5.16軍事クーデターと国家再建最高会議(1961年 - 1963年)
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「朴正煕」の記事における「5.16軍事クーデターと国家再建最高会議(1961年 - 1963年)」の解説
「四月革命 (韓国)」、「5・16軍事クーデター」、「国家再建最高会議」、および「ハナフェ」も参照 1960年4月に大韓民国初代大統領、李承晩が四月革命によって失脚した後、学生たちが南北朝鮮会談を開こうとする政治的騒乱の中、1961年5月16日に朴正煕少将は張都暎陸軍中将(当時)を議長に立てて「軍事革命委員会」を名乗り、軍事クーデターを起こした(5・16軍事クーデター)。反共産主義、親米政策、腐敗と旧悪の一掃、経済再建などを決起の理由とした。 当時、陸軍少将の階級にあり第2軍副司令官だった朴正煕は、韓国陸軍士官学校第8期生を中心とするグループに推されてクーデター・グループのリーダーになった。韓国陸士8期生は1945年の解放後初めて大韓民国が自前で訓練した軍人たちであり、その中心人物が金鍾泌だった。1961年の時点で約60万人の人員を擁した軍隊そのものの規模に比して、クーデターに動員された人員は必ずしも多くはなく、成功も覚束ぬ筈であった。朴正煕少将率いるクーデター部隊が1961年5月16日に国営放送局(KBS)を占拠した際、朴正煕少将と共に決起した兵士は全軍のうち3,600人に過ぎなかった。既に1960年の四月革命の直後、朴正煕少将は軍内人事の一新を求め、陸軍参謀総長の宋堯讃中将に対して書簡で辞任を要求していたが(「清軍運動」)、四月革命後に発足した第二共和国で8月23日に首相に就任した張勉政権下では、朴正煕や朴正煕を支持する韓国陸士8期生の求める軍内人事の変更がなされる様子がなかったために、1960年9月10日の「忠武荘決議」にて朴正煕少将は将来の軍事クーデターを決定した。 また、この5・16軍事クーデターは韓国陸軍士官学校校長が反対していたものの、陸軍士官学校11期生の全斗煥は朴正煕少将による軍事クーデターを支持し、全斗煥の呼び掛けによって陸軍士官学校生徒達がクーデター支持行進を行った。韓国陸軍士官学校11期生には後に大統領になる全斗煥、盧泰愚らが含まれており、朴正煕が嶺南(慶尚道)出身であったこともあり、同郷の全斗煥は「ハナフェ」(一心会)を結成し、尹必鏞や金鍾泌、朴鐘圭ら他の嶺南出身者との軍内政争の中で「嶺南軍閥」を築き上げた。これら軍人たちには地方の貧困層出身者が多く、彼らの信望を集めていたのが朴正煕であった。 朴正煕少将率いるクーデター部隊は軍首脳の懐柔に成功し、後に軍首脳を軍事革命委員会から一掃することで主導権を握った。クーデター・グループは自らを「革命主体勢力」と呼び、戒厳令を布いた。金融凍結、港湾・空港を閉鎖、議会を解散し、政治活動を禁止し、張勉政権の閣僚を逮捕した。当時アメリカのジョン・F・ケネディ政権は1961年4月のプラヤ・ヒロン侵攻事件の失敗により、キューバ革命後に構築されつつあったフィデル・カストロ体制の打倒に失敗したためにその後始末に忙殺されており、アメリカ国内で張勉政権を支持する反クーデター派をクーデター支持の中央情報局(CIA)が制した結果、アメリカ合衆国は朴正煕少将によるクーデター政権を認めるに至った。 軍が突然に政治の表舞台に踊り出たことは多くの人々を驚かせた。大韓民国国軍は朝鮮の政治史において例を見ない巨大勢力だった。 こうして政権を奪取した朴正煕は「軍事革命委員会」を「国家再建最高会議」と改称し、自ら議長に就任した。国家再建最高会議として朴正煕は治安維持と経済改善のためとして「国家再建非常措置法」を施行した。6月10日には秘密諜報機関・大韓民国中央情報部 (KCIA) を発足させ、初代部長には金鍾泌が就任した。7月3日にはクーデター当時に議長に立てた張都暎中将を失脚させ、軍事政権のトップに立った。これらの権力奪取の過程で軍事独裁政治色を強めていった。この軍事政権に抗議するデモが頻繁に起きるようになるが、朴正煕はKCIAを用いて押さえ込んだ。また、腐敗政治家の排除・闇取引の摘発・治安向上を目的とした風俗店摘発なども行い、「@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}ヤクザも敵わぬ朴将軍[要出典]」と言われるようになる。 朴正煕国家再建最高会議議長は政権奪取後、日韓国交正常化に意欲を見せ、1961年10月から11月にかけて日本側の大平正芳外務大臣と金鍾泌大韓民国中央情報部(KCIA)長官の交渉の結果、「金・大平メモ」が作成され、日本による植民地支配への賠償請求権を「無償3億ドル、有償2億ドル、民間協力資金1億ドル以上」の内容で合意した。朴正煕はこの賠償請求によって大韓民国経済を立て直そうと考えていたが、「金・大平メモ」の合意額は李承晩政権期の対日賠償請求額であった20億ドルや、第二共和国期の38億5000万ドルに比べて少なかったために韓国内の世論の反発を招いた。 また、朴正煕議長は1962年に李承晩初代大統領が1948年の大韓民国建国時に採用した「檀君紀元」から「西暦」へと暦法を変更している。 その後、政権へのアメリカの支持を取り付けるために訪米することとなり、アメリカ合衆国大統領と釣り合う階級を与えるべきとの軍長老の進言に従い、大将に昇進した。訪米の往路、日本に立ち寄り、11月12日に池田勇人首相と会談、日韓両国の早急なる国交正常化で合意した。この時に一部日本語を使って会談したため、韓国内の反日勢力から批判を買うこととなった。訪米では民主党のケネディ大統領との会談を実現した。
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