舞台芸術としての発展
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 08:25 UTC 版)
1954年に日伊合作映画『蝶々夫人』をチネチッタ撮影所で撮影するために、先にイタリアに渡っていた八千草薫と寿美花代に続いて、東郷晴子、淀かほる、鳳八千代らトップスターと、伊吹友木子、朝日奈世志子、梓真弓、筑紫まりら選抜メンバー15名が10月2日午後4時20分に羽田空港からエールフランス航空機に搭乗してイタリアのローマへ出発した。選抜メンバーの一団が羽田空港を離陸後にサイゴン - カラチ - ベイルートを経由してローマ近郊のローマ・チャンピーノ空港に到着したときの模様や、チネチッタで撮影中の様子を伝える白黒のニュースフィルムが現存する。一団は全撮影を終了して11月12日午後9時羽田空港着のエールフランス航空機で約40日ぶりに帰国して、12月28日に八千草が帰国した。制作費は当時の約2億円であった。この渡航をきっかけに海外公演が急増する。 1951年に演出家の内海重典が渡米して1952年に帰国し、ブロードウェイですでに導入されていた紗幕やコードつきのハンドマイクを取り入れた。1955年に上演された『ブルーハワイ』で、世界で初めてドライアイスを使ったスモーク効果を使用する。これは演出家が内海重典の思いつきから発想した。 1957年、『モン・パリ』で史上最大となる50段の大階段が登場する。 1958年は、天覧・台覧公演が相次いだ。4月1日に東京宝塚劇場で香淳皇后・皇太子明仁親王・義宮正仁親王・秩父宮妃が『花詩集』を、10月30日に昭和天皇・皇后・義宮正仁親王・清宮貴子内親王が『光明皇后』『三つのワルツ』を鑑賞される。11月1日に皇太子明仁親王が単独で宝塚大劇場で『秋の踊り』を観劇した。宝塚音楽学校が前年から二年制となった影響で、この年の初舞台生はいない。一方で4月1日に宝塚大劇場で月組・香月弘美がセリに巻き込まれ死亡する凄惨な事故も発生している。この事故によりセリは使用中止になり、1959年に安全装置が完成した。 この年は日本の民俗芸能を舞台化する目的で「郷土芸能研究会」を発足させ、日本各地の伝統芸能、祭事、芸能催事の取材、記録や収集を開始した。この活動は約20年間継続して行われた。これらは日本民俗舞踊集として舞台化され、1958年に雪組による第1集:南紀篇、南紀太地の『鯨』を始めとして、月組による第5集:奥羽篇『花のみちのく』など、合計22作品が発表された。 1960年の『華麗なる千拍子』(寿美花代主演)は大ヒット作となった。宝塚のみならず、主題歌もヒットした。東京で再演ののち、1961年に芸術祭賞を受賞し、1962年も九州の郷土芸能をテーマにした『火の島』で同賞を受賞している。明石照子・寿美花代らが人気を集め、退団の際は「さよならショー」が上演された。これは今日でも恒例である。寿美、明石が去ったあとの1960年代中期は、マルサチオソノの愛称で知られる那智わたる、内重のぼる、藤里美保がファンから多大な支持を受けた。 1960年代後半に、海外から振付家を招聘し『シャンゴ』(真帆志ぶき主演)などそれまでの宝塚のイメージと異なるショーが誕生した。『ウェストサイド物語』『オクラホマ!』『回転木馬』といった海外ミュージカルの日本初演も、この時期の宝塚である。『ウェストサイド物語』は芸術祭賞を受賞した。3Kトリオこと甲にしき・上月晃・古城都らが人気を集めた。 1968年6月から、本公演で若手団員による「新人公演」が定例となった。当初は2回ずつ別のメンバーで行われていたが、1984年以降は1回のみとなる。 1970年の大阪万博に際し、万博会場と同じ阪急沿線の宝塚も観客を呼び込もうと『タカラヅカ EXPO70'』を上演。上月晃らスターの退団と重なったことで、狙い通り連日満員の大盛況となった。このとき、万博の観光客(従来のファン以外)を退屈させないよう公演時間を短縮し、2幕2時間半、幕間に30分休憩の公演形式が確立された。
※この「舞台芸術としての発展」の解説は、「宝塚歌劇団」の解説の一部です。
「舞台芸術としての発展」を含む「宝塚歌劇団」の記事については、「宝塚歌劇団」の概要を参照ください。
- 舞台芸術としての発展のページへのリンク