3年連続首位打者 (1994 - 1996)
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「アロンゾ・パウエル」の記事における「3年連続首位打者 (1994 - 1996)」の解説
1994年シーズン(年俸:8,640万円)は、落合に代わり4番打者を打つこととなった。同年にはシーズン序盤に右足親指を剥離骨折し、20試合を欠場したが、2年連続で規定打席に到達し、打率.324で初のセ・リーグ首位打者を獲得した。また、本塁打・打点もそれぞれ20本塁打・76打点を記録した。同年10月8日に本拠地・ナゴヤ球場で開催されたシーズン最終戦(10.8決戦)で中日は同率首位で並んでいた巨人に敗れ、リーグ優勝を逃したが、パウエル自身はこの試合について「日本での7年間で最も悔しい経験だったけど、あの試合に出場できたのは最も素晴らしい経験だった」「日本で最も印象深い試合」と述べている。 1995年シーズン(年俸:1億1,500万円)は、8月2日の対横浜ベイスターズ戦(ナゴヤ球場)で右足太腿上部(大腿直筋)を肉離れした(全治1か月の怪我)。同年は101試合の出場にとどまったが、打率.355を記録し、2年連続で首位打者を獲得。中日所属の選手が2年連続で首位打者を獲得した事例は、江藤慎一以来30年ぶりで、その活躍を評価され、同年のドラゴンズクラウン賞(第14回)を受賞した。同年は対横浜戦で打率.299にとどまったが、横浜以外の4球団との対戦ではいずれも打率3割以上を記録した。しかし、同年のチームは開幕から低迷を続け、シーズン途中(6月2日)で高木監督が休養し、その代行を務めた徳武定祐ヘッドコーチも低迷を止められず、7月以降は島野育夫二軍監督が「代行の代行」を務める有様で、リーグ5位(勝率.385 / 最下位の阪神と4ゲーム差)に低迷した。また、パウエル本人も同年に左膝を手術したが、左膝の具合はその後も芳しくなく、これが2年後の解雇の布石となった。同年オフには前年比30万ドル(当時のレートで約3,150万円)増額(125%増)となる推定年俸150万ドル(約1億5,000万円)で契約更改した。 星野仙一監督が就任した1996年は、5月から6月にかけて16試合連続安打を記録したほか、8月25日の対横浜戦(横浜スタジアム)では場外本塁打(飛距離165 m)を打った。同年は来日後初の全試合出場(130試合)を達成し、打率.340(176安打)で3年連続となる首位打者を獲得。また猛打賞15回、最多安打・最多二塁打も記録している。同年の中日はダネル・コールズが29本塁打、山崎武司が39本塁打(本塁打王)、大豊泰昭が38本塁打を記録し、パウエルも彼らとともに「強竜打線」の一員を担ったが、最終的には巨人との優勝争いに敗れ、5ゲーム差のリーグ2位でシーズンを終えた。
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