9年間の大関時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 07:59 UTC 版)
昇進後しばらくは大関として可も不可もなしという成績が続き、下から急成長して来た羽黒山政司・安藝ノ海節男・照國萬藏らに横綱を先取りされ、彼らの後塵を拝することが多くなった。それでも、1941年1月場所では、羽黒山・双葉山を相次いで張り手戦法で黒星を付けて存在感を示し、「前田山の張り手旋風」と呼ばれた。13日目の双葉山戦ではここまで双葉山に6連敗中であった中、左右から強烈に張りまくり、組み止められながらも力で応戦。最後はうっちゃり気味に吊り出した。双葉山と羽黒山はともに前田山に敗れただけの14勝1敗で、番付上位者優勝制度によって双葉山が優勝、羽黒山が優勝同点だった。この場所は他に名寄岩静男・旭川幸之焏にも勝利し、対戦のあった立浪部屋の関取全員に黒星を付けている。双葉山とはこれ以前にも1939年5月場所で、同体取り直しからさらに水入りになる大相撲を取っている。 1942年に高砂が廃業すると、二枚鑑札によって年寄・高砂を継承する。この継承は意外性を以って受け止められたが、後に弟子育成で手腕を発揮したことを考えると先代高砂には先見の明があったということになる。1944年11月場所には9勝1敗で初優勝を遂げ、前場所も8勝2敗の星を残していることから横綱に推挙されてもおかしくなかったが、太平洋戦争の戦火が激しくなり、横綱どころではない状況で話題にすらのぼらなかった。こうした境遇もあってか、前田山は実に大関を9年・18場所の長期に渡って務めている。その最中は概ねの流れとして優勝争いにも加われなかった。なかなか優勝できず、横綱昇進どころか関脇陥落の危機まで聞こえるようになった1947年6月場所では、初めて行われた優勝決定戦に進出し、決勝で羽黒山に敗れて優勝同点に終わるも、戦後初の横綱昇進が決定的になる。この時点で前田山は現役19年目、悲願の横綱昇進だった。
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