応仁の乱 背景

応仁の乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/19 20:42 UTC 版)

背景

足利義政の8代将軍就任

鎌倉時代後期から、名門武家・公家を始めとする旧来の支配勢力は、相次ぐ戦乱の結果、力をつけてきた国人・商人・農民などの台頭によって、その既得権益を侵食されつつあった。また、守護大名による合議制の連合政権であった室町幕府は成立当初から将軍の権力基盤は脆弱で、三管領細川氏、斯波氏、畠山氏)など宿老の影響力が強かった。それは宿老や守護大名も例外ではなく、領国の守護代や有力家臣の強い影響を受けていた。こうした環境が、家督相続の方式が定まっていなかったことも相まってしばしば将軍家・守護大名家に後継者争いや「お家騒動」を発生させる原因になった。幕府は、4代将軍足利義持の弟で、籤引きによって選ばれた6代将軍足利義教が専制政治を敷き、守護大名を抑えつけて将軍の権力を強化したが、嘉吉元年(1441年)に赤松満祐暗殺されてしまう。この混乱を収束させたのは管領細川持之畠山持国であった。しかし、嘉吉2年(1442年)細川持之は隠居し翌年死去、7代将軍となった義教の嫡子である9歳の義勝も就任1年足らずで急逝した。義勝の同母弟である8歳の足利義政が、管領に就任していた畠山持国邸における衆議により次期将軍に選ばれ、文安6年(1449年)に正式に将軍職を継承した。

細川氏・山名氏の連携と、管領畠山持国の隠居

管領であった畠山持国は、足利義教に隠居させられていたが、嘉吉の乱の際に武力で家督を奪還し、義教によって家督を追われた者達を復権させ勢力を拡大した。持国には子がなかったため、弟の持富を養子に迎えていた。しかし、永享9年(1437年)に義夏(後の畠山義就)が生まれたため、文安5年(1448年)に持富を廃嫡して義夏を家督につけた。これは将軍・足利義政にも認められ、義夏は義政から偏諱を授けられている。

そして、畠山持国、足利義政、義政の乳母今参局は一致して斯波氏家臣の争いに介入し、宝徳3年(1451年)の織田郷広の尾張守護代復帰を支援した。しかしこれは越前・遠江守護代甲斐常治の意を受けた日野重子(義政の母)の反対により頓挫した。さらに、畠山家内部でも重臣神保氏遊佐氏は持富の廃嫡に納得せず、持国の甥で持富の子弥三郎を擁立するべきと主張した(持富は宝徳4年(1452年)に死去)。

このため享徳3年(1454年4月3日畠山持国は神保国宗を誅殺した。この畠山氏の内紛に対し、細川勝元山名宗全、そして畠山氏被官の多くが、勝元と宗全の下に逃れた畠山弥三郎・政長兄弟を支持し、8月21日に弥三郎派が持国の屋敷を襲撃した。難を逃れた畠山持国は8月28日に隠居させられ、義就は京都を追われ、足利義政は弥三郎を家督継承者と認めなくてはならなかった。一方で、弥三郎を匿った細川勝元の被官の処刑も命ぜられ、喧嘩両成敗の形も取られた。しかし山名宗全はこの命令に激怒し、処刑を命令した義政とそれを受け入れた勝元に対して反発した。足利義政は宗全追討を命じたが、細川勝元の嘆願により撤回され、宗全が但馬国に隠居することで決着した。12月6日に宗全が但馬国に下向すると、13日に義就が軍勢を率いて上洛して弥三郎は逃走。再び畠山義就が家督継承者となった[3]

