5.16軍事クーデターと国家再建最高会議とは? わかりやすく解説

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5.16軍事クーデターと国家再建最高会議(1961年 - 1963年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 03:44 UTC 版)

朴正煕」の記事における「5.16軍事クーデターと国家再建最高会議(1961年 - 1963年)」の解説

四月革命 (韓国)」、「5・16軍事クーデター」、「国家再建最高会議」、および「ハナフェ」も参照 1960年4月大韓民国初代大統領李承晩四月革命によって失脚した後、学生たちが南北朝鮮会談開こうとする政治的騒乱の中、1961年5月16日朴正煕少将張都暎陸軍中将当時)を議長立てて軍事革命委員会」を名乗り軍事クーデター起こした5・16軍事クーデター)。反共産主義親米政策腐敗旧悪一掃経済再建などを決起理由とした。 当時陸軍少将階級にあり第2軍副司令官だった朴正煕は、韓国陸軍士官学校第8期生を中心とするグループ推されてクーデター・グループのリーダーになった韓国陸士8期生1945年解放後初め大韓民国自前訓練した軍人たちであり、その中心人物金鍾泌だった。1961年時点で約60万人人員擁した軍隊そのもの規模比してクーデター動員され人員は必ずしも多くはなく、成功覚束ぬ筈であった朴正煕少将率いクーデター部隊1961年5月16日国営放送局KBS)を占拠した際、朴正煕少将と共に決起した兵士全軍のうち3,600人に過ぎなかった。既に1960年四月革命直後朴正煕少将は軍内人事の一新求め陸軍参謀総長宋堯讃中将に対して書簡辞任要求していたが(「清軍運動」)、四月革命後に発足した第二共和国8月23日首相に就任した張勉政権下では、朴正煕朴正煕支持する韓国陸士8期生求める軍内人事の変更なされる様子がなかったために、1960年9月10日の「忠武荘決議」にて朴正煕少将将来軍事クーデター決定したまた、この5・16軍事クーデター韓国陸軍士官学校校長反対していたものの、陸軍士官学校11期生の全斗煥朴正煕少将による軍事クーデター支持し全斗煥呼び掛けによって陸軍士官学校生徒達クーデター支持行進行った韓国陸軍士官学校11期生には後に大統領になる全斗煥盧泰愚らが含まれており、朴正煕嶺南慶尚道出身であったこともあり、同郷全斗煥は「ハナフェ」(一心会)を結成し、尹必鏞や金鍾泌朴鐘圭ら他の嶺南出身者との軍内政争の中で「嶺南軍閥」を築き上げた。これら軍人たちには地方貧困層出身者多く、彼らの信望集めていたのが朴正煕であった朴正煕少将率いクーデター部隊は軍首脳懐柔成功し、後に軍首脳軍事革命委員会から一掃することで主導権握った。クーデター・グループは自らを「革命主体勢力」と呼び戒厳令布いた金融凍結港湾空港閉鎖議会解散し政治活動禁止し張勉政権閣僚逮捕した当時アメリカジョン・F・ケネディ政権1961年4月プラヤ・ヒロン侵攻事件失敗により、キューバ革命後に構築されつつあったフィデル・カストロ体制打倒失敗したためにその後始末忙殺されており、アメリカ国内張勉政権支持するクーデター派クーデター支持中央情報局CIA)が制した結果アメリカ合衆国朴正煕少将によるクーデター政権認めるに至った。 軍が突然に政治表舞台踊り出たことは多く人々驚かせた。大韓民国国軍朝鮮政治史において例を見ない巨大勢力だった。 こうして政権奪取した朴正煕は「軍事革命委員会」を「国家再建最高会議」と改称し、自ら議長就任した国家再建最高会議として朴正煕治安維持経済改善のためとして「国家再建非常措置法」を施行した6月10日には秘密諜報機関大韓民国中央情報部 (KCIA) を発足させ、初代部長には金鍾泌就任した7月3日にはクーデター当時議長立てた張都暎中将失脚させ、軍事政権トップ立った。これらの権力奪取過程軍事独裁政治色強めていった。この軍事政権抗議するデモ頻繁に起きるようになるが、朴正煕KCIA用いて押さえ込んだまた、腐敗政治家排除闇取引摘発治安向上を目的とした風俗店摘発なども行い、「@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}ヤクザ敵わぬ将軍[要出典]」と言われるうになる朴正煕国家再建最高会議議長政権奪取後、日韓国交正常化意欲見せ1961年10月から11月にかけて日本側の大平正芳外務大臣と金鍾泌大韓民国中央情報部KCIA長官交渉結果、「金・大メモ」が作成され日本による植民地支配への賠償請求権を「無償3億ドル有償2億ドル民間協力資金1億ドル以上」の内容合意した朴正煕はこの賠償請求によって大韓民国経済立て直そう考えていたが、「金・大メモ」の合意額は李承晩政権期の対日賠償請求であった20ドルや、第二共和国期385000ドル比べて少なかったために韓国内世論反発招いたまた、朴正煕議長1962年李承晩初代大統領1948年大韓民国建国時に採用した檀君紀元」から「西暦」へと暦法変更している。 その後政権へアメリカ支持取り付けるために訪米することとなり、アメリカ合衆国大統領釣り合う階級与えるべきとの軍長老の進言従い大将昇進した訪米往路日本立ち寄り11月12日池田勇人首相会談日韓両国早急な国交正常化合意した。この時に一部日本語使って会談したため、韓国内反日勢力から批判を買うこととなった訪米では民主党ケネディ大統領との会談実現した

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