経覚私要鈔とは? わかりやすく解説

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経覚私要鈔

主名称: 経覚私要鈔
指定番号 185
枝番 00
指定年月日 2003.05.29(平成15.05.29)
国宝重文区分 重要文化財
部門種別 古文書
ト書
員数 82
時代区分 室町
年代
検索年代
解説文:  『経覚私要鈔』は、興福寺大乗院門跡経覚一三九五一四七三)の自筆日記で、『後五大院殿記』『安位寺殿御自記』とも呼ばれている。欠年があるものの、応永二十二年(一四一五)から文明四年(一四七二)までに至る日記六六冊、別記一六冊を存する本書は、明治元年一八六八)に大乗院門跡廃仏毀釈渦中廃絶した後、同門跡の文書記録類の一部政府購入され内閣文庫架蔵帰した大乗院関係史料のうちの一つである。
 記主経覚は、九条経教の子で、応永十四年(一四〇七)に出家、同十七大乗院門跡を嗣いだ。同三十三年興福寺別当に就き以後入滅まで都合四度にわたり別当務めたこの間永享十年一四三八)に将軍足利義教一三九四~一四四一)の勘気を蒙り隠居し門跡には一条兼良の子尋尊一四三〇一五〇八)が入室した。以後経覚は、大和守護興福寺実力者として活躍するが、文明五年八月二十七日、七九歳で寂した。
 本書体裁袋綴冊子本で、現装の表紙明治時代)には「安位寺殿御自記」と記されるものの、経覚付した表紙外題には「要鈔」と記す冊が多い。現状では、後世複数冊を合綴した冊も存する。また料紙一部紙背文書がある冊もある。
 内容は、興福寺年中行事法会寺務全般に係る寺内様子寺領支配などを中心とすることは言うまでもなくそのほかにも、応仁文明の乱経緯など時代の諸相について記されている。特に大和国内の様子詳細である。争乱続け筒井古市氏など衆徒・国民動向詳記する一方風流連歌茶湯相撲蹴鞠薪猿楽などの文化芸能についての記事も多い。京都との往復頻繁で、出身九条家とは日常的に贈答交わし緊密な関係を保っている。遣明船貿易活躍した楠葉西忍一三九五一四八六)は、経覚によって出家得度した関係から日記多く登場し貿易様子一端うかがわれる民衆様子としては、寛正元年一四六〇)からの大飢饉様子京都舞台として描写し、また当時頻発していた土一揆様子細かく記されている。後嗣門跡尋尊との関係は、経覚九条家尋尊一条家という出自相違加え経覚隠居命じた足利義教意向尋尊入室しという事情により、両者は相容れぬ関係にあった様子記され、『大乗院寺社雑事記』(尋尊記)と併せてみると、両者性格違い推し量られ興味深い
 別記には、寺務関わる記録である「興福寺僧綱補任」「維摩会記」などのほか、灌漑用水配分様子記した能登岩井用水記」、大乗院越前河口庄の「細呂宜郷下方引付」など庄園支配関わるものがあり、日記併せて大乗院具体相を知ることができる。
 以上のように、『経覚私要鈔』は、室町時代代表する記録であり、興福寺内の寺務寺領支配衆徒・国民動向含めた大和情勢京都動静から芸能にまで及び、中世社会経済史研究上の基本史料としてきわめて重要である。

経覚

(経覚私要鈔 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/14 06:41 UTC 版)

経覚(きょうかく/ぎょうかく、応永2年(1395年)- 文明5年8月27日1473年9月19日))は、室町時代法相宗僧侶。父は関白九条経教[1]、母は浄土真宗大谷本願寺(後の大谷家)の出身。母方の縁で後に本願寺8世となる蓮如を弟子として預かり、宗派の違いを越えて生涯にわたり師弟の関係を結んだ。興福寺別当である寺務大僧正を4度務めたことでも知られている。諡号は後五大院。

生涯

経覚の母親(法号・正林)が本願寺の出である事は記録などにも残されているが、具体的な身元は明らかになっていない。ただし、経覚の生年から5世綽如の娘であったとするのが一般的であり、これに基づけば蓮如の父である存如は経覚の従兄弟であったことになる。当時、本願寺は零落状態にあり、摂家である九条家の保護を受けるためにその家司的な事も行っており、経覚の母も九条家に出仕していた際に経教の手が付いたと考えられている。