なお、文安4年(1447年)に勝元が宗全の養女を正室として以来、細川・山名の両氏は連携関係にあった。

管領細川勝元と畠山義就の対立

翌享徳4年3月26日1455年4月12日)に畠山持国は死去し、畠山義就が畠山氏の家督を相続した。義就は弥三郎派の勢力を一掃するため、領国内で活発な弾圧を行った。この最中、義就は義政の上意と称して軍事行動を行ったため、義政の信任を次第に失った。さらに義就は勝元の所領である山城国木津を攻撃、細川勝元は弥三郎を擁立することで義就の追い落としを計画した。一方で山名宗全は、長禄2年(1458年)に赦免され、同年に義就と共に八幡神人討伐に参陣した頃から親義就派となっていった[4]。長禄3年(1459年)には弥三郎が赦免され、上洛を果たしたがまもなく死去。代わって政長が勝元と弥三郎派の家臣団に擁立された。

寛正元年(1460年9月20日には義政によって政長の畠山氏家督が認められ、義就は追放された。義就は河内嶽山城に籠もって徹底抗戦を図ったため義政は追討軍を発し、義就を攻撃させた(嶽山城の戦い)。しかし義就は寛正4年(1463年4月15日まで攻撃を耐え抜き、嶽山城が落城した後は紀伊国、次いで吉野へ逃れた[5]

足利義政の関東政策と斯波氏

一方、関東では、享徳3年(1455年)に幕府に叛旗を翻し享徳の乱を起こした鎌倉公方(後に古河公方足利成氏を討伐するため、長禄元年(1457年)足利義政は、異母兄の足利政知を新たな鎌倉公方として関東に派遣したが、政知は鎌倉へ下向できず、長禄2年(1458年伊豆国堀越に留まった(後の堀越公方)。足利義政は斯波義敏を始めとする成氏追討軍を派遣しようとしたが、義敏が執事の甲斐常治内乱を起こしたため更迭、息子の松王丸(義寛)を斯波氏当主に替えた。さらに寛正2年(1461年)、足利義政は斯波氏の家督を松王丸から、足利政知の執事である渋川義鏡の子・斯波義廉に替え、堀越府の軍事力強化を企図した。しかし、渋川義鏡が扇谷上杉家上杉持朝と対立し、その後失脚したため、足利義政は斯波義敏の復権を画策した[6]

足利義政と政所執事

畠山氏や斯波氏の他にも、富樫氏小笠原氏六角氏でもお家騒動が起こっている。幕府はこれらの調停も行ったが、対応が首尾一貫せず、守護家に分裂の火種を残した。この政策は、室町幕府政所執事であり、義政側近の伊勢貞親が、将軍権力の向上を企図して主導したものであった。さらに、寛正4年(1463年)8月、義政の母日野重子が没し、大赦が行われ、畠山義就、武衛騒動で失脚した斯波義敏ら多数の者が赦免された。

この前後の一貫性のない幕府・朝廷の対応を興福寺別当尋尊は「公武御成敗諸事正体無し」と批判している。しかし、この大赦には、斯波義敏の妾と伊勢貞親の妾が姉妹であることや、細川勝元への牽制などの動機があった[7]。ところが、この伊勢貞親の政策の裏では、中央から遠ざかっていた山名宗全が斯波義廉に接近、畠山義就、伊予国や安芸国で細川勝元と対立する大内政弘とも提携、反勢力の中核となっていった[8]

また、嘉吉の乱鎮圧に功労のあった山名宗全は主謀者赤松氏の再興に反対していたが長禄2年(1458年)、勝元が宗全の勢力削減のため、長禄の変で赤松氏遺臣が功績を立てたことを根拠に赤松政則加賀守護職に取り立てたことから両者は激しく対立した。

後に勝元が養子で宗全の末子豊久を廃嫡したことが応仁の乱の一因となったともされる。

足利義視の還俗と義尚誕生

足利義政は29歳になったが今だ子はなく、生存している足利宗家の男子は3名のみと断絶が危惧される情勢にあった[9]寛正5年11月26日1464年12月24日)、義尋は還俗し名を足利義視と改めると勝元の後見を得て今出川邸に移った。まもなく義視は、義政の正室日野富子の妹である日野良子を妻に迎えたが、これは義政と富子のとりもちによるものであった[9]。『応仁記』一巻本には義政が「男子が生まれても僧門に入れる」と義視に約束したという記述があるが、確証はない[10]

