家)×
伊勢国司家
[注釈 4]
武田氏 若狭・丹後



安芸




武田元綱(安芸分郡守護)★
武田信賢(若狭丹後守護)×
武田国信(信賢の弟)
逸見繁経×
粟屋賢家

六角氏 近江


六角高頼(宗家)
山内政綱(後見)
伊庭貞隆
六角政堯(→近江守護)×


佐々木氏嫡流
[注釈 5]
大内氏 長門・周防・豊前・筑前



石見
大内政弘(宗家。周防長門豊前守護)
内藤弘矩
陶弘護(周防守護代)
相良正任
益田兼堯
大内教幸(政弘の伯父)◆
内藤武盛(長門守護代)◆
仁保盛安◆

吉見信頼◆ 
河野氏 伊予 河野通春(予州家) 河野教通(宗家)
少弐氏 豊前・筑前

少弐教頼(筑前守護)×
少弐政資(教頼の子)
宗氏 対馬 宗貞国(対馬守護)
大友氏 豊後・筑後 大友親繁(豊後筑後守護)
菊池氏 肥後 菊池重朝(肥後守護)
島津氏 薩摩・大隅・日向



島津季久(豊州家)
島津久逸(伊作家)★
島津国久(薩州家)★
島津友久(相州家)★
島津立久(宗家。薩摩大隅日向守護)×
島津忠昌(立久の子)


国人衆
信濃
木曾家豊
飛騨

江馬左馬助
内ヶ島為氏
伊勢 長野政高 関盛元
近江

朽木貞綱
蒲生貞秀
 
大和



越智家栄
古市胤栄
古市澄胤(胤栄の弟)

筒井順永
成身院光宣(順永の兄)×
十市遠清
箸尾為国
安芸



小早川盛景(竹原家)
小早川弘景(盛景の子)
小早川弘平(弘景の子)
毛利豊元
小早川煕平(沼田家)×
小早川敬平煕平の子)

吉川経基
肥後 相良為続 阿蘇惟歳
日向 伊東祐堯

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その他

細川勝元と山名宗全の死去

文明3年(1471年5月21日、斯波義廉(前管領)の宿老で西軍の主力であった朝倉孝景が、義政による越前国守護職補任を受けて東軍側に寝返った。本来越前守護職は斯波氏のものであったが、これが臣下のはずの朝倉氏に与えられ越前一国の支配権を公認された形となった、まさに下剋上である。西軍の主力の移籍により、東軍は決定的に有利となり、東軍幕府には古河公方足利成氏の追討を再開する余裕すらも生まれた。一方で西軍は8月、擁立を躊躇していた後南朝勢力の小倉宮皇子と称する人物を擁立して「新主」とした(西陣南帝[49]。同年に関東の幕府軍が単独で成氏を破り、成氏の本拠地古河城を陥落させたことも西軍不利に繋がり、関東政策で地位保全を図った義廉の立場は危うくなった[50]

文明4年(1472年)になると、勝元と宗全の間で和議の話し合いがもたれ始めた。開戦要因の一つであった山名氏の播磨・備前・美作は赤松政則に全て奪還された上、宗全の息子達もかねてから畠山義就支援に否定的であり、山名一族の間にも厭戦感情が生まれていた。しかし、この和議は領土返還や山名氏の再侵攻を怖れた赤松政則の抵抗で失敗した。3月に勝元は猶子勝之を廃嫡して、実子で宗全の外孫に当たる聡明丸(細川政元)を擁立した後、剃髪した。5月には宗全が自殺を図って制止され、家督を嫡孫政豊に譲り隠居する事件が起きたが、桜井英治はこれを手打ちの意思を伝えるデモンストレーションであったと見ている[51]

足利義政の隠居と和睦交渉

12月19日1474年1月7日)には義政が義尚に将軍職を譲って隠居した。幕府では文明3年に長らく空席だった侍所頭人(所司)に赤松政則が任ぜられ、政所の業務も文明5年になると政所頭人(執事)伊勢貞宗によって再開されるなど、幕府業務の回復に向けた動きがみられた。管領は義尚の将軍宣下に合わせて畠山政長が任じられたものの、一連の儀式が終わると辞任してしまい、再び空席になってしまったために富子の兄である公家の日野勝光が幕府の役職に就かないまま、管領の職務を代行した[41]。一方で富子の勢力が拡大し、義政の実権は失われていった。

