竣工からバルカン戦争終結までとは? わかりやすく解説

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竣工からバルカン戦争終結まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 01:35 UTC 版)

イェロギオフ・アヴェロフ (装甲巡洋艦)」の記事における「竣工からバルカン戦争終結まで」の解説

本艦1909年イタリア大手造船会社オルランド社がリヴォリノ造船所にて輸出用建造中していたピサ級装甲巡洋艦仮称名 "X"」を、同年ギリシャ30英ポンド購入し1910年3月12日進水式行い、翌1911年5月16日竣工しギリシャへと引き渡したのである就役後ギリシャ海軍旗艦として艦隊中核成した同年6月24日大英帝国皇帝ジョージ5世戴冠記念観艦式開催される本艦と共にドイツ帝国海軍巡洋戦艦フォン・デア・タン (SMS Von der Tann) 、日本海軍巡洋戦艦鞍馬防護巡洋艦利根オスマン帝国海軍防護巡洋艦ハミディイェ (Hamidiye) など諸外国艦艇参列したオスマン帝国本艦ピサ級装甲巡)に脅威感じた列強各国より大型艦輸入しよう運動を開始大日本帝国にも珍田在ドイツ日本大使通じて巡洋戦艦購入打診している。この時はドイツ帝国より前弩級戦艦ブランデンブルク級戦艦2隻を購入しトゥルグート・レイス級装甲艦となった一方最新鋭装甲巡洋艦であった本艦は、1912年10月17日生起しバルカン戦争において、海防戦艦イドラ級3隻と駆逐艦14隻を率いてオスマン海軍激しく戦った同月18日から20日にかけてダーダネルス海峡封鎖狙ってレムノス島占領作戦成功導いた1912年12月16日オスマン帝国海軍によるギリシャ反攻作戦開始されドイツ装甲艦2隻(トゥルグート・レイス、バルバロス・ヘイレッディン)、装甲艦アサル・テヴフィク (Asar-ı Tevfik) 、防護巡洋艦メジディイェ (Mecidiye) と駆逐艦4隻を率いて突撃してきた。これに対しギリシャ艦隊旗艦アヴェロフとイドラ級海防戦艦3隻と駆逐艦4隻を率いて迎えうった。 オスマン帝国艦隊は岸から充分に離れてから90回頭した。これに対し、アヴェロフに座乗するコンドリオティス少将は「単独行動」の合図としてZ旗掲げ本艦と優速な艦のみを率いて20ノット下命付いてこれない艦は自由行動とした。アヴェロフを旗艦とした高速艦隊縦列陣を、装甲艦3隻は横列陣を採り前進するオスマン帝国艦隊は9,000 mから射撃開始したものの、重装甲フランス海防戦艦戸惑っている内にアヴェロフに回り込まれ両方から砲弾撃ち込まれる体たらくであった慌てたオスマン艦隊指揮官ダーダネルスへの撤退命じた。 しかし、艦隊混乱満ち満ちており、個々互いに進行方向妨害する始末で、オスマン装甲艦敵艦への射線上に友軍の艦が入り込むのでオスマン艦隊反撃中断。その隙を突かれバルバロス・ヘイレッディンの艦後部立て続け砲弾命中機関室石炭庫で火災発生し中破した。トゥルグート・レイスとメジディイェにも命中弾が出たが、こちらは大した損傷は出なかった。混乱するオスマン艦隊戦果呼べるものはメジディイェがギリシャ駆逐艦イェラクスに60発以上の120 mm砲弾発射して追い払ったのが戦果らしい戦果だった。オスマン艦隊我先へとダーダネルス海峡逃げ込み10時30分戦闘終了したオスマン帝国艦隊はこの時に大小合わせて800発もの砲弾発射したが、大口径砲弾の命中唯一3,000 mまで近づいたアヴェロフに命中弾1発を出しただけで、それさえも強固な舷側装甲弾かれた。むしろ小口径弾の方が命中弾が多く、アヴェロフに十数発の命中確認され1人戦死、7名が負傷した。他にイドラ英語版)とスペツェス(英語版)に命中弾が出たが、両方合わせて1名が重傷負ったに過ぎない。なおプサラ無傷であったギリシャ艦隊圧勝終わったこの海戦は「エリ海戦en:Naval Battle of Elli)」として戦史残り、その名は1914年中華民国経由アメリカ合衆国より購入した肇和級3番艦の軽巡エリ (Έλλη) 、同艦がイタリア潜水艦沈められたあと賠償艦としてイタリア共和国から入手した傭兵隊長型軽巡エリ」に引き継がれた。 1913年には、先の海戦の影響左遷させられ前任者代わり、ラムシ・ベイ大佐オスマン艦隊率いており、主力艦4隻と駆逐艦13からなる艦隊が再びダーダネルス海峡渡った。しかし、オスマン帝国艦隊レムノス島まで13マイルまでに近づいたとき、ギリシャ艦隊出撃してきた。アヴェロフの存在確認したオスマン艦隊司令退却下命。しかし、コンドリオティス司令はこれを追撃長距離砲撃戦が始まり徐々に距離を詰めながら砲戦継続され、約2時間はアヴェロフは5,000 mにまで接近しトルコ艦隊何度も命中弾を出した砲撃受けたバルバロス・ヘイレッディンとトゥルグド・ルイスは激しく炎上したが、さすがに前弩級戦艦であり、ダーダネルス要塞射程まで逃げ込んで難を逃れた。しかし、バルバロス・ヘイレッディンは2番主砲塔使用不能となり、同じくトゥルグート・レイス砲塔1基が破壊された。装甲艦アサル・テヴフィクは大破した今回オスマン帝国艦隊大小砲弾合わせて800発を放ったが、人的被害ギリシャ艦隊全体で1名が運悪く重傷負っただけであった旗艦アヴェロフに命中した砲弾戦闘能力を奪う損傷与えていなかった。一方でオスマン帝国艦隊戦艦2隻が中破装甲艦1隻大破で、人的被害31戦死負傷者82名を数えた今回ギリシャ艦隊大勝利終わり、この海戦は「レムノス海戦en:Naval Battle of Lemnos)」として戦史残り、その名はギリシャエリ引き続きアメリカより準弩級戦艦ミシシッピ級2隻(1908年竣工艦)を購入し海防戦艦キルキス級戦艦2番レムノスとして名が残ったバルカン戦争においてギリシャ艦隊中核として戦闘のみならず輸送作戦従事した本艦大きな損傷を受けることなく戦後迎えたギリシャは更に強力な大型艦求めてドイツ帝国戦艦サラミス (Σαλαμίς) を、フランスプロヴァンス級戦艦輸出仕様(ヴァシレフス・コンスタンチノス)を注文した。またブラジル海軍向けにイギリス建造されていた12インチ連装砲塔七基を持つ弩級戦艦リオデジャネイロ買収しようとしたが失敗しオスマン帝国先を越されてしまった(後日イギリス海軍接収しエジンコートとなる)。ギリシャアメリカ合衆国前弩級戦艦ミシシッピ級2隻を購入しキルキス級戦艦2隻(キルキスレムノス)と改名したドイツとフランス注文した新型戦艦未完成に終わったので、ギリシャにとってイェロギオフ・アヴェロフは3番目の大型艦であった

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