13歳のとき、興福寺大乗院の考円の元で出家する。4年後には大乗院の門主となった。

応永33年2月7日1426年)に興福寺別当に任じられ、以後も永享3年(1431年)・寛正2年(1461年)・文明元年(1469年)に3度別当に補任されている。中央とも繋がりが深く、6代将軍足利義教室町幕府の要人とも親交が深かったが、永享10年(1438年)に幕府への献金の減免を求めて義教の不興を買い、大乗院を追放された。代わって門主に補任された尋尊との間に直接の師弟関係はなく、義教の死で復権すると、大乗院の支配権をめぐって尋尊と長期間の暗闘をくりひろげることとなった。

だが、嘉吉の乱で義教が暗殺されると、大和国人越智家栄古市胤仙らの支援を受けて已心寺に入り、活動を再開。摂津河上五ヶ関の代官職を巡って成身院光宣筒井順永兄弟と争い、嘉吉3年(1443年)に管領畠山持国(ともに義教に追放された経緯を持つ)の計らいで7代将軍足利義勝への拝謁が許され[2]、持国の支持で光宣を追い落として経覚の下に古市胤仙・豊田頼英小泉重弘が大和の支配を委ねられた。

嘉吉4年(1444年)、大和の国人を結集させて光宣兄弟の討伐を命じるが敗れ、逆に順永の攻撃を受ける。これに対して、大乗院境内の山に鬼薗山城を築いて籠城するが、翌年には同城も陥落して葛上郡の安位寺に逃れた。

文安4年(1447年)4月、古市胤仙によって強制的に本拠地である古市に迎えられる[2]。その後、経覚は何度か安位寺に戻ろうとしたものの、その度に胤仙に阻まれて古市に留まる事を余儀なくされた[3]。その背景として筒井氏との抗争や一族の離反に悩まされた胤仙が経覚を擁することで古市氏宗家の求心力を維持しようとしたこと、経覚も自身の権威を維持するためには古市氏の軍事力を必要としたために胤仙及び古市氏の要求を拒めなかったためであった。結果的に、経覚は遷化まで古市に留まることになる[4]。だが、その後は再び復権して興福寺別当に還任され、大和一国に大きな影響力を有した。

文安5年(1448年)10月には具合の悪かった兄の九条満家に呼ばれ、次期九条家家督として、満家の嫡男であるが病弱であった加々丸(28歳になるが未だに元服をしていない)の10歳になる若君(九条政忠)か、満家の実子で4歳になる茶々丸(九条政基)のどちらに家を継がせばよいかを問われ、思案した経覚はひとまず10歳の若君を家督とし、将来には茶々丸に家督を譲らせるということにすれば良いのではというと、その通りに決まり、10歳の若君は満家の養子として家を継ぎ、加々丸は出家している[5]

宝徳元年(1449年)に九条満家が没すると、その遺児である政忠・政基兄弟の後見を務めた。

宝徳2年(1450年)7月27日、大僧正一座宣旨を受けるが、その報告のための春日大社参詣を筒井氏とそれを支持する衆徒が妨害したために、8月には古市胤仙・宇高有光が筒井派に属する者の邸宅の破却(追放を意味する)を行っている[2]

享徳2年(1453年)の古市胤仙の死により、翌享徳3年(1454年)に光宣と和睦。

康正2年(1456年)以降は兄の満家の孫で東大寺の子院・東南院門跡となっていた覚尋に迷惑なほど頼られている。覚尋は東南院門跡としての職務を何一つ果たさず、経覚に頼ってばかりいたので経覚の心労の種になっていた[6]

文明5年(1473年)8月27日、迎福寺で死去した。

人物

酒井紀美は、経覚をライバルで『大乗院寺社雑事記』の著者でもある尋尊と比較し、尋尊が出来事に対し距離を置いて冷静かつ客観的な態度で執筆し、2つの対立する勢力に対して片方に加担することをしない人物であるのに対し、経覚は好奇心旺盛で行動的、求められない事に対しても自ら関わろうとする。2つの対立する勢力に対しては自らの判断で片方に加担して貫き通すが、信義には信義で応えようとする義侠心溢れる人物であると評価している[7]。また、尋尊の『大乗院寺社雑事記』応仁元年6月21日条によれば、この日に尋尊を経覚が訪れて見物のために上洛すると述べている。まさに京都で応仁の乱が勃発したことが奈良にも伝わった直後の出来事であり、経覚は応仁の乱の合戦を「見物」しに行ったことになる。尋尊は経覚の行動を「不可然次第(然るべからざる次第=不適切だ)」と評している[8]

日記に『経覚私要鈔』がある(後述)。

蓮如との関係

経覚は宗派こそ違ったものの、母方の実家である大谷本願寺との関係が深く、7世存如が死去した際には「50年来の知己で無双の恩人あった」と述べて本願寺に弔問の使者を送り、後日自身で本願寺を弔問している。