文明6年(1474年)3月、義政は小河に建設した新邸に移り、室町第には富子と義尚が残された。興福寺別当尋尊は「天下公事修り、女中御計(天下の政治は全て女子である富子が計らい)、公方(義政)は大御酒、諸大名は犬笠懸、天下泰平の時の如くなり」と評している[52]。だが、義政の大御酒が平時と異なったのは、室町第に退避していた後土御門天皇もその酒宴に加わっており、幕府のみならず朝廷の威信の低下にもつながる事態となっていた[53]

文明6年4月3日4月19日)、山名政豊と細川政元の間に和睦が成立。山名政豊は東軍の細川方と共に畠山義就、大内政弘らを攻撃した。さらにこの頃、西軍の一色義直の子義春が義政の元に出仕し、丹後一色氏も東軍に帰順した。その後も東軍は細川政元・畠山政長・赤松政則、西軍は畠山義就・大内政弘・土岐成頼を中心に惰性的な小競り合いを続けていた。また、赤松政則は和睦に反対し続けていた。

一方、西軍の土岐成頼の重臣で従三位奉公衆斎藤妙椿も文明6年の和睦に反対し[54]、美濃の兵を率いて近江・京都・伊勢に出兵した。更に越前にも出兵し、同年6月に西軍の斯波義廉の重臣甲斐敏光と東軍に寝返っていた朝倉孝景を停戦させている。

終息

文明7年(1475年)2月、甲斐敏光が東軍に降伏し、遠江守護代に任命された[55]。西幕府の管領で敏光の主君であった斯波義廉も同年11月、守護代織田敏広を連れて尾張国へ下国し、消息を絶った[55]。しかし和平工作を行っていた日野勝光が死去したため、和睦の流れは一時頓挫した[55]。翌文明8年(1476年)9月には、足利義政が西軍の大内政弘に「世上無為」の御内書を送り、12月には足利義視が足利義政に恭順を誓い、義政も義視の罪を不問に付すと返答し、和睦の流れが加速した[56]

主戦派の畠山義就は大内政弘の降伏によって孤立することを恐れ、文明9年(1477年9月22日に河内国に下国した[57]11月3日、大内政弘は東幕府に正式に降参し、9代将軍足利義尚の名で周防・長門・豊前・筑前の4か国の守護職を安堵された[58]。大内軍が11月11日(1477年12月16日)に京から撤収し、能登守護の畠山義統や土岐成頼も京の自邸を焼き払って帰国した[58]。義視・義材(後の10代将軍)親子は正式な赦免を受けないまま[注釈 6]、土岐成頼や斎藤妙椿と共に美濃国に退去した[59]。こうして西軍は解体され、9日後の11月20日、幕府によって「天下静謐」の祝宴が催され11年に及ぶ京都における大乱の幕が降ろされた。なお、西陣南帝は「諸将みな分国に帰り、京都に置き去りにされてしまわれた」[60]とされているものの、その後の消息は不明[注釈 7]

この戦乱は延べ数十万の兵士が都に集結し、11年にも渡って戦闘が続いた。しかし惰性的に争いを続けてきた挙句、勝敗のつかないまま終わった。主だった将が戦死することもなく、戦後罪に問われる守護もなかった。西軍の最大勢力であった大内政弘も富子へ賄賂を贈り、守護職を安堵されていた[61]

畠山義就の赦免

西軍が消滅したとはいえ、それは単に京都での戦闘が終結したということに過ぎなかった。畠山義就は京都での退去後にも幕府の命令に従わず、河内国を占拠して政長方を駆逐し、続いて大和国に侵攻した[62]。さらに義就は政長が守護を務めていた山城国に侵攻した。文明14年(1482年)末から文明15年(1483年)にかけては義就が宇治以南の南山城を占拠し、幕府の命令が届かない状態となった[63]。将軍義尚や富子は政長を見限って義就を赦免しようとしたが、義政の反対で中止された[64]。ついに文明16年(1484年)には政長の守護職を解き、幕府の直轄(御料国)としたが、戦乱はなおも続いた[64]

文明17年(1485年)7月、義就方の斎藤彦次郎が政長方に寝返ったことにより、義就方と政長方の大軍が対峙することになった。しかし山城国の国人が団結し、撤退しなければ攻撃すると両軍に通達し、義就・政長らは山城国より撤退した[65]。以降、国人たちは山城国一揆を組織し、一種の自治的な政権をつくることとなる[66]。一方で義就は山城国より撤退したことが評価され、文明18年(1486年)3月に義政と義尚から正式に赦免され、応仁の乱の戦後処理はここに完了した[67]


