誕生~新響とは? わかりやすく解説

誕生~新響

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 04:21 UTC 版)

近衛秀麿」の記事における「誕生~新響」の解説

1898年11月18日公爵近衞篤麿次男として東京市麹町区(現:千代田区)に生まれる。異母兄近衞文麿政治家・元内閣総理大臣)、実弟近衞直麿雅楽研究者)、水谷川忠麿春日大社宮司)がいる。 近衞家五摂家筆頭家柄で、また皇室内で雅楽統括する家柄でもあった。音楽は文麿の影響興味を持つようになった学習院時代犬養健らと親しくなり、1913年頃には東京音楽学校分教場次いで上野本校によく遊びに出かけていたと言われている[誰によって?]。一時期飛行機熱中した時期もあったが、やがて本格的に音楽の道を志すようになり、飛行機趣味を断つ証としてヴァイオリン正式に勉強することを許された。 1915年からは、牛山充紹介で、ドイツでの作曲留学から帰国したばかりの山田耕筰作曲を学ぶようになった一方で東京音楽学校にあった交響曲片っ端から写譜するなどオーケストラへの興味強めていった。 1920年瀬戸口藤吉主宰していたアマチュアオーケストラ瀬戸口代演指揮し指揮者デビュー果たした首尾よくは行かなかったようである。学習院初等科学習院中・高等科経て東京帝国大学文学部入学する中退した1923年、秀麿はヨーロッパ渡りベルリン指揮エーリヒ・クライバーらに、作曲マックス・フォン・シリングスフルトヴェングラーの師)、ゲオルク・シューマン学びパリ作曲ダンディらに師事するヨーロッパ滞在中の1924年1月18日に、かつて山田そうしたように秀麿も自腹ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団雇いヨーロッパで指揮者デビュー果たしたまた、ドイツインフレ著しマルク安にも助けられて、おびただしい数のオーケストラ用の楽譜を買い込み同年9月帰国1925年には山田耕筰協力し日本交響楽協会設立定期演奏会や、ハルビン在住楽士加えた日露交歓交響管弦楽演奏会」も成功させた。 「常設オーケストラ設立」という山田の夢を直接的にかなえる役割果たした秀麿であったが、マネージャー原善一郎不明朗経理糾弾された際、秀麿は原の味方まわった当時山田体調崩しており、秀麿と原が山田代わりに会計携わっていたが、その際に5,400円(当時)もの謎の使途不明金出て、原がそれを山田尋ねたところ逆に不明朗経理糾弾され、さらに解任言い渡された。 この問題に関しては、後に関東軍情報担当にもなった策士の原が金銭を罠にして山田釣ったという説があるが、山田儲け半分独占し残り半分楽員全員山分けすることに不満の楽員を秀麿と原が自派引き入れて分裂に至らしめた、という説もあり真実不明である。 秀麿支持派44名に達し、この集団以って新交響楽団」と名乗り、秀麿が常任指揮者となり、放送開始されたばかりJOAK契約することになったその後新響日本交響楽団経て1951年NHK交響楽団N響となった1927年2月20日に、新響初めての定期演奏会を秀麿の指揮開いた以後10年もの間近衞は新響とともに日本交響楽根付かせる運動奔走すこととなる。演奏会ではベートーヴェンモーツァルトなどの古典派音楽加えマーラー当時における現代音楽などをレパートリーとして演奏している。また、1930年にはマーラー交響曲第4番世界初録音している。 1930年秋からヨーロッパ単身演奏旅行に出かけた秀麿はフルトヴェングラーブルーノ・ワルタークライバーらが指揮するベルリン・フィルライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団などの演奏聴き日本海外レベルがあまり縮まっていないことを痛感したという。折りしも、国内でも「新響はさほどレベルアップていない」という評価多く占めたこともあり、帰国後、秀麿は大鉈奮って人員刷新取り組むことになった楽員サイドと「革新実行委員会」を作り、どの楽員リストラすべきか検討した難航した。そこで、手っ取り早く塵を払うべく、原の提案で、待遇改善しつこく訴えたり原の行動に不満をぶちまけた楽員リストラすることになり、結果17名(23名説もある)の楽員リストラした。解雇され楽員新響や原を一度告訴するも、やがて音楽評論家堀内敬三面倒をみることになり、堀内愛用していたタイプライターの名前にちなんでコロナ・オーケストラ」と名乗った後年、「東京放送管弦楽団」と改称し幾度メンバー変遷などを経て現在もNHK活動をしている。この一連のリストラ騒動を「コロナ事件」という。この一件の後、新響新楽員を入れたが、その際秀麿の提案で4名の女性楽員入れた。これが、学校付属のものなどを除けば日本オーケストラ女性入った嚆矢である。 「コロナ事件」を経て、再び新響活動順調になったはずであったが、1935年7月13日楽員一同が原の不明朗経理糾弾し同時に新響法律上組合組織改組する旨宣言した楽員側は宣言文さりげなく秀麿の名前を入れたが、秀麿自身寝耳に水の話であったJOAKは秀麿と原の味方をし、評論家二分音楽ファン楽員側を応援した評論家挙って音楽雑誌論陣張り、この問題取り上げた。 秀麿は7月18日新響解消してオーケストラ結成する宣言出したものの、今回楽員達がまったくついてこず、結局秀麿は新響退団。原も追放された。一方で新響JOAKとの契約一時解消され8月13日には日比谷公園野外音楽堂無指揮者演奏会開き8月末には契約復活したが、秀麿の退陣常任指揮者不在となり、定期演奏会出演する指揮者が度々変わった。この状態は1936年秋のヨーゼフ・ローゼンシュトック着任まで続くこととなる。

※この「誕生~新響」の解説は、「近衛秀麿」の解説の一部です。
「誕生~新響」を含む「近衛秀麿」の記事については、「近衛秀麿」の概要を参照ください。

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