日本交響楽協会とは? わかりやすく解説

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日本交響楽協会

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 05:01 UTC 版)

山田耕筰」の記事における「日本交響楽協会」の解説

東京フィルハーモニー会瓦解後、訪米オペラ上演経て再び常設オーケストラ作ることを夢見た山田は、「まず本場オーケストラ呼んで世間注目オーケストラ集めよう」と、当時東洋一実力謳われていたハルビン東支鉄道交響楽団を招くことを考えた招聘話はかなりの部分まで進んだようだが、関東大震災あえなく挫折。翌1924年大正13年4月に日本交響楽協会をとりあえ設立したものの、山田自身パートナー探していたし、楽譜などのインフラ整備まだまだだった。そこに、ヨーロッパ留学から大量楽譜とともに帰国したばかりの近衛秀麿山田面会山田助力する旨を伝えた山田近衛参加原善一郎というロシア語堪能敏腕マネージャー手中にしたことにより、「悲願達成の機は熟した」と判断大震災断念した東支鉄道交響楽団招聘に再び着手する1925年大正14年4月開催された「日露交歓交響管弦楽演奏会」は成功裏終わり、それを助走として協会1926年大正15年1月最初定期演奏会開いた6月まで12回の演奏会開いたが、思わぬころから協会崩壊する1926年9月8日近衛が原のリストラ不服として突如協会退会宣言近衛支持する楽員44名に達して近衛派は新交響楽団新響)を設立一方山田事情聴取までされた上に黒柳守綱と「モンパルナス・トリオ」(松原与輔、岡村雅雄、郡司昌雄)しか手元に残らなかった(黒柳岡村は、山田溺愛していたがゆえに渾身の思い引き止めたともいわれている)。分裂原因使途不明金銭まつわる経理の不正が理由とされる。後に関東軍情報担当にもなった策士の原が一枚絡んでいるという説があるが、もともと山田自身金銭ルーズな性格だったことも一因として挙げられており、100円当時)の儲け山田50円残り楽員全員50円平均1人1円ちょっとの計算となる)としていたことに楽員が不満で、そういう楽員心境近衛と原が巧みに掴んで分裂に至らしめたとも言われている。分裂の後、山田近衛1931年昭和6年)ごろに和解し黒柳らも新響合流したが、その近衛と原が新響追い出されるのは4年後であった。このときも原が原因だったという。 山田金銭面の問題さておき指揮者としての実力情熱は他の指揮者比べても全く引けは取らなかったようであるが、実力情熱以ってしてもオーケストラ運営者として抱くには、どうしても乗り越えられないような壁があったのではないかという指摘もある。例え井上道義は、「楽員山田近衛性格比較して山田からカリスマ性見出せなかったのではないか」と述べている。 山田戦後脳溢血倒れて体が不自由(左半身不随になっても、しばしば指揮をした。しかし、そのほとんどは別の指揮者実際指揮任せていたという(ベートーヴェン第九初演指揮を、実質ミヒャエル・ウムラウフに委ねていたのと同じ感覚)。「黒船」を大阪指揮した際も、実際指揮朝比奈隆が執っている。

※この「日本交響楽協会」の解説は、「山田耕筰」の解説の一部です。
「日本交響楽協会」を含む「山田耕筰」の記事については、「山田耕筰」の概要を参照ください。

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