9年連続首位打者・三冠王・4割打者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 10:47 UTC 版)
「タイ・カッブ」の記事における「9年連続首位打者・三冠王・4割打者」の解説
1907年、打率.350・119打点・49盗塁の成績で当時史上最年少で首位打者になる(同年以降、24年間の現役生活で打率.323を下回る事はなかった)。更に最多安打、打点王、盗塁王にもなり、本塁打もリーグ2位を記録し、3年目にしてブレークした。サム・クロフォードと共に打線を引っ張る存在となり、カッブの登場により、それまで優勝とは縁のない目立たないチームだったタイガースは大きく飛躍した。同年にチームは初のリーグ優勝を果たす。 1908年にもカッブは首位打者、最多安打、打点王の三冠を獲得し、チームは2年連続でリーグを制した。 1909年には打率.377・9本塁打・107打点・76盗塁を記録し、3年連続の最多安打、打点王、首位打者に加え、本塁打王、盗塁王を獲得。現在に至るまで唯一の打撃全タイトル制覇(当時はタイトルでなかったものを含む)を達成。さらに得点数、塁打数、出塁率、長打率、OPSを含め合計10部門でリーグトップであり、得点以外はMLB全体でもトップとなっている。一方でこの頃にはカッブの勝利への執念は常軌を逸したものとなり、相手球団の反応を研究するために無謀で大胆なプレーをしばしば試すようになった。様々な形のプレーを試していたが、特に首位を争っていたフィラデルフィア・アスレチックスとの対戦で、半ば反則紛いのラフプレーを行ったとされることが有名になる(詳細は#野球選手としてを参照)。他球団からのカッブの評判は最悪なものだったが、こうしたカッブの執念が実を結び、チームはリーグ3連覇を果たした。また同年のカッブの本塁打は全てランニング本塁打で、これは三冠王唯一の記録であり、さらに史上最年少での三冠王達成となった。7月15日には一日に2本のランニング本塁打を放っている。 1910年、最終日を残して首位打者を確信していたカッブは、眼の病気などもあり.385の打率を維持するために残り試合を欠場した。しかし打率.376だったナップ・ラジョイがセントルイス・ブラウンズとのダブルヘッダーに8安打し打率.384とカッブを猛追した。ところがそのうちの7本は三塁へのバント安打で、これは相手チームのジャック・オコナー監督がカッブを強く嫌っていたのと、当時人気の高かったラジョイにタイトルを勝ち取らせるために、三塁手へ後ろに下がってプレーするよう命じた結果のものだった。この露骨な八百長行為から、シーズン後にオコナーは監督を解雇され、コーチと共に永久追放されている。1981年、スポーティング・ニューズ社によりこの年の集計に誤りが指摘され、509打数196安打ではなく、506打数194安打であるとし、カッブの打率は.383に下方修正された。しかし、コミッショナー特別委員会は八百長の影響などもあってか首位打者の変更を認めず、MLB公式記録でも509打数196安打のままである。 1911年、146試合の出場で当時のMLB新記録となる248安打し、自己最高の打率.420を達成。4回目の打点王も獲得し、この年は投票数満票でのMVP選出となった。また、近代野球以降でのMLB新記録となる40試合連続安打を記録。自己最多の127打点を残し、本塁打もリーグ2位だった。 1912年5月15日、ニューヨーク・ヒルトップパークでのハイランダース(現在のニューヨーク・ヤンキース)戦でカッブは観客(事故で片腕を失い、もう片方の手も不自由な人)の野次に逆上してスタンドに殴り込み、出場停止処分となった。殴られた観客によると、「その男を蹴るんじゃない!両手がないんだぞ!」と止められても「両足が無くたって知るもんか!」と怒鳴り返したという。5月18日、この処分を不服としたチームメートはフィラデルフィアでの試合をボイコット。チームは臨時で大学生らのアマチュア選手を集め、コーチ2人と合わせて試合を行うも24対2で大敗した。結局カッブ自身がチームメートを説得して事態は収拾し、カッブは50ドルの罰金と10日間の出場停止の処分となった。シーズンでは1911年に続いて近代野球では史上初、19世紀を含めてもジェシー・バーケット以来となる2年連続打率4割(.409)を達成した。 1914年シーズンは肋骨を骨折し、その後右親指も骨折。怪我に苦しみながらも.368で首位打者に輝いている(公式ではカッブが首位打者であるが、出場不足で首位打者ではないとする指摘もある)。 1915年、9年連続の首位打者に輝き、近代野球以降、当時新記録となる96盗塁を記録。同年9月16日のボストン・レッドソックス戦では相手投手のカール・メイズと汚い言葉の応酬で衝突した。この試合の8回にメイズがカッブのインコースに投げた後、カッブはメイズの方向へ向けてバットを投げ、「雌犬の駄目息子」と罵った。これに対してメイズは「黄色い犬(くだらない人間、臆病者の意)」と言い返した。試合再開後、メイズの投球はカッブの手首に直接当たった。メイズは後に相手打者のレイ・チャップマンを死亡させる頭部死球事故を引き起こしたが、カッブとの一件はメイズが「ビーンボールを投げるヘッドハンターである」との評判を確固たるものとした出来事であった。 1916年には.371の高打率を記録するも、トリス・スピーカーの.386には届かなかった。 1917年から1919年まで3年連続首位打者を獲得し、通算12度に及んだ。1917年には35試合連続安打も記録している。 1918年には初登板を果たし、合計2試合に登板。防御率は4.50だった。また、同年10月に徴兵されてフランスのショーモンに拠点を置くアメリカ合衆国陸軍化学作戦部隊に所属して約67日間務めた後に名誉除隊で帰国した。 1920年、外野守備時に打球を追い、チームメイトと激突してしまい右膝靱帯を断裂する大怪我を負った。様々な治療法を用いながら無理に復帰するも、更に右膝を痛めてしまい、現役続行は不可能と思われた。しかし奇跡的に怪我を治し、打率.334を残した。
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