第二次世界大戦後の動向
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/07/19 13:24 UTC 版)
「ボヘミアガラス」の記事における「第二次世界大戦後の動向」の解説
1948年に、ボヘミアのガラス産業はチェコスロバキア政府によって国有化される。社会主義下のチェコスロバキアでは国策として重工業が優先され、ガラス産業も他の中工業と同じように規模が縮小されようとしていた。第二次世界大戦後にプラハ芸術アカデミーの教授職に就いたヨセフ・カプリツキーは、教え子たちに密かに西側諸国の現代美術の知識を伝え、自由な精神と独創性を育て上げた。1957年にミラノで開催されたトリエンナーレに出品された作品はボヘミアガラスの国際的な評価を高め、1958年のブリュッセル万国博覧会にもボヘミアガラスが出展される。チェコのパビリオンにはカプリツキーの指導を受けた若手の作品が並び、彼らの作品は国際的に高い評価を受けた。万博での成功の結果、ガラス産業はチェコスロバキアの政治的プロパガンダの広告塔とされ、手厚い国家援助を受けた。 国家によって選抜された芸術家たちは、工場で量産されるガラス製品のデザインや素材の開発を手掛けるとともに、芸術性を追求する創作活動のために工場を利用することもできた。こうした環境は個人規模では不可能な制作活動を可能にし、チェコのガラス芸術は国際的に高い域に達する。社会主義時代のガラス工芸の中心人物であるスタニスラフ・リベンスキーは応用美術アカデミーで後進の育成にあたり、妻のヤロスラヴァ・ブリフトヴァーと共に多くの国家的プロジェクトに着手した。リベンスキーらによる作品の一つに、聖ヴィート大聖堂内の聖ヴァーツラフ礼拝堂の窓が挙げられる。
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