第二次世界大戦後のセルズニック
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「アルフレッド・ヒッチコック」の記事における「第二次世界大戦後のセルズニック」の解説
ヒッチコックはイギリス滞在中、精神病院が舞台の小説『ドクター・エドワーズの家(英語版)』の映画化権を取得し、1944年3月にアメリカに戻るとそれを基にした『白い恐怖』の脚本をベン・ヘクトと作成し、セルズニックの下で作る2本目の作品として監督した。この作品は精神分析を題材に扱い、自分を人殺しだと思い込む記憶喪失の精神病院の院長(グレゴリー・ペック)と、彼と恋に落ちた精神分析医(イングリッド・バーグマン)を主人公にして物語が展開され、サルバドール・ダリが夢のシーンをデザインした。撮影は同年7月から10月まで行われたが、その間にセルズニックとの契約が更新され、週給はそれまでの倍以上となる7500ドルになった。作品は1945年に公開され、800万ドルの収益を上げた。第18回アカデミー賞では作品賞や監督賞など6部門でノミネートされ、音楽を担当したミクロス・ローザが作曲賞を受賞した。 この作品の完成後、ヒッチコックは何度かイギリスへ行き、バーンスタインと独立系映画製作会社を設立するための打ち合わせをした。その間には再びヘクトと『汚名』の脚本を作成したが、セルズニックはこの作品を自分では作らず、「監督ヒッチコック=脚本ヘクト=主演バーグマン」のパッケージにしてRKOに50万ドルで売り、ヒッチコックがプロデューサーを兼任した。物語はナチスのスパイの娘(バーグマン)と彼女に協力を求めるFBIの諜報員(グラント)を主人公にして展開されるが、この作品で先見の明のあるところは、ナチスがウラン鉱石を兵器実験に使うという設定を採用したことである。その設定は広島市への原子爆弾投下よりも前の1945年3月、ヒッチコックとヘクトがカリフォルニア工科大学のロバート・ミリカンを訪ねたあとに脚本に書き加えたが、そのためにヒッチコックは一時的に連邦捜査局(FBI)の監視下に置かれた。撮影は同年10月から1946年2月まで行われ、8月に公開されると興行的成功を収め、批評家から高い評価を受けた。 その次にヒッチコックはセルズニックの下で、ロバート・ヒチェンス(英語版)の小説が原作の法廷サスペンス『パラダイン夫人の恋』を監督したが、これはセルズニックに無理に押し付けられた仕事であり、作品的にもやる気をそそられなかった。脚本はセルズニックが執筆したが、その日その日で書き進めて撮影現場に届けさせたため撮影はうまく進まず、おまけに作品に対するセルズニックの干渉も増えた。ヒッチコックはそんなセルズニックのやり方が気に食わず、絶え間ない対立で心気症に悩まされた。さらにキャスティングにも悩まされ、とくに主人公のイギリスの弁護士役のグレゴリー・ペックと下男役のルイ・ジュールダンが役柄のイメージに合わず、ミスキャストになってしまったことに弱り果てた。撮影は1946年12月から1947年5月の間に行われ、製作費は400万ドルを超えたが、これはヒッチコックのキャリアの中で2番目に高額な映画となった。同年大晦日に公開されたが批評家の反応は悪く、『ニューヨーク・タイムズ』誌には「陳腐で冗長」と評された。ヒッチコックはこの作品を最後にセルズニックとの契約を終わらせた。
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