蒸気機関車の発明
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17世紀の終わり頃から蒸気機関に関するアイデアが出され始め、1698年にイギリスのトーマス・セイヴァリによって初めての蒸気機関である、蒸気圧による揚水機械の特許が取得された。さらに鉱山の排水用として、やはりイギリスのトーマス・ニューコメンにより1712年に初めて実用になる蒸気機関が発明された。この蒸気機関はまだ効率が悪かったため、改良が進められてジェームズ・ワットにより1769年に新方式の蒸気機関が開発された。このワットが改良した蒸気機関がその後広く普及して、産業革命を推し進めていく原動力となった。 蒸気機関を用いて車両を動かそうとするアイデアは古くからあり、フランスのニコラ=ジョゼフ・キュニョーがキュニョーの砲車と呼ばれる蒸気機関で走る自動車を1769年に作って実際に走行させた。また、ワットの助手であったウィリアム・マードックも蒸気自動車の開発を行い、1785年には特許を取得しようとしているが、既に成功して保守的となったワットに妨害されて断念している。 マードックとも関係のあった機械技術者のリチャード・トレビシックは、やはり蒸気自動車の開発に取り組み、ある程度の成功を収めた。その後レールの上を走る機関車の製作に取り組み、1号機は使い物にならなかったものの、1804年2月21日、ウェールズのペナデラン (Pen-y-deren) において2号機の走行試験に成功した。これが世界で初めての蒸気機関車であるとされている。シリンダーは水平に置かれてコネクティングロッドにより大きなフライホイールを通じて2軸の車輪を駆動していた。当時の技術的な制約によりシリンダーは1個しか搭載できず、クランクの死点で機関車が止まってしまうと、人力により死点を外れるまで機関車を移動させなければ再発進できなかった。トレビシックは既に2個のシリンダーの位相を90度ずらすことでこの問題を解決するアイデアを考案し、特許も取得している。しかしレールの強度不足や機械工作の精度の問題などにより、まだ蒸気機関車を実用化することはできなかった。 1812年に、ジョン・ブレンキンソップが設計しマシュー・マレーが製造した「サラマンカ号」 (Salamanca) では、レールと車輪がスリップしたことがトレビシックの失敗の原因であると考えられて、レールに刻み目をつけて歯車をかみ合わせて前進する、ラック式鉄道となっている。シリンダーは垂直に立てられており、また2個のシリンダーにより死点の問題を解決した初めての機関車であった。90 トンの貨車を牽いて4 マイル毎時で走行することができ、またラックレールにより通常の鉄道では登坂困難な50 パーミルの勾配も15 トンを牽いて登ることができた。この機関車は4両製造され1835年まで実用的に用いられた。 ウィリアム・ヘドリーは、さらに実験を行って、当初のトレビシックの機関車のように歯車のない粘着運転でも通常の走行には十分であることを立証した。1813年に彼は「パッフィング・ビリー号」 (Puffing Billy) を製作して走らせた。「サラマンカ号」では前後に2つ並んでいたシリンダーは、「パッフィング・ビリー号」では左右に2つ並んで、下部のクランクを駆動していた。この形式は見た目がバッタに似ていることから「グラスホッパー型」 (grasshopper) と呼ばれ、初期のアメリカの機関車に多く見られた。 一般に蒸気機関車を実用化したと考えられているのはジョージ・スチーブンソンであり、しばしば蒸気機関車自体の発明者と誤解されている。北イングランドの炭鉱で働いていた彼は、ワットの蒸気機関の操作や改良から始めて、次第に蒸気機関車に手を染めるようになった。キリングワース (Killingworth) の炭鉱での実験では、ピストンの動きを歯車で車輪に伝達する機構は弱いことが分かり、コネクティングロッドで直接車輪を駆動する機構を発明した。また複数の動輪を連結するカップリングロッドも試したが、当時の技術では精度不足で失敗し、チェーン駆動となった。コネクティングロッドで直接車輪を駆動する方式は、その後蒸気機関車の時代の終焉までほとんどの機関車で続けられた定番の方式となった。 スチーブンソンは、息子のロバート・スチーブンソンやその他の関係者と共に、1823年には世界で最初の機関車製造会社、ロバート・スチーブンソン・アンド・カンパニーを設立した。これは、蒸気機関車を利用した本格的な鉄道が開業するよりも前のことである。 スチーブンソンは、あちこちの炭鉱において蒸気機関車を走らせるようになって有名となった。これにより、世界で初めての蒸気機関車を利用した公共鉄道であるストックトン・アンド・ダーリントン鉄道が1825年に彼の手によって開通した。この鉄道では、鋳鉄のレールに替えて錬鉄のレールが用いられるようになり、これによるレールの強度改善により蒸気機関車は実用的なものとなった。しかしストックトン・アンド・ダーリントン鉄道ではまだ馬車鉄道時代の流儀によって運行されており、ダイヤが定められておらず場当たり的な運行が行われていた。列車を運行したい他者に線路を貸し出すということも行われ、運河に近い形態であった。さらに当初は貨物列車のみが蒸気機関車による運行で、旅客列車は馬による牽引であった。この時に投入された機関車である「ロコモーション号」 (Locomotion) は、初めてカップリングロッドを実用化して、複数の車輪をロッドで連結して駆動する方式となった。 さらにスチーブンソンは蒸気機関車の改良を進め、スプリングをすべての車輪に取り付けて動揺を緩衝するようにした機関車、「エクスペリメント号」 (Experiment) を1827年に送り出した。スプリングによる車体の上下により、垂直に設置したシリンダーは使えなくなり、水平に駆動する方式に戻されている。そして1828年には、初歩的ながら弁装置の駆動を工夫してカットオフの概念が入った「ランカシャー・ウィッチ号」 (Lancashire Witch) を送り出した。 続けてスチーブンソンは、中部イングランドの貿易港リヴァプールと工業都市マンチェスターを結ぶリバプール・アンド・マンチェスター鉄道の建設を行った。1829年10月に、この鉄道で蒸気機関車を採用するか定置式の蒸気機関によるケーブル牽引を採用するかを決定するために、レインヒル・トライアルという機関車コンテストが行われ、スチーブンソンの開発した「ロケット号」が優勝した。この機関車ではさらに、フランスのマーク・セガンが考案したとされる、煙管を多管式にする工夫が行われて、出力が大幅に強化された。これによりリバプール・アンド・マンチェスター鉄道では蒸気機関車の採用が決定され、旅客列車も蒸気機関車が牽引する初めての鉄道が1830年に開通した。運行管理や信号保安の技術も改良されて真に実用的な鉄道となり、産業革命を牽引していくことになった。
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