雇用とヨーロッパ出張
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/12 16:15 UTC 版)
「フランクリン・ピール」の記事における「雇用とヨーロッパ出張」の解説
フィラデルフィア造幣所を収容する2代目の建物は1833年に開設され、貨幣製造工程以外は最新式の技術を入れていた。このために、以前からある機械を移植して、人間の力を使って貨幣を鋳抜いていた。造幣局は全ての貨幣が同じ額面であれば同一になることを望んだが、ねじ式プレスを使うと、コイン面デザインを捺すための力が均一ではなかったため、障害になっていた。さらに貨幣の型は手作りであり、異なる型で打つと違いが出ていた。このような事情は支配人のサミュエル・ムーアにとって不満であり、貨幣鋳造のパイオニアであったマシュー・ボールトンによって設立されたイングランド、バーミンガムのソーホー造幣局から、貨幣を制作するための近代的蒸気駆動機械の一式を購入しようと何年も検討していた。ムーアはそうする代わりに新しい職員を雇用し、その職員をヨーロッパの造幣所と精錬所を視察する特別ツアーに送り、それぞれの最良の技術を学び、知識を持って帰ってフィラデルフィアの施設で応用させることにした。その個人は試金者ジェイコブ・R・エックフェルトの助手の肩書きを与えられるはずだった。ムーアは財務長官ルイス・マクレーンの承認を得て、この目的で7,000ドルの予算を確保した。 ムーアはマクレーンに宛てた手紙で、技術を習得するためにヨーロッパに要員を派遣することは過去に検討されたことだが、提案は出張を成功させる能力があり、ヨーロッパで1年以上を過ごせるだけ忙しくはない人材を見つける難しさで躓いていた、と記していた。ムーアの従兄弟であるロバート・M・パターソンの推薦により、ムーアはその職にピールを採用した。パターソンに拠れば、「私はこの任務を成功させる者が他にいるとは思わない。彼の技、彼の忍耐力、彼の手際よさの全てがその任務にあっていた」としていた。ピールは進んで行く意思があり、「様々な事情が、フィラデルフィア博物館の管理者として長年つきあってきた状況から身を引きたくさせた。それ故に金銭上に犠牲を払ってでも変化に応じることになる」と記していた。 ピールはニューヨークからル・アーヴルに向けて1833年5月8日に出発し、5月下旬にパリに到着した。このとき、ピールがパリを訪れることのみが確実なことであり、イングランドに行って土地の造幣局や精製所に行くかについてはまだ検討中だった。ピールは「分離」を学ぶよう指示されていた。すなわち金と銀を分離する新しく開発された技術だった。この工程は精錬とも呼ばれ、金を含む塊には必ず銀が含まれており、鋳造のために金を銅と合金にする前に銀を取り除く必要があった。銀の古い除去法は硝酸や硫酸を使うものであり、危険で高価だった。支配人のムーアはピールに、「湿式法」(滴定法)によって銀を分析する方法を取得し、鋳造技術について何でも学べるものは学び、蒸気の力をどのように使うかを学んでくるよう指示していた。ムーアは「あなたの任務の対象とされるものは、完成されていないと見なされるものであり、無から新たに作り出すことの製法を指示するために必要とされるあらゆることに知悉するようになるまで、…また実際の操作で如才なさの幾らかでも獲得できるようになるまで、…貴金属の取り扱いに関して我々の情報に付け加えられるものなら何でも得てくるのであり、鋳造行程や機械が貴方の求められるものの範囲に入っている」と警告した。ムーアは、ピールに幾らかの時間が残されておれば、アメリカ合衆国に有益だと考えられる他の技術、例えば都市のガス灯照明などを調べてくるよう求めた。 在フランスアメリカ合衆国大使エドワード・リヴィングストンの助けも得て、「パリ造幣局」の仕事場近くで勉強する許可を得た。そこのスタッフは協力的であり、ピールは試金者を観察することで「湿式」法を学ぶことができ、フランスの造幣支局からの貨幣の銀含有量を調べられた。ピールの注釈はその工法で使われる全ての治具の詳細な彫り物で補われ、パリ造幣局から98フラン50サンチームで出版販売されており、ピールはそれをアメリカ合衆国政府のために購入する価値があると考えた。ピールは造幣局が作り販売していた湿式法の道具1セットも購入し、500フランを払った。 ピールがフィラデルフィアに戻ったときに据え付けられるであろう機械の幾つかは、パリで見たものに基づいていた。ピールはパリ造幣局のソネリエ・モデル貨幣プレスをスケッチしていた。パリの施設の「トゥーラポルトレ」複写旋盤を写してもいた。施設は民間精錬者に製法を委託していたので、そこの部分を学ぶことはできなかった。これら施設で工法を学ぶ許可を得ようとしたが、その所有者が法外な代価を要求したので失敗した。そのような所有者は、ピールが政府の使用人なので、潤沢な資金があると信じていた。 ピールはロンドンに渡り、ムーアのコネで分離工程に関する指導を得られると期待した。王立造幣局を訪れたが、そこの役人は助けにならず、ピールを進んで教えようとはしないことが分かった。イングランドではパーシバル・N・ジョンソンの製錬所で湿式法を通じて試金を研究し、1835年にフィラデルフィア造幣所に導入するときに、灰吹法によって試金を置き換えた。ピールは、「パーシバル・ジョンソン氏のあまりに高等な言葉では話せない…私は特に短縮された方法で銀、金、パラジウムを分離する方法から精錬の有益な情報を引き出した」と記していた。ロンドンに居る間に、友人で海外に居住しているアメリカ人ジョセフ・サクストンに精巧な天秤ばかりを注文し、後にサクストンにアメリカに戻り、フィラデルフィア造幣所で働くよう誘った。 ピールはフランスに戻った。そこの精錬者がフランスの分離技術を教えたことに対する報酬を望んでいた。ピールはルーアンの造幣局支所で試金を観察しながらそれを学んでいた。ピールは自分でやってみたわけではなく、実験もしていなかったので完全に満足してはいなかったが、フィラデルフィアに戻れば見てきたものを再現できるとも感じていた。ピールはまたドイツのドレスデン、シュトゥットガルト、カールスルーエにある造幣所も訪れた。ドイツでは分離が鉄製容器の中で行われており、ピールはこの方法がプラチナの容器で行うよりも安いことに注目したが、プラチナの法を好み、1834年12月には鉄を使うことが「時には当惑させるような損失に繋がる」と記した。またザクセン州フライベルクも訪れ、鉛鉱石の溶錬と精錬工程を観察した。
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