注釈

  1. ^ 応仁の乱の影響で幕府や守護大名の衰退が加速化し、戦国時代に突入するきっかけとなったとする説もあるが、応仁の乱以降も室町幕府は衰退しつつ影響力が一応維持されていた。このため、明応の政変以後を戦国時代とする説も存在する。
  2. ^ 『応仁別記』には富子と宗全の働きかけにより義政が義就の上洛を許したという記述がある(家永遵嗣 2014, p. 32)。
  3. ^ 義政は大乱の元凶は両畠山氏の騒乱にあるとする姿勢を保ち、5月と9月に義就の河内下向で事態の沈静化を図った。しかし、その義政が家督交替に関与していて、東軍に取り込まれて中立姿勢を取っていない以上停戦命令は無意味であり、戦争の解決に繋がらなかった[40]
  4. ^ 乱の初期には伊勢に侵攻し東軍の土岐氏領を攻めていた。
  5. ^ 史料に登場する六角亀寿丸は六角高頼の幼名とする説と、別人の六角政頼とする説の両説がある。ここでは通説に従い高頼を記載する。
  6. ^ 正式に赦免されたのは文明10年(1478年7月10日(室町幕府全将軍・管領列伝 2018, p. 302)
  7. ^ 壬生晴富の日記『晴富宿禰記』の文明11年7月11日の条として「南方宮、今時越後越中次第国人等奉送之、著越前国北庄給之由」とあり、瀧川政次郎はこの「南方宮」が西陣南帝のことであるとしている。
  8. ^ 大乗院寺社雑事記』内の『尋尊大僧正記』文明9年7月には富子が「畠山左衛門佐」に一千貫を貸し付けているという記録がある。永原慶二はこれを西軍の主将畠山義就(右衛門佐)と解釈している。しかし、西軍に参加している守護大名の畠山義統(左衛門佐)という研究者も存在する[72]呉座勇一は尋尊が東軍の畠山政長(左衛門督)をしばしば「左衛門佐」と誤記していることを指摘し、富子が東西両軍に金を貸しているという批判は誤りであるとしている[57]
  9. ^ また室町幕府も明応9年をはじめ、以後の祇園祭に度々介入して主導権の回復を図り実際に戦国時代初頭には幕府の命令による祇園祭の延期や年2度開催が度々行われた。本当の意味での町衆による祇園祭開催が可能になったのは、天文2年(1533年)の幕府の延期命令に対する町衆の反対運動以後と考えられている。

出典

  1. ^ キーン, p. 83.
  2. ^ 百瀬今朝雄「応仁・文明の乱」(『岩波講座日本歴史7 中世3』岩波書店、1976年)
  3. ^ 大阪府, pp. 54–59; 桜井, pp. 283–285; 石田, pp. 109–111, 124–125.
  4. ^ 桜井, pp. 299–300, 304; 石田, pp. 136, 160–162.
  5. ^ 大阪府, pp. 59–65; 小川, pp. 135–137; 石田, pp. 163–165.
  6. ^ 石田, pp. 147–157, 165–174, 182–185.
  7. ^ 桜井, p. 301.
  8. ^ 石田, pp. 160–165, 177–179; 川岡, pp. 109–111.
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  11. ^ 家永遵嗣 2014, p. 10-11.
  12. ^ 家永遵嗣 2014, p. 2.
  13. ^ 石田, pp. 182–190.
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  15. ^ 家永遵嗣 2014, p. 13.
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  17. ^ 家永遵嗣『室町幕府将軍権力の研究』(東京大学日本史学研究室、1995年)
  18. ^ 家永遵嗣「軍記『応仁記』と応仁の乱」(学習院大学文学部史学科編『歴史遊学―史料を読む―』山川出版社、2001年)
  19. ^ 家永遵嗣「再論・軍記『応仁記』と応仁の乱」(学習院大学文学部史学科編『〔増補〕歴史遊学』山川出版社、2011年)
  20. ^ a b 家永遵嗣 2014, p. 27.
  21. ^ 家永遵嗣 2014, p. 28.
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  24. ^ 呉座 2016, p. 85-86.
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  42. ^ 小川, pp. 187–198; 石田, pp. 241–244.
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  84. ^ 広島県, pp. 437–445, 448–465.






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