寛正6年11月23日(1465年12月11日)、義政と富子との間に足利義尚(後に義煕と改名)が誕生する。義尚は出生当時から「世嗣」として扱われていたが、義視の後継者待遇も変わらずに順調に昇進を続けており、20歳以上離れた義尚後継までの中継ぎとして扱われていた[11]

富子の依頼により山名宗全が義尚の後見人とされたという『応仁記』一巻本・三巻本の記述が従来の通説であったが[12]、近年では反証もあげられている[13][14]。実際に義尚の後見人であったのは「御父」とされた義政側近の伊勢貞親であり[15]、むしろ宗全は赤松政則を支援する義政側近と敵対していたため、義政の早期隠退と義視の将軍就任を望む立場であった[16]。また『大乗院寺社雑事記』には義視と宗全が共同して義就を支援していた記述が見られる[14]。更に、細川・山名の両氏が対立関係となるのは寛正6年(1465年)から文明6年(1474年)までであり、勝元と宗全の対立を乱の原因とする理解は、『応仁記』一巻本・三巻本の叙述によるものであるとの見解も提起されている[17][18][19]

文正の政変

文正元年(1466年7月23日、足利義政は側近の伊勢貞親・季瓊真蘂らの進言で斯波氏宗家・武衛家の家督を突然、斯波義廉から取り上げ斯波義敏に与えた。さらに8月25日には越前尾張遠江守護職を義敏に与え、義廉を討つよう命じている[20]。しかし勝元はこれを拒否し、宗全も義廉について戦うと表明した[20]。貞親ら側近衆は守護大名の抵抗により窮地に追い込まれた。

9月5日、伊勢貞親が義政に義視の誅殺を訴える事件が発生した。義政は一旦これを認めたが、9月6日に義視は居館であった今出川殿を脱出し、宗全の屋敷を経て勝元の屋敷に移った[21]。勝元は宗全と協力して足利義視の無実を訴えた。これを受けて義政は伊勢貞親を切腹させるよう命じた。貞親は逃亡し、季瓊真蘂、斯波義敏、赤松政則も失脚して都を追われた。有力な側近を失った義政の影響力は著しく低下し14日に斯波家の家督は斯波義廉に戻された。


注釈

  1. ^ 応仁の乱の影響で幕府や守護大名の衰退が加速化し、戦国時代に突入するきっかけとなったとする説もあるが、応仁の乱以降も室町幕府は衰退しつつ影響力が一応維持されていた。このため、明応の政変以後を戦国時代とする説も存在する。
  2. ^ 『応仁別記』には富子と宗全の働きかけにより義政が義就の上洛を許したという記述がある(家永遵嗣 2014, p. 32)。
  3. ^ 義政は大乱の元凶は両畠山氏の騒乱にあるとする姿勢を保ち、5月と9月に義就の河内下向で事態の沈静化を図った。しかし、その義政が家督交替に関与していて、東軍に取り込まれて中立姿勢を取っていない以上停戦命令は無意味であり、戦争の解決に繋がらなかった[40]
  4. ^ 乱の初期には伊勢に侵攻し東軍の土岐氏領を攻めていた。
  5. ^ 史料に登場する六角亀寿丸は六角高頼の幼名とする説と、別人の六角政頼とする説の両説がある。ここでは通説に従い高頼を記載する。
  6. ^ 正式に赦免されたのは文明10年(1478年7月10日(室町幕府全将軍・管領列伝 2018, p. 302)
  7. ^ 壬生晴富の日記『晴富宿禰記』の文明11年7月11日の条として「南方宮、今時越後越中次第国人等奉送之、著越前国北庄給之由」とあり、瀧川政次郎はこの「南方宮」が西陣南帝のことであるとしている。
  8. ^ 大乗院寺社雑事記』内の『尋尊大僧正記』文明9年7月には富子が「畠山左衛門佐」に一千貫を貸し付けているという記録がある。永原慶二はこれを西軍の主将畠山義就(右衛門佐)と解釈している。しかし、西軍に参加している守護大名の畠山義統(左衛門佐)という研究者も存在する[72]呉座勇一は尋尊が東軍の畠山政長(左衛門督)をしばしば「左衛門佐」と誤記していることを指摘し、富子が東西両軍に金を貸しているという批判は誤りであるとしている[57]
  9. ^ また室町幕府も明応9年をはじめ、以後の祇園祭に度々介入して主導権の回復を図り実際に戦国時代初頭には幕府の命令による祇園祭の延期や年2度開催が度々行われた。本当の意味での町衆による祇園祭開催が可能になったのは、天文2年(1533年)の幕府の延期命令に対する町衆の反対運動以後と考えられている。

