第二次世界大戦後のヒスイとその受難とは? わかりやすく解説

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第二次世界大戦後のヒスイとその受難

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 01:58 UTC 版)

糸魚川のヒスイ」の記事における「第二次世界大戦後のヒスイとその受難」の解説

地球科学者岩生周一は、第二次世界大戦後小滝川ヒスイ近辺地質調査行った。この結果は、地質調査所報告No.153「新潟県小滝産の曹長岩およびこれに伴うヒスイについて-窯業原料研究-」(英語)として1953年昭和28年)に発行された。この報告では宝石として価値について「量が少なく、濃い緑色ではないので優れた宝石とはならない」とし、むしろ曹長岩が窯業原料ガラス材料として有望な資源なり得ることを強調していた。 やがて小滝川ヒスイ峡は日本国内最初に発見されヒスイ産地として、考古学者郷土史家中心に歴史的および文化財的な評価高まっていった。評価の高まりヒスイ保護運動つながり1954年昭和29年2月には新潟県天然記念物指定された。当時指定内容は「明星山下の硬玉岩塊」というもので、指定地域はあいまいであった1954年昭和29年6月糸魚川町8つ浦本村上早川村下早川村大和川村西海村大野村根知村小滝村)が合併して糸魚川市発足した糸魚川市発足直後8月小滝川ヒスイ峡で事件発生した。それはダイナマイトヒスイ原石爆破し、叺を使って3俵分ものヒスイ盗もうしたものであった。この事件運び出し前に発覚し犯人書類送検となったヒスイ受難それだけ終わらず同年10月にはさらに大きな問題発生した10月末に、小原秀憲という人物糸魚川市教育委員会を突然訪問してきた。小原は「日本宝石鉱業会社代表発起人」という肩書名刺持ち、元国務大臣による紹介状携えていた。 小原用件は、銃把ピストル握り部分を指す)の装飾用に、ヒスイ原石アメリカ10万ドル当時日本円3600万円)ほど輸出したいというものであった小原はその見本として小滝川ヒスイ2個を採掘したいので許可ほしいと言い、すでに新潟県からの内諾得ていると付け加えた。この話は、新潟県から教育委員会には何も知らされていない予想外のことであった新潟県がなぜ採掘という保護とは相容れない行為許可したのか、それは外貨獲得名目であった小原糸魚川市訪問する前、新潟県庁県知事訪問していた。彼はそこで大臣紹介状掲げヒスイ資源探査と開発、そして外貨獲得について構想述べていた。しかし、小原とその周囲には不審な点があった。8月発生した盗掘未遂事件容疑者は、小原会社の関係者だった。しかもその容疑者は、小原10月糸魚川訪問にも同行していた。 ヒスイ採掘に対して当初糸魚川市教育委員会は「指一本触れさせたくない」と反対し、糸魚川郷土研究会新潟県文化財保護連盟考古学会などもそれに同調していた。新潟県教育委員会も、同じく文化財指定意義薄れる」などと採掘不許可立場であった。 しかし、当初反対していた人々発言揺らぎ見せ始めた。これは小原背後にいた政治的な実力者が、反対派圧力をかけたのではないかという新聞記事がでるほどであった11月29日に、新潟県文化財保護審議会は、結論留保した。その翌日新潟県議会総務文教委員会ヒスイ採掘問題取り上げられた。そのとき上がった意見では、文化財としての保護を望むものが多かった。 しかし、一転してヒスイ採掘許可された。小原ヒスイ原石払い下げ代金として新潟県におよそ22万円支払い1954年昭和29年12月18日に2個のヒスイ原石ダイナマイト使って爆破された。爆破後のヒスイは、10人の作業員が叺を使って運び出した糸魚川郷土研究会によると、爆破された2個のヒスイは「ヒスイ峡の中でも一番値打ちのあるもの」だった。ところが、小原申告では「ろくなものではない、体積は2立方メートルと3立方メートル」とされていたが、実際はさらに大きな体積を持つものであった小原によるヒスイ採掘は、この1回のみで終わった。彼が掲げていたヒスイ資源探査開発などは行われることさえなく、糸魚川人々貴重なヒスイ原石一部永久に失う結果になった。ただし、この顛末によってヒスイ価値改め認識された。1955年昭和30年)、小滝川ヒスイ峡は国の天然記念物となった新潟県天然記念物だったときに曖昧だった指定範囲見直され指定地内ではヒスイ含めたすべての岩石採取禁じられている。 天然記念物指定され小滝川ヒスイ付近では、古生代から中生代形成されたと考えられる蛇紋岩体の他、古生層中生代ジュラ紀白亜紀地層見られる中でも古生層前述蛇紋岩体の他、地中深く形成され様々な岩石混在しメランジュや、後期古生代石灰岩体が見られるヒスイ蛇紋岩帯の中に産出し渓谷内に転石として分布するようになった考えられている。 また小滝川ヒスイ峡は、赤禿山の北斜面長さ約2キロメートル、幅約1キロメートル深さ50メートルから100メートルに及ぶ大きな地すべり帯の末端位置している。1991年融雪期、この地すべり帯の末端である小滝川ヒスイ一帯地すべり発生した。早速、関係機関によりヒスイ保全委員会立ち上げられ実態調査が行われた。その結果地すべり起きたヒスイ付近のみならず地すべり上部高浪池付近から地面変動があったことが推定されたため、応急的な措置では間に合わないことが予想された。そこで地すべり頭部では排土行い滑り要因ともなる地すべり帯の地下水排水する設備施工された。そして地すべり激しかった部分ではくい打ち補強鉄筋などを施し地すべり末端部の更なる崩壊を防ぐために小滝川護岸工事を行うことになった排水設備護岸工事成果によって、ヒスイ峡は埋没危機を逃れている。

※この「第二次世界大戦後のヒスイとその受難」の解説は、「糸魚川のヒスイ」の解説の一部です。
「第二次世界大戦後のヒスイとその受難」を含む「糸魚川のヒスイ」の記事については、「糸魚川のヒスイ」の概要を参照ください。

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