吹奏楽の歴史 吹奏楽の歴史の概要

吹奏楽の歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/01 13:08 UTC 版)

南北戦争当時のアメリカ合衆国軍楽隊(サクソルン・バンド)

『新版吹奏楽講座』によれば、吹奏楽とは、「管楽器打楽器のみの合奏、すなわちのないオーケストラである」と規定される[1]。「吹奏楽」という日本語は、ドイツ語のブラースムジーク BlasmusikBlasは「吹く」の意)からの訳語とも考えられており[2]、日本では一般に「ウインド・オーケストラWind Orchestra や、「ブラスバンドBrass band と称されることも多い。ただし、ブラスバンドは明らかに英語真鍮brass)を主素材とする金管楽器と打楽器によって編成される楽団(英:brass band)の片仮名書きであって、誤訳と概念の混同が見られる[2][3]。吹奏楽のなかには、狭義のブラスバンド(金管バンド)のほか、シンフォニック・バンドコンサート・バンドウインド・アンサンブルウィンド・オーケストラマーチング・バンドなど多種多様な形態があり、その発達のあり方や歴史的変遷は、国や地域により異なる[3]

なお、上述の定義にしたがえば、日本の雅楽篳篥(ひちりき)や(しょう)、横笛が中心となっており、催馬楽や管絃をのぞけば吹奏楽の一形態ととらえることが可能である[注釈 1]。しかし、ここでは一般に日本で「ブラスバンド」「ブラバン」と称せられる、洋楽のなかの一演奏形態ないし一ジャンルとしての吹奏楽について、その歴史的変遷を叙述する。

原始・古代

オーリニャック文化期出土のレプリカ
帝政ローマ時代の楽士を描いたモザイクZliten mosaic):リビアズリテンen)出土。イタリア人考古学者1913年に発見。現在、トリポリジャマヒリーヤ博物館に所蔵されている。

管楽器の歴史は古く、人類の歴史がはじまって以来、草木粘土などさまざまな素材を用いて製作されている[注釈 2]。「ホーレ・フェルスのヴィーナス」で知られるドイツのホーレ・フェルス洞窟からは、現在よりおよそ3万5000年も前のオーリニャック文化期に属する象牙ハゲワシの骨でつくられたが見つかっている[4][5]。日本では縄文時代遺跡から土笛が多数見つかっており、太鼓が存在していた可能性もある[注釈 3]。世界的にみれば、太鼓の起源はラトル鳴子)とともに古く、古代メソポタミアでは紀元前2500年頃のシュメールレリーフ(浮彫彫刻)に描かれており、打楽器の起源の古さを物語る[6][注釈 4]。また、楔形文字で記録されたところによれば、この頃のメソポタミアでは既に五音階が存在したと考えられている[7]

古代エジプトでは、エジプト新王国の時代(紀元前16世紀-紀元前11世紀)の壁画にしばしばラッパの吹奏が描かれており、「黄金のマスク」で有名な紀元前14世紀の王(ファラオ)、ツタンカーメンの墓からは直管型のラッパが出土している[注釈 5]。新王国時代の壁画に描かれたエジプトには、管楽器として今日のフルートクラリネットトランペットに相当する楽器、弦楽器にはハープリュートなど、打楽器には拍子木カスタネット状のもの、シストラム英語版シンバル、がらがら(ラトル)、太鼓、タンバリンに相当するものなどがあった[7][8]。このような管楽器は信号または儀式での音響効果をにない、軍隊でも使用されたと考えられている[8][9]。また、古代イスラエルダビデソロモン宮廷では、イスラエル音楽が栄え、太鼓やシンバルによる舞踏がなされた。なお、イスラエル王国の時代には、人びとはラッパやショファルと呼ばれた角笛オーボエに似たハリルなどの楽器を用いて音楽を楽しんでいたことが知られている[7]

古代ローマにおいても、大きな行事や重要な儀式の場では、トゥーバ Tubaブッキナ英語版 Buccina [注釈 6]、コルヌ Cornu [10] など、現在の金管楽器の前身となるような様々なラッパがつくられて軍楽がなされた[9]共和政ローマの時代の音楽はギリシャ東方に影響をあたえたといわれ[7]ガイウス・ユリウス・カエサルの著述した『ガリア戦記』にも、カエサル自身、合戦の際にラッパを吹かせていたことを記録している。また、アウグストゥスより始まったローマ帝国軍楽隊も、管楽器と打楽器によって編成されていた[9]

