NAACPの調査と運動
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「ジェシー・ワシントンリンチ事件」の記事における「NAACPの調査と運動」の解説
NAACPはニューヨーク市に拠点を置く婦人参政権運動家のエリザベス・フリーマンをこのリンチ事件の調査のために雇った。彼女は1915年の後半か1916年の初頭に婦人参政権運動の組織化を支援するためにテキサスに行き、5月初頭に全州大会のために既にダラスに入っていた。フリーマンはリンチ事件のすぐ後にウェーコで調査を開始し、ジャーナリストとして振る舞い人々にこの事件についてインタビューしようとした。彼女は町の役人たちと話をし、ジルダースリーブからリンチ事件の写真を入手した。彼は当初写真を提供することを嫌がっていた。彼女は自身の安全について心配したが、この調査への挑戦を楽しんでいた。ウェーコの指導者たちと話す時、彼女が北に戻った後にウェーコを批判から守ることを計画しているように装った。幾人かのジャーナリストはすぐに彼女を疑い、住民によそ者と話さないように警告した。地元のアフリカ系アメリカ人は彼女を温かく歓待した。 フリーマンはフレミング保安官と公判を受け持った裁判官の両方にインタビューした。それぞれがリンチについて批判されるいわれはないと言った。ワシントンを知る学校教師はフリーマンに、ワシントンが文盲であり、彼に文字を読むことを教えることはできなかったと話した。フリーマンは多くの人がワシントンがバラバラに引き裂かれたことに動揺してはいたが、白人住民は一般的にワシントンの有罪判決後のリンチを支持していたと結論付けた。彼女は法廷から彼を連れ出した群衆がレンガ職人、酒場の主人、そして複数の氷製造会社の社員によって主導されていたと判断した。NAACPはその人々を公式に特定はしなかった。フリーマンはワシントンが自身に対するフライヤー夫人の傲慢な態度に憤慨しており、フライヤー夫人を殺害したことを結論付けた。 W・E・B・デュボイスはこの残忍な攻撃のニュースに怒り、「キリストの勝利や人間文化の広がりについてのどのような話も、アメリカ合衆国においてウェーコのリンチのような行為が可能である限りにおいては無価値なたわごとに過ぎない」と発言した。フリーマンの報告を受け取った後、彼はワシントンの遺体の写真をNAACPのニュースレター、The Crisis(英語版)のこの事件について論じる特別号の表紙に掲載した。この特別号のタイトルは「ウェーコの恐怖(The Waco Horror)」であり、7月号に8ページの補足として出版された。ワシントンのリンチ事件を指す「ウェーコの恐怖(Waco Horror)」という名称はデュボイスによって広められた。ただし、ヒューストン・クロニクルとニューヨーク・タイムズは既に「恐怖(horror)という用語をこの事件を描写するのに用いていた。1916年にはThe CrisisはNAACPの会員数の3倍に上る30,000部が発行された 。 The Crisisはかつてリンチ一般に反対する運動を行っていたが、これは具体的な攻撃についての画像を公表する最初の問題であった。NAACPの理事会(board)は当初このような画像を公表することを躊躇していたが、デュボイスは包み隠さず公表して議論をしてこそ、白人のアメリカ人の支持を変化させるだろうと主張した。この特集にはフリーマンがウェーコの住民から得たこのリンチ事件についての記録も掲載されていた。デュボイスはThe Crisisのこのリンチ事件の記事を書き、公表するためにフリーマンの報告を編集・整理したが、この問題について彼女を信用してはいなかった。デュボイスの記事は反リンチ運動を支持するように呼び掛けるものであった。NAACPはこの報告書を数百の新聞と政治家に配布した。この運動によって、このリンチ事件に対して広範な批判が寄せられた。多くの白人評者が南部の人々がリンチを祝う写真に動揺した。The Crisisはその後の特集でリンチの画像を更に掲載した。ワシントンの死はThe Crisis上で引き続き議論され続けた。オズワルド・ギャリソン・ヴィラード(英語版)はThe Crisisの後の版で「ウェーコで行われた犯罪行為は我らのアメリカ文明に対する挑戦である」と書いた。 ザ・ニュー・レパブリック(英語版)やザ・ネイション(英語版)のような別の黒人新聞もまた、このリンチ事件について重要な報道を行った。フリーマンは彼女の調査について遊説するために全米を周り、世論の変化が法的行為以上の成果を成し遂げるかもしれない状況を維持しようとした。他にもワシントンに対するものと同じような残酷なリンチの事件があったが、写真が入手可能であったこととワシントンの死の状況がこの事件をcause célèbre(重要な裁判案件)にしていた。NAACPの指導者たちはワシントンの死に責任のある人々に対する法的闘争の立ち上げを望んだが、予想される出費のためにこれは断念された。 NAACPはこの頃財政的苦境に陥っていた。彼らの反リンチ運動は資金調達に一役買ったが、アメリカが第一次世界大戦に参戦すると運動の規模は縮小した。NAACP議長ジョエル・イライアス・スピンガーンは後にこのグループの運動は「リンチを国家的問題に類するものとして公衆の心に入れ込む」ものと位置付けられると述べた。バーンスタインは彼女の2006年のリンチの研究において、この反リンチ運動を「何年も続く戦いの裸一貫からの始まり」と描写した。 アメリカ合衆国におけるリンチ件数は1910年代後半、特に第一次世界大戦後に増加した。付け加えて、1919年の夏と秋は赤い夏と呼ばれ、北部と中西部を含む数多くの大都市で黒人に対する白人の人種的暴動が沸き起こった。これには戦後時代に退役軍人たちが社会復帰に苦しむ中での雇用と住宅を巡る競争にまつわる緊張が一部の起因となっていた。特にシカゴ(英語版)とワシントンD.C.(英語版)では、暴動の中で黒人は激しく戦ったが、多数の死傷者と経済的損失を受けた。彼らは戦争への奉仕を通じ、市民としてより良い取り扱いを受けるべきであると考えていた。 1920年代には更なるリンチがウェーコで発生したが、これは部分的にはクー・クラックス・クランの復調に起因している。しかしながら、1920年代後半までにロイ・ミッチェルの処刑(英語版)の場合のように、ウェーコの当局はリンチからの黒人の保護に取り組み始めた。当局はリンチによって生じるネガティブな広報が(ワシントンの死に続いたNAACPの運動のように)商業投資家を引き付けるための努力を妨げるであろうこと懸念した。NAACPはリンチを野蛮、未開人の行動として描くために戦い、この考えは最終的に公衆の心に根差していった。バーンスタインはウェーコ地域における「人種差別制度の最悪の公的残虐行為」を終わらせるための支援するNAACPの尽力を信じている。
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