1996年の群発地震
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主要な火山活動西暦摘要1996 1996年初に噴火した形跡、夏、大規模な群発地震、良好な記録が残る。1996年2月25日に開始し、同年8月9日までには終息。 1991 最近の群発地震を追跡するために海山に設置されているOBO(自律的大洋底観測所)が、山体が収縮している兆候を集めた。マグマの地下深くへの収縮によると推定。 1986 噴火の可能性、1986年9月20日(1日限り)。 1984–85 M3以上の9回の事象。1984年11月11日から1985年1月21日にかけて、3.0から4.2の地震が記録された。おそらく噴火したと思われるが詳細不明。 1975 1975年8月24日から同年11月にかけて、際立った群発地震。 1971–72 1971年9月17日から1972年9月にかけて噴火した可能性あり。噴火の詳細については判っていない。 1952 1952年にロイヒで起こった群発地震により初めてこの火山に科学的関心が向けられた。その以前にはロイヒは死火山であろうと考えられていた。 50 BC± 1000 記録から確認された古代の噴火。 5050 BC± 1000 記録から確認された古代の噴火。 7050 BC± 1000 確認された古代の噴火、東側山腹で活動した見込みが最も有力。 この表では、噴火した可能性のある事象、および、主要な噴火事象しか記載していない。ロイヒは複合的な群発地震がほぼ年2回を基本として起こる場所でもある。 ロイヒで記録された最大規模の活動は、1996年の7月16日から同年8月9日にかけての群発地震、その数4070回を数えたものであった。この一連の地震は、現在までにハワイにある火山で取られた地震記録の中で揺れの強烈さと回数の双方において最強クラスのものだった。ほとんどの地震はモーメント・マグニチュードにしてM3.0未満の規模であった。マグニチュード3.0以上のものは数百回、その中でも40回以上がM4.0以上であり、M5.0を記録した微動もあった。 群発地震の最後2週間は1996年8月に発足したクイック・レスポンス・クルーズ(quick response cruise)によって観測されていた。アメリカ国立科学財団は、ハワイ大学のフレデリック・K・ドゥエネビアー(Frederick K. Duennebier)率いる科学者チームによる探査(学術調査航海)のために研究費を交付した。この学術航海は、ロイヒの試料採取と火山活動の解明を目的とし、1996年8月から続いた一連の群発地震及びその起源を徹底的に調べるためにはじめられた。科学者たちの想定は、研究の大半を占め、何回となく繰り返された学術航海で構成され、また、仮説の裏付けとなったフィールドワークに基礎を置いていた。ロイヒに対する追跡調査が行われた。その中では8月と9月に有人潜水艇パイシーズ号の投入も行われた。これ等の調査は非常に多くの海岸を基本とした研究により、不足した箇所を増補された。調査航海の間に採集された新鮮な岩石により、群発地震のおこる以前に噴火が起こっていたことが明らかになった。 8月に実施された潜水調査は、1996年9月から10月にかけてNOAAが資金援助した研究から支援された。これらの細部にわたった研究で、現状ではロイヒ山頂の南端が陥没していることが明らかにされた。火山自体からマグマ溜まりへと火道を満たすマグマが急速に後退したこと、および、群発地震との両方によって引き起こされたものであろうと考えられている。差し渡しが1 km (0.6 mi)、深さが300 m (1,000 ft)の火山岩塊でできた山頂火口が作られた。この1996年イベントは100 million立方メートルの火山噴出物の流出を伴っていた。山頂にある10 km2 (3.9 sq mi)から13 km2 (5.0 sq mi)の領域が、バス並みの大きさの枕状溶岩で置き換えられ、岩の塊がごろごろし、さながら海中のガレ場の様相を呈していた。巨岩は新たに形成された火口の外縁一帯に不安定な状態で留まっていた。1996年イベントで緊急調査する以前、山頂南端にあるこの場は、「ペレ噴出口」("Pele's Vents")と呼ばれた熱水噴出領域(熱水フィールド)があり、安定して長期間にわたって存在するだろうと考えられていた。しかし、そこは、完全に崩落・陥没して巨大な窪みを形作り、地名を「ペレ火口」("Pele's Pit")に改められた。海底火山南端にできたばかりのピット・クレーターに海水が流入し、遊離した無機塩類やバクテリア代謝物と混じり合い、ロイヒ山頂の西縁から流れ出していた。その結果できる流速が非常に強い海流は、この海域への有人潜水艇による調査を非常に危険なものにしていた。 研究員たちは、噴煙のような硫化物や硫酸塩の濁りが絶え間なくもうもうと立ち込めているのに遭遇した。ペレ噴出口が突然崩壊してしまったことで、熱水噴出口生成物(hydrothermal material)が莫大に放出されていた。混合物の中に或る特定の指標鉱物の存在は、熱水の温度が摂氏250度を超えてしまったことを示唆していた。この記録は海底火山で見つかった熱水噴出口の水温の現在まで残る最高記録である。ロイヒの熱水に含まれている物質の構成は、ブラックスモーカーから出てくる熱水を構成する物質と同じであった。ブラックスモーカーとは、中央海嶺の周囲にある熱水噴出口の一種であり、濁った熱水を、あたかも工場や銭湯の煙突から吐き出す黒煙のように噴出しつづけるものである。 熱水噴出口からの物質が堆積してマウンドのようになった小山から得られたサンプルはホワイトスモーカーから得られたサンプルとよく似ていた。 いくつかの研究は火山学的にも熱水活動的にも一番活発な地域は南リフト・ゾーン沿いに所在する事を論証してみせた。それほど活動的ではない北縁での潜水調査において、その地域での微小地形はやや安定していて柱状節理が発達していることが判った。新たにできた熱水フィールド(Naha Vents:「ナハ・ベント」)はアッパーサウス・リフトゾーン(upper-south rift zone)の深さ1,325 m (4,350 ft)の場所に位置していた。
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