中世・近世

吹奏楽のルーツとなったトルコのメヘテルハーネオスマン帝国時代の絵画)
インドラジャスタン州に伝わったナッカーラ

中世ヨーロッパにおいてはキリスト教音楽による声楽が中心であったが、世俗音楽では、さかんにリコーダーが用いられていた[7]11世紀以降、ヨーロッパでは高音から低音まで揃った木管楽器ファイフ英語版バグパイプドラムによる楽団が現れている[7]

1095年クレルモン教会会議以降、ヨーロッパキリスト教世界は数次にわたってイスラーム世界十字軍を派遣したが、ここで彼らはトルコ人の軍楽と遭遇する。これが、こんにちの吹奏楽の起源といわれている[11]。大きな音の出る二枚管のズルナはオーボエやファゴットの祖型となり、長い管をもつ金管のボル Boru はトランペットの原型となった。の胴の両脇につり下げて演奏した鍋型の太鼓ナッカーラ Naqquara(現在のティンパニ)やクヴルク Kuvruk(現在の大太鼓)、両面太鼓のダウル、ジル Zill(現在のシンバル)もヨーロッパにもたらされた[12]。上述したように、吹奏楽という演奏形態は、地域的には世界各地にみられ、歴史的には古代にまでさかのぼりうるが、あえて弦楽器を排し、管楽器を主体とする編成は、多くの場合、軍隊と結びついていた[2]。隊列とともに演奏し、大音量を出せて野外で響かせることができ、どこでも演奏できるうえ信号や合図としても用いることができるということであれば、管楽器こそが軍隊に最も適した楽器だったのである[11]

14世紀以降、ヨーロッパ諸国は、オスマン帝国ともしばしば交戦したが、このときオスマンの軍団が兵士の士気を鼓舞し、敵を威嚇ないし敵の戦意を喪失させるためにともなった軍楽隊がメヘテルハーネ(メフテル)である[注釈 7]1453年コンスタンティノープル陥落やそれに前後してのバルカン半島進出に衝撃を受けたヨーロッパ諸国は、同時にメヘテルハーネの大音量がもたらす効果にも驚愕し、やがて競って軍楽隊を整備するようになった[12][13]

ルネサンス期のヨーロッパの軍楽は、古代ギリシャやローマとは異なり、鼓手が雇用されたが、これは、オスマン帝国の影響抜きには考えられない[12]16世紀初頭に制作された絵画『凱旋行進』には神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世を先導する騎馬軍楽隊の威容が描かれており、トルコの影響を受けた楽器群とともに、鼓笛騎馬隊が皇帝に近侍して高い位にあったことがうかがわれる[12]。また、1549年のフォーケヴォ Fourquevaux『戦争法入門』には、3,000から6,000の歩兵について鼓手2名が必要であると記され、フランスの聖職者トワノ・アルボが16世紀末に著した『オルケソグラフィー(舞踏記譜法)』によれば、鼓手は野営の撤収、行軍、撤退、突撃の鼓舞、自己防衛の合図、警報など多様な役割をになっていた[12]

17世紀以降、ヨーロッパでは軍楽隊の整備が急速に進展した[12][13]。17世紀中葉、イギリスで起こった清教徒革命では、王党派・議会派双方のプロパガンダ歌詞にもつ行進曲がそれぞれの楽隊によって合奏され、それはあたかも「音楽戦争」と称すべき様相を呈したという[12]王政復古後のイングランド王チャールズ2世はオーボエ=バンドを編成し[7]、自身も舞楽に堪能であったといわれる、フランス絶対王政時代の「太陽王」ルイ14世は、17世紀末にトルコのメヘテルハーネに範をとって、本格的なオーボエ=バンドを編成した[12][注釈 8]。ドイツでは18世紀初頭以降、隊列行進がおこなわれるようになり、こののち行進曲の需要が高まった[13]

