竣工からバルカン戦争終結まで
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「イェロギオフ・アヴェロフ (装甲巡洋艦)」の記事における「竣工からバルカン戦争終結まで」の解説
本艦は1909年にイタリアの大手造船会社オルランド社がリヴォリノ造船所にて輸出用に建造中していたピサ級装甲巡洋艦「仮称名 "X"」を、同年にギリシャが30万英ポンドで購入し、1910年3月12日に進水式を行い、翌1911年5月16日に竣工してギリシャへと引き渡したものである。就役後はギリシャ海軍の旗艦として艦隊の中核を成した。同年6月24日、大英帝国皇帝ジョージ5世の戴冠記念観艦式が開催される。本艦と共に、ドイツ帝国海軍の巡洋戦艦フォン・デア・タン (SMS Von der Tann) 、日本海軍の巡洋戦艦鞍馬や防護巡洋艦利根、オスマン帝国海軍の防護巡洋艦ハミディイェ (Hamidiye) など諸外国の艦艇も参列した。 オスマン帝国は本艦(ピサ級装甲巡)に脅威を感じた。列強各国より大型艦を輸入しようと運動を開始、大日本帝国にも珍田在ドイツ日本大使を通じて巡洋戦艦の購入を打診している。この時はドイツ帝国より前弩級戦艦のブランデンブルク級戦艦2隻を購入し、トゥルグート・レイス級装甲艦となった。 一方、最新鋭の装甲巡洋艦であった本艦は、1912年10月17日に生起したバルカン戦争において、海防戦艦イドラ級3隻と駆逐艦14隻を率いてオスマン海軍と激しく戦った。同月18日から20日にかけてダーダネルス海峡封鎖を狙ってレムノス島占領作戦を成功に導いた。1912年12月16日にオスマン帝国海軍によるギリシャ反攻作戦が開始され、ドイツ製装甲艦2隻(トゥルグート・レイス、バルバロス・ヘイレッディン)、装甲艦アサル・テヴフィク (Asar-ı Tevfik) 、防護巡洋艦メジディイェ (Mecidiye) と駆逐艦4隻を率いて突撃してきた。これに対し、ギリシャ艦隊は旗艦アヴェロフとイドラ級海防戦艦3隻と駆逐艦4隻を率いて迎えうった。 オスマン帝国艦隊は岸から充分に離れてから90度回頭した。これに対し、アヴェロフに座乗するコンドリオティス少将は「単独行動」の合図としてZ旗を掲げ、本艦と優速な艦のみを率いて20ノットを下命、付いてこれない艦は自由行動とした。アヴェロフを旗艦とした高速艦隊は縦列陣を、装甲艦3隻は横列陣を採り前進する。オスマン帝国艦隊は9,000 mから射撃を開始したものの、重装甲なフランス製海防戦艦に戸惑っている内にアヴェロフに回り込まれて両方から砲弾を撃ち込まれる体たらくであった。慌てたオスマン艦隊の指揮官はダーダネルスへの撤退を命じた。 しかし、艦隊は混乱に満ち満ちており、個々が互いに進行方向を妨害する始末で、オスマン装甲艦は敵艦への射線上に友軍の艦が入り込むのでオスマン艦隊は反撃を中断。その隙を突かれバルバロス・ヘイレッディンの艦後部に立て続けに砲弾が命中、機関室や石炭庫で火災が発生し中破した。トゥルグート・レイスとメジディイェにも命中弾が出たが、こちらは大した損傷は出なかった。混乱するオスマン艦隊で戦果と呼べるものはメジディイェがギリシャ駆逐艦イェラクスに60発以上の120 mm砲弾を発射して追い払ったのが戦果らしい戦果だった。オスマン艦隊は我先へとダーダネルス海峡に逃げ込み、10時30分に戦闘は終了した。 オスマン帝国艦隊はこの時に大小合わせて800発もの砲弾を発射したが、大口径砲弾の命中は唯一3,000 mまで近づいたアヴェロフに命中弾1発を出しただけで、それさえも強固な舷側装甲に弾かれた。むしろ小口径弾の方が命中弾が多く、アヴェロフに十数発の命中が確認され、1人戦死、7名が負傷した。他にイドラ(英語版)とスペツェス(英語版)に命中弾が出たが、両方合わせて1名が重傷を負ったに過ぎない。なおプサラは無傷であった。ギリシャ艦隊の圧勝で終わったこの海戦は「エリの海戦(en:Naval Battle of Elli)」として戦史に残り、その名は1914年に中華民国経由でアメリカ合衆国より購入した肇和級3番艦の軽巡エリ (Έλλη) 、同艦がイタリア潜水艦に沈められたあと賠償艦としてイタリア共和国から入手した傭兵隊長型軽巡「エリ」に引き継がれた。 1913年には、先の海戦の影響で左遷させられた前任者に代わり、ラムシ・ベイ大佐がオスマン艦隊を率いており、主力艦4隻と駆逐艦13隻からなる艦隊が再びダーダネルス海峡を渡った。しかし、オスマン帝国艦隊がレムノス島まで13マイルまでに近づいたとき、ギリシャ艦隊が出撃してきた。アヴェロフの存在を確認したオスマン艦隊司令は退却を下命。しかし、コンドリオティス司令はこれを追撃、長距離砲撃戦が始まり、徐々に距離を詰めながら砲戦は継続され、約2時間はアヴェロフは5,000 mにまで接近し、トルコ艦隊に何度も命中弾を出した。砲撃を受けたバルバロス・ヘイレッディンとトゥルグド・ルイスは激しく炎上したが、さすがに前弩級戦艦であり、ダーダネルス要塞の射程まで逃げ込んで難を逃れた。しかし、バルバロス・ヘイレッディンは2番主砲塔が使用不能となり、同じくトゥルグート・レイスも砲塔1基が破壊された。装甲艦アサル・テヴフィクは大破した。 今回もオスマン帝国艦隊は大小砲弾合わせて800発を放ったが、人的被害はギリシャ艦隊全体で1名が運悪く重傷を負っただけであった。旗艦アヴェロフに命中した砲弾は戦闘能力を奪う損傷は与えていなかった。一方でオスマン帝国艦隊は戦艦2隻が中破、装甲艦1隻大破で、人的被害は31名戦死、負傷者は82名を数えた。今回もギリシャ艦隊の大勝利に終わり、この海戦は「レムノスの海戦(en:Naval Battle of Lemnos)」として戦史に残り、その名はギリシャがエリに引き続きアメリカより準弩級戦艦ミシシッピ級2隻(1908年竣工艦)を購入し、海防戦艦キルキス級戦艦2番艦レムノスとして名が残った。 バルカン戦争においてギリシャ艦隊の中核として戦闘のみならず、輸送作戦に従事した本艦は大きな損傷を受けることなく戦後を迎えた。ギリシャは更に強力な大型艦を求めてドイツ帝国に戦艦サラミス (Σαλαμίς) を、フランスにプロヴァンス級戦艦の輸出仕様(ヴァシレフス・コンスタンチノス)を注文した。またブラジル海軍向けにイギリスで建造されていた12インチ連装砲塔七基を持つ弩級戦艦リオデジャネイロを買収しようとしたが失敗し、オスマン帝国に先を越されてしまった(後日、イギリス海軍が接収してエジンコートとなる)。ギリシャはアメリカ合衆国の前弩級戦艦ミシシッピ級2隻を購入し、キルキス級戦艦2隻(キルキス、レムノス)と改名した。ドイツとフランスに注文した新型戦艦は未完成に終わったので、ギリシャにとってイェロギオフ・アヴェロフは3番目の大型艦であった。
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