出典

  1. ^ キーン, p. 83.
  2. ^ 百瀬今朝雄「応仁・文明の乱」(『岩波講座日本歴史7 中世3』岩波書店、1976年)
  3. ^ 大阪府, pp. 54–59; 桜井, pp. 283–285; 石田, pp. 109–111, 124–125.
  4. ^ 桜井, pp. 299–300, 304; 石田, pp. 136, 160–162.
  5. ^ 大阪府, pp. 59–65; 小川, pp. 135–137; 石田, pp. 163–165.
  6. ^ 石田, pp. 147–157, 165–174, 182–185.
  7. ^ 桜井, p. 301.
  8. ^ 石田, pp. 160–165, 177–179; 川岡, pp. 109–111.
  9. ^ a b 家永遵嗣 2014, p. 9.
  10. ^ 家永遵嗣 2014, p. 9-10.
  11. ^ 家永遵嗣 2014, p. 10-11.
  12. ^ 家永遵嗣 2014, p. 2.
  13. ^ 石田, pp. 182–190.
  14. ^ a b 家永遵嗣 2014, p. 3.
  15. ^ 家永遵嗣 2014, p. 13.
  16. ^ 呉座 2016, p. 73.
  17. ^ 家永遵嗣『室町幕府将軍権力の研究』(東京大学日本史学研究室、1995年)
  18. ^ 家永遵嗣「軍記『応仁記』と応仁の乱」(学習院大学文学部史学科編『歴史遊学―史料を読む―』山川出版社、2001年)
  19. ^ 家永遵嗣「再論・軍記『応仁記』と応仁の乱」(学習院大学文学部史学科編『〔増補〕歴史遊学』山川出版社、2011年)
  20. ^ a b 家永遵嗣 2014, p. 27.
  21. ^ 家永遵嗣 2014, p. 28.
  22. ^ a b c 呉座 2016, p. 84.
  23. ^ 永原, p. 261.
  24. ^ 呉座 2016, p. 85-86.
  25. ^ 呉座 & 22016, p. 86.
  26. ^ 桜井, pp. 304–305; 石田, pp. 198–203; 小川, pp. 153–158.
  27. ^ 呉座 2017, p. 87.
  28. ^ 呉座 2016, p. 86.
  29. ^ 桜井, pp. 313–315.
  30. ^ 吉田, p. 338.
  31. ^ 呉座, p. 94.
  32. ^ 宮本義己『応仁の乱に生きる』下(日本放送出版協会、1994年)
  33. ^ 吉田, p. 336.
  34. ^ 石田, pp. 209–210; 小川, pp. 167–169.
  35. ^ 永原, p. 265.
  36. ^ 永原, p. 266.
  37. ^ 『私要鈔』同年六月九日条
  38. ^ 『雑事記』同年六月十三日条
  39. ^ 尋尊大僧正記
  40. ^ 石田, pp. 210–216, 224–225.
  41. ^ a b 木下昌規「応仁・文明の乱期室町幕府の政務体制における一考察」(『大正大学大学院研究論集』33号、2009年/改題所収:「応仁・文明の乱期における室町幕府と日野勝光」木下『戦国期足利将軍家の権力構造』岩田書院、2014年 ISBN 978-4-87294-875-2
  42. ^ 小川, pp. 187–198; 石田, pp. 241–244.
  43. ^ 桜井, pp. 315–317; 石田, pp. 238–241; 小川, pp. 198–201.
  44. ^ 桜井, pp. 317–318; 小川, pp. 201–210.
  45. ^ 辻川, pp. 95–107.
  46. ^ 石田, pp. 241–244, 266.
  47. ^ a b 桜井, p. 319.
  48. ^ 安田元久編『鎌倉・室町人名辞典』(新人物往来社、1985年10月1日)
  49. ^ , p. 237.