こうして始まったヨーロッパの吹奏楽であるが、やがて軍楽隊のみならず、一般の人びとによっても編成されることとなった[11]結婚式葬式などといった儀式、祝祭、宴会などでは音楽が必要とされたからであったが、レコードが発明されるまで、そうしたとき、民衆はみずから演奏する必要があったのである[11]

一方、楽曲の面では、ルネサンス音楽の時期には、ツィンク(コルネット)[14]トロンボーンなどの管楽器を用いた応答歌唱対位法の音楽がヴェネツィアサン・マルコ寺院を拠点に演奏されるようになった。ここにおいて、管楽器中心の編成がなされた要因のひとつとして考えられるのが、サン・マルコ寺院そのものの巨大さである。ヴェネツィア楽派の中心的人物としては、16世紀後葉のジョヴァンニ・ガブリエーリの名が知られており、彼の作品は今日でも金管アンサンブルの重要な演目のひとつとなっている[9]

それに対し、ライプツィヒなどドイツ自治都市にあっては、教会や王室とは直接かかわりをもたない市民音楽家が現れた[9]。16世紀にはギルドに由来するシュタットファイファードイツ語版(街の笛吹)と呼ばれる音楽家が活動した[15]。また、市庁舎の塔からツィンクやトロンボーンなどの管楽器を吹奏し、市民に音楽を提供するトゥルムムジーク(塔の音楽)も街をにぎわせ、17世紀ドイツに現れたヨハン・クリストフ・ペツェルは、そのための作品を数多く残している[9][15][注釈 9]。他の大陸ヨーロッパ諸国やイギリスにも「アルタ」Altaや「ピッフェリ」Pifferi、「ウェイト」Waits などと呼ばれる類似の形態の楽団が存在した[注釈 10]。このように管楽器を中心とする楽曲は、式典や合図のため主として野外で利用されるようになったが、リコーダーの合奏など、使用する楽器によっては室内で楽しまれる編成もあった[2]

楽隊にハルモニーの編成を採用したプロイセン王フリードリヒ2世(大王)

18世紀には、ヨーロッパで現代の吹奏楽合奏の先がけともいうべき演奏形態が生まれている。宮廷楽士が、多くの場合は主君や称賛に値する人のために野外で演じたといわれるセレナーデ(セレナード)がそれであり[15]、これは、オーボエ、クラリネットバスーンホルンそれぞれ2本ずつによって構成されるシンプルな管楽器合奏(ハルモニームジーク)であった[9]。大作曲家として知られるハイドンモーツァルトはこの種の編成のためのセレナーデやディヴェルティメントを数多く残しており、代表的な啓蒙専制君主として知られるプロイセン王国フリードリヒ2世(大王)は、七年戦争後の1763年、楽隊にこの八重奏編成を採用し、プロイセン軍のそれぞれの連隊に配備させた[16][9]。これが近代の軍楽隊の基礎になったといわれる[9]。それに前後してジョージ3世のイギリスやルイ15世のフランスでも軍楽隊が整備された[7]

18世紀末葉には、各種管楽器の発明・改良が進み、フルート、トランペット、トロンボーンなどが加わったほか、オスマン帝国の軍楽隊の影響を受けてシンバルやタンバリン、トライアングル、各種太鼓類が導入され、しだいに大編成になっていった[9]。また、1800年ごろには「トルコ行進曲」にみられるようなトルコ風の軍楽がヨーロッパで流行している。モーツァルトやベートーヴェンの作曲した「トルコ行進曲」にもメヘテルハーネの影響がみられる[17]。なお、アメリカ独立戦争を経てイギリスからの独立を果たしたアメリカ合衆国で、マサチューセッツ・バンドが最初に演奏会を開いたのは1783年1月のことであった[18][7][注釈 11]


注釈

  1. ^ 三線以前の琉球王国の伝統音楽や中国の「鼓吹」も一種の吹奏楽である。長生(1999)p.10
  2. ^ 管楽器の祖型は、オーストラリア大陸の先住民アボリジニが用いるディジュルドゥという楽器ではないかといわれる。これは、木をくりぬいて中を空洞にしたもので、叩けば打楽器、息やリードで鳴らせば木管楽器、唇を振るわせれば金管楽器的な演奏が可能になる汎用的な楽器である。『管楽器おもしろ雑学事典』(2007)p.25,p.34
  3. ^ 長野県長峰遺跡から出土した縄文時代中期の有孔鍔付土器は、太鼓を造形したものとみなす説があり、その説が正しいならば、シュメールの浮彫より古い、世界最古の太鼓の存在を示す考古遺物ということになる。小山(1996)pp.69-70
  4. ^ 近畿地方を中心とする弥生時代の遺跡からしばしば出土する銅鐸は、「祭りのベル」であったと考えられている。銅鐸は、当初は打楽器として鳴り物としての役割が重視されたが、のちに装飾性が強まり、「見る銅鐸」へと変質していった。佐原(1987)pp.273-274
  5. ^ 1922年に発見されたもので、金属加工の施された管楽器の実物としては世界最古の遺物である。Web楽器事典Vol.1 「ツタンカーメンのトランペット」
  6. ^ 発音は「ブ」にアクセント。
  7. ^ 今日でも、トルコの伝統芸能としてオスマン帝国の軍楽が伝わっている。上尾(2000)p.154
  8. ^ 当時はショームから新式のオーボエへの移行期だったが、「オーボエ」Hautbois という言葉はダブルリード族の楽器を広く指しており、どの時期に二つが入れ替わったかは明確ではない。シャルマイ(ショーム)を用いていたドイツでも18世紀初頭にはフランス発祥のオーボエが受容された。Janet K. Page "Military Music" (2001) pp.623-624
  9. ^ 19世紀中葉に世界初の市民階級による自主経営オーケストラとして発足したのが、ライプツィヒのゲヴァントハウス管弦楽団である。
  10. ^ "Waits"という呼び名は、当初課せられていた見張りの職務に由来すると考えられる。Keith Polk "Before 1600" (2001) pp.622-623
  11. ^ この「マサチューセッツ・バンド」はジョン・クレイン英語版大佐率いる第3大陸砲兵連隊 3rd Continental Artillery Regiment のバンドだった。第3・第4大陸砲兵連隊は独立宣言直後の1777年にはすでに軍楽隊を持っていた。アメリカにおける「楽隊」Band of Musickの記録は1714年のジョージ1世戴冠時にさかのぼる。Raoul F. Camus "American Wind Bands" (2001) p.635
  12. ^ 当時の編成はハルモニームジークに近いオーボエ2、クラリネット2、ホルン2、バスーン1、太鼓というものだった。Rumberow (1996) p.39
  13. ^ ギャルド・レピュブリケーヌ吹奏楽団は現在、フランス陸軍参謀本部付の共和国親衛隊軍楽隊となっている。美山(2004)
  14. ^ イギリスの軍楽隊のなかには、スコットランドの伝統的な楽器であるバグパイプ隊を併置するスコッツ・ガードなど、特殊な編成の楽団もある。美山(2004)
  15. ^ イギリスでは、このように労働者階級に広がった金管バンド(英国式ブラスバンド)と区別する意味で、軍隊に属さない民間の吹奏楽団のこともミリタリー・バンドmilitary band の語で呼称することがある。
  16. ^ スーザ自身、自著でポピュラー音楽が決して価値の低い音楽ではないことに言及している。阿部(2001)pp.41-42
  17. ^ ただし、フランス革命期の軍楽隊はすでに十数本のクラリネットを含む編成だった。秋山 (2013) pp.25-26. 1892年時点のギルモアのバンドは32本、1924年のスーザのバンドは24本のB♭クラリネットを持っていた。Rumberow (1996) pp.52-53, 65-66
  18. ^ クラリネットは、ニュルンベルクの楽器製作家J.C.デンナーが1700年ころに考案し、以後、改良が加えられて現在のかたちになったものである。『世界の楽器絵事典』(2007)pp.36-37
  19. ^ ブルガリアの共産主義政権は単一民族主義の傾向が強かったため結婚式バンドは冷遇されてきたが、自由化の進んだ今日では、貧富の格差が生じて、結婚式のバンド需要は不遇だった時代よりむしろ減っている。また、パパゾフ・スタイルの流行については、これによってブラスバンド文化が均質化、定形化しているという批判もある。細川(2001)pp.68-73
  20. ^ 絵画は、出島から長崎奉行所までを往復したオランダ商館長の公式行事で行進したオランダの軍楽隊と思われる。
  21. ^ 蘭式の太鼓信号は伝習生を通じて各地に伝えられ、少年時代の伊沢修二も高遠藩信濃国伊那郡)の鼓手を務めた。塚原(2001)p.87
  22. ^ 現在も幕末維新期の鼓笛隊の面影をとどめる楽隊が各地の祭礼などに組み込まれるかたちで残っている。京都府京北町山国隊京都市壬生の維新勤王隊、山形県上山市上山軍楽千葉県佐原市のオランダ楽隊などがそれである。塚原(2001)pp.87-88
  23. ^ L. Guttig. 「ブリュネの人と生涯」『函館の幕末、維新』(中央公論社、1988年)でクリスチャン・ポラックはギュティッグの名をルイとしているが典拠不明 (中村 1993, p. 46)。
  24. ^ そのような意味で、吹奏楽の導入は日本を含めたアジア・アフリカ諸国にとってきわめて植民地主義的な意味を有していた。なお、細川周平は、日本でフェントンの事績が詳細に伝わっているのは、日本が後世オーケストラをもつようになったことと強い関係があると指摘している。細川(2001)pp.57-58
  25. ^ フェントン作曲の初代「君が代」は不評で、しかも、それを最も批判したのが中村祐庸であった。中村は曲の改訂を提案し、海軍省はその提案を受けて1876年(明治9年)11月3日天長節での演奏を最後に、フェントン作曲の「君が代」を廃止した。團(2001)pp.163-166
  26. ^ Gustave Charles Dagron (1845-1898?). (中村 1993, pp. 184–185)。
  27. ^ シンセサイザーなどの新たな楽器の登場やそれによる楽曲自体の変化、カラオケの登場、編曲者不足、音楽番組の制作上の変化などにより、かつて一般的だった吹奏楽による「歌伴」をともなう歌謡曲は必ずしも一般的ではなくなってきているが、楽曲によっては金管楽器を使用するバンドや、金管楽器のパートを担当するメンバーのいるロック・バンドやアイドル・バンドは少なからず登場している。こうした状況に対し、大変革をもたらしたのはヒップホップ・ミュージックの登場である。東谷(2001)p.145
  28. ^ 團伊玖磨は、戦後の音楽について、昭和40年代までを「求心期」(音楽が広範な人々を対象に生み出され、それが共通の体験として享受された時期)、それ以降を「拡散期」(音楽が共通の体験でなくなり、さまざまに分化した音楽がさまざまに分化した聞き手に享受される時期)という時期区分を設けて考察を加えている。團(1999)pp.357-364

