第二次世界大戦後のヒスイとその受難
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「糸魚川のヒスイ」の記事における「第二次世界大戦後のヒスイとその受難」の解説
地球科学者の岩生周一は、第二次世界大戦後に小滝川ヒスイ峡近辺の地質調査を行った。この結果は、地質調査所報告No.153「新潟県小滝産の曹長岩およびこれに伴うヒスイについて-窯業原料の研究-」(英語)として1953年(昭和28年)に発行された。この報告では宝石としての価値について「量が少なく、濃い緑色ではないので優れた宝石とはならない」とし、むしろ曹長岩が窯業原料やガラス材料として有望な資源になり得ることを強調していた。 やがて小滝川ヒスイ峡は日本国内で最初に発見されたヒスイの産地として、考古学者や郷土史家を中心に歴史的および文化財的な評価が高まっていった。評価の高まりはヒスイ保護運動につながり、1954年(昭和29年)2月には新潟県の天然記念物に指定された。当時の指定内容は「明星山下の硬玉岩塊」というもので、指定の地域はあいまいであった。 1954年(昭和29年)6月、糸魚川町と8つの村(浦本村、上早川村、下早川村、大和川村、西海村、大野村、根知村、小滝村)が合併して糸魚川市が発足した。糸魚川市発足直後の8月、小滝川ヒスイ峡で事件が発生した。それはダイナマイトでヒスイ原石を爆破し、叺を使って3俵分ものヒスイを盗もうとしたものであった。この事件は運び出しの前に発覚し、犯人は書類送検となった。 ヒスイの受難はそれだけで終わらず、同年10月にはさらに大きな問題が発生した。10月末に、小原秀憲という人物が糸魚川市教育委員会を突然訪問してきた。小原は「日本宝石鉱業会社代表発起人」という肩書の名刺を持ち、元国務大臣による紹介状を携えていた。 小原の用件は、銃把(ピストルの握りの部分を指す)の装飾用に、ヒスイの原石をアメリカに10万ドル(当時の日本円で3600万円)ほど輸出したいというものであった。小原はその見本として小滝川のヒスイ2個を採掘したいので許可をほしいと言い、すでに新潟県からの内諾も得ていると付け加えた。この話は、新潟県から教育委員会には何も知らされていない予想外のことであった。 新潟県がなぜ採掘という保護とは相容れない行為を許可したのか、それは外貨の獲得が名目であった。小原は糸魚川市を訪問する前、新潟県庁や県知事を訪問していた。彼はそこで大臣の紹介状を掲げ、ヒスイ資源の探査と開発、そして外貨獲得について構想を述べていた。しかし、小原とその周囲には不審な点があった。8月に発生した盗掘未遂事件の容疑者は、小原の会社の関係者だった。しかもその容疑者は、小原の10月の糸魚川訪問にも同行していた。 ヒスイ採掘に対して当初、糸魚川市教育委員会は「指一本触れさせたくない」と反対し、糸魚川郷土研究会、新潟県文化財保護連盟、考古学会などもそれに同調していた。新潟県教育委員会も、同じく「文化財指定の意義が薄れる」などと採掘不許可の立場であった。 しかし、当初は反対していた人々の発言が揺らぎを見せ始めた。これは小原の背後にいた政治的な実力者が、反対派に圧力をかけたのではないかという新聞記事がでるほどであった。11月29日に、新潟県文化財保護審議会は、結論を留保した。その翌日、新潟県議会の総務文教委員会でヒスイ採掘の問題が取り上げられた。そのとき上がった意見では、文化財としての保護を望むものが多かった。 しかし、一転してヒスイの採掘が許可された。小原はヒスイ原石の払い下げ代金として新潟県におよそ22万円を支払い、1954年(昭和29年)12月18日に2個のヒスイ原石がダイナマイトを使って爆破された。爆破後のヒスイは、10人の作業員が叺を使って運び出した。糸魚川郷土研究会によると、爆破された2個のヒスイは「ヒスイ峡の中でも一番値打ちのあるもの」だった。ところが、小原の申告では「ろくなものではない、体積は2立方メートルと3立方メートル」とされていたが、実際はさらに大きな体積を持つものであった。 小原によるヒスイ採掘は、この1回のみで終わった。彼が掲げていたヒスイ資源の探査や開発などは行われることさえなく、糸魚川の人々は貴重なヒスイ原石の一部を永久に失う結果になった。ただし、この顛末によってヒスイの価値が改めて認識された。1955年(昭和30年)、小滝川ヒスイ峡は国の天然記念物となった。新潟県の天然記念物だったときに曖昧だった指定範囲が見直され、指定地内ではヒスイを含めたすべての岩石の採取が禁じられている。 天然記念物に指定された小滝川ヒスイ峡付近では、古生代から中生代に形成されたと考えられる蛇紋岩体の他、古生層、中生代ジュラ紀や白亜紀の地層が見られる。中でも古生層は前述の蛇紋岩体の他、地中深くで形成された様々な岩石が混在したメランジュや、後期古生代の石灰岩体が見られる。ヒスイは蛇紋岩帯の中に産出し、渓谷内に転石として分布するようになったと考えられている。 また小滝川ヒスイ峡は、赤禿山の北斜面の長さ約2キロメートル、幅約1キロメートル、深さ50メートルから100メートルに及ぶ大きな地すべり帯の末端に位置している。1991年の融雪期、この地すべり帯の末端である小滝川ヒスイ峡一帯で地すべりが発生した。早速、関係機関によりヒスイ峡保全委員会が立ち上げられて実態調査が行われた。その結果、地すべりが起きたヒスイ峡付近のみならず、地すべり帯上部の高浪池付近から地面の変動があったことが推定されたため、応急的な措置では間に合わないことが予想された。そこで地すべりの頭部では排土を行い、滑りの要因ともなる地すべり帯の地下水を排水する設備が施工された。そして地すべりの激しかった部分ではくい打ち、補強鉄筋などを施し、地すべり末端部の更なる崩壊を防ぐために小滝川の護岸工事を行うことになった。排水設備と護岸工事の成果によって、ヒスイ峡は埋没の危機を逃れている。
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