存如の庶子として生まれた蓮如は幼い頃に経覚の元に預けられ、彼の元で修学しており、その後も師弟として互いの大事には支援しあう仲であった。また、大乗院の荘園で経覚の支配下にあった越前河口庄細呂木郷(細呂宜郷とも)の代官に本願寺の末寺である和田本覚寺の住持蓮光を任じていた。

寛正の法難で延暦寺からの迫害を受けて本願寺存亡の危機に直面した蓮如が真っ先に相談に訪れたのも経覚の元であった。経覚は蓮光に管理を任せていた河口庄の吉崎へ移り再起を図る事を提案する。越前一帯には浄土真宗やそれ以外の浄土教系の諸宗派の信者が多く住んでいるために蓮如の布教には最適である事、逆に経覚の立場からしてもその頃越前の守護代であった甲斐氏朝倉孝景の争いの影響で両氏による荘園の横領が続いており、信頼のおける甥分である蓮如に河口庄の代官的な役割を期待していたとされる。

蓮如は経覚の助言と蓮光の支援を受けて吉崎に吉崎御坊を建立してここで布教活動を開始する。一方、河口庄の年貢が経覚の元に無事に届くようにという配慮も欠かす事はなかった。本願寺が北陸地方において一大勢力に成長するのは経覚の死後程無くの事であった。

経覚私要鈔

経覚私要鈔(きょうがくしようしょう・経覚私要抄安位寺殿御自記)は、経覚が記した日記である。原本82冊が国立公文書館内閣文庫)に所蔵(ただし、1冊は尋尊の日記が誤って伝えられたものと判明している)され、平成15年(2003年)には重要文化財に指定された。写本も宮内庁書陵部、東京大学史料編纂所東北大学に所蔵されている。

応永22年(1415年)から文明4年(1472年)までの分が現存しており(一部散逸)、日記部分の「日次記」と重要事件について特に記した「別記」に分けられている。興福寺内の寺務・寺領支配から大和国人衆の動向、京都の中央政界や親戚である九条家や本願寺の動きなどが詳細に記述されており、室町時代の政治・経済・社会・宗教に関する貴重な史料である。

脚注

  1. ^ 上田正昭ほか監修 著、三省堂編修所 編『コンサイス日本人名事典 第5版』三省堂、2009年、122頁。 
  2. ^ a b c 田中慶治「和泉国上守護代宇高氏と興福寺官符衆徒棟梁古市氏」(小山靖憲 編『戦国期畿内の政治社会構造』(和泉書院、2006年) ISBN 978-4-7576-0374-5 および田中慶治『中世後期畿内近国の権力構造』(清文堂、2013年) ISBN 978-4-7924-0978-4 所収
  3. ^ 『経覚私要鈔』文安4年4月13日・5月23日・6月27日条
  4. ^ 田中慶治「中世後期畿内国人層の動向と家臣団編成 -大和国古市氏を中心に-」(初出:『日本史研究』406号(1996年)/所収:田中『中世後期畿内近国の権力構造』(清文堂、2013年) ISBN 978-4-7924-0978-4
  5. ^ 酒井紀美『経覚』p150-p154
  6. ^ 酒井紀美『経覚』p165-p168
  7. ^ 酒井紀美『夢から探る中世』角川書店、2005年
  8. ^ 瀬戸祐規「『大乗院寺社雑事記』『文正記』に見る長禄・寛正の内訌」(初出:大乗院寺社雑事記研究会 編『大乗院寺社雑事記研究論集 第三巻』(和泉書院、2006年)/木下聡 編著『シリーズ・室町幕府の研究 第一巻 管領斯波氏』(戒光祥出版、2015年)ISBN 978-4-86403-146-2

参考文献

外部リンク


経覚私要鈔

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/24 04:19 UTC 版)

経覚」の記事における「経覚私要鈔」の解説

経覚私要鈔(きょうがくしようしょう・経覚私要抄安位寺殿御自記)は、経覚記した日記である。原本82冊が国立公文書館内閣文庫)に所蔵(ただし、1冊は尋尊日記誤って伝えられたものと判明している)され、平成15年2003年)には重要文化財指定された。写本宮内庁書陵部東京大学史料編纂所東北大学所蔵されている。 応永22年1415年)から文明4年1472年)までの分が現存しており(一部散逸)、日記部分の「日次記」と重要事件について特に記した別記」に分けられている。興福寺内の寺務寺領支配から大和国人衆の動向京都中央政界親戚である九条家本願寺動きなどが詳細に記述されており、室町時代政治・経済・社会宗教に関する貴重な史料である。

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