出典

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  6. ^ 藤田(2004)
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  14. ^ Web楽器事典Vol.1 「ツィンク」
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  16. ^ Janet K. Page "Military Music" (2001) pp.623-624
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  20. ^ a b 『世界の楽器絵事典』(2007)pp.42-43
  21. ^ a b 細川(2001)pp.63-67
  22. ^ a b c 細川(2001)pp.67-74
  23. ^ a b c d e 『管楽器おもしろ雑学事典』(2007)pp.58-59
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  25. ^ a b c d 團(1999)pp.128-149
  26. ^ a b c d e 塚原(2001)pp.85-91
  27. ^ Clodomir 1865, pp. 25–31, L'ordonnance.
  28. ^ 中村 1993, pp. 57–60.
  29. ^ a b c d e 團(1999)pp.150-182
  30. ^ a b c d e f g h i j k l m 阿部(2001)pp.32-38
  31. ^ a b 細川(2001)pp.56-59
  32. ^ a b c d e f g h 團(1999)pp.234-262
  33. ^ a b c d e f g h i j k l 塚原(2001)pp.92-101
  34. ^ a b c d e f g h i j 塚原(2001)pp.108-113
  35. ^ a b c d e f g h i j k l m n 塚原(2001)pp.113-120
  36. ^ Osaka Shion Wind Orchestra ホームページ
  37. ^ 山口(1973)
  38. ^ 楽水会(1984)
  39. ^ a b c d e f g 東谷(2001)pp.126-149
  40. ^ a b 『吹奏楽ハンドブック』(2011)pp.16-17


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