  50. ^ 桜井, pp. 210–212; 石田, pp. 252–261; 小川, pp. 318–320.
  51. ^ 桜井, pp. 320–321; 石田, pp. 262–263; 小川, pp. 213–216.
  52. ^ 永原, p. 327.
  53. ^ a b 石原比位呂「義政期の将軍家と天皇家」『室町時代の将軍家と天皇家』(勉誠出版、2015年) ISBN 978-4-585-22129-6 P332-343
  54. ^ 『大乗院寺社雑事記』文明6年4月19日
  55. ^ a b c 呉座, pp. 193.
  56. ^ 呉座, pp. 193–194.
  57. ^ a b 呉座, pp. 194–195.
  58. ^ a b 呉座, pp. 197.
  59. ^ 呉座, pp. 198.
  60. ^ 後南朝史編纂会 編『後南朝史論集:吉野皇子五百年忌記念』(新装)原書房、1981年7月、20頁。ISBN 4-562-01145-9 
  61. ^ 桜井, pp. 321–322; 石田, pp. 263–274; 小川, pp. 216–223.
  62. ^ 呉座, pp. 204-209.
  63. ^ 呉座, pp. 219.
  64. ^ a b 呉座, pp. 220.
  65. ^ 呉座, pp. 221–223.
  66. ^ 呉座, pp. 224–225.
  67. ^ 呉座, pp. 225.
  68. ^ 吉田, pp. 338–341.
  69. ^ 桜井, p. 312.
  70. ^ 馬部隆弘「摂津守護代薬師寺氏の寄子編成」(初出:『新修 茨城市史年報』第15号(2017年)/所収:馬部『戦国期細川権力の研究』(吉川弘文館、2018年) ISBN 978-4-642-02950-6) 2018年、P183.
  71. ^ 永原, p. 320.
  72. ^ 鈴木眞哉『NHK歴史番組を斬る!』洋泉社、2012年
  73. ^ 伊藤信博「酒飯論絵巻に描かれる食物について -第三段、好飯の住房を中心に」『言語文化論集』32巻2号、2011年
  74. ^ 桜井, pp. 309–311; 石田, pp. 232–235.
  75. ^ 永原, p. 277.
  76. ^ 桜井, p. 324.
  77. ^ 永原, p. 278.
  78. ^ 大阪府, pp. 262–282; 石田, pp. 246–255; 福島, pp. 13–22.
  79. ^ 朝倉, pp. 121–141.
  80. ^ 岐阜県, pp. 118–127; 宮島, pp. 21–28.
  81. ^ 戦国合戦史研究会編『戦国合戦大事典 〈第5巻〉 岐阜県 滋賀県 福井県』(新人物往来社、1988年)P24 - P27, P154 - P172
  82. ^ 石田, pp. 201–202, 209, 217–219, 257–260, 264, 269–270; 福井県, pp. 613–630; 静岡県, pp. 383–386, 404–406.
  83. ^ 兵庫県, pp. 71–77, 80–81, 88–89, 95–97, 101–103, 123–125; 岡山県, pp. 45–54, 72–78, 83–90.
  84. ^ 広島県, pp. 437–445, 448–465.






応仁の乱と同じ種類の言葉


固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「応仁の乱」の関連用語

応仁の乱のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



応仁の乱のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの応仁の乱 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS