竣工から第一次世界大戦にかけて
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 05:06 UTC 版)
「クイーン・エリザベス (戦艦)」の記事における「竣工から第一次世界大戦にかけて」の解説
クイーン・エリザベスは1912年(大正元年)10月21日に起工し、1913年(大正2年)10月16日にポーツマスで進水した。その後、第一次世界大戦中の1915年(大正4年)1月に就役した。 地中海での試験中にクイーン・エリザベスは、オスマン帝国攻撃のためダーダネルス海峡に派遣された。同海峡に派遣された部隊には多くの巡洋戦艦および前弩級戦艦が含まれていたが、クイーン・エリザベスは唯一の近代戦艦であった。ダーダネルス海峡での海戦でクイーン・エリザベスは旗艦任務に当たり、1915年3月18日の戦闘ではイギリス軍戦艦の第一線を率いた。4月25日のガリポリの戦いでは地中海派遣軍指揮官サー・イアン・ハミルトン陸軍大将の旗艦であった。5月12日に戦艦ゴライアス (HMS Goliath) がトルコ軍の水雷艇により撃沈されると、クイーン・エリザベスはより本国方面へと後退した。クイーン・エリザベスはこの派遣の間に86発の15インチ砲弾を放ったものの、主砲弾数の制限のために有効打とはならなかった。 その後クイーン・エリザベスはヒュー・エヴァン=トーマス提督の率いる第5戦艦戦隊(英語版)に加わるが、ユトランド沖海戦時にはドック入りしていたため戦闘に参加することはなかった。1918年(大正7年)11月、ドイツ帝国海軍 (Kaiserliche Marine) の大洋艦隊 (Hochseeflotte) がスカパ・フローで抑留されることになったとき、クイーン・エリザベスは大艦隊司令長官デイヴィッド・ビーティー卿の旗艦であった。11月15日、大洋艦隊司令長官フランツ・フォン・ヒッパー提督の代理としてフーゴー・モイラ―(英語版、ドイツ語版)少将がクイーン・エリザベスに乗艦する。ビーティ提督は本艦の長官専用食堂でドイツ側の使者を迎え入れ、そこにはネルソン卿の全身肖像画と、ユトランド沖海戦時にビーティー提督が将旗を掲げていた巡洋戦艦ライオン (HMS Lion) より贈呈された真鍮製ライオン像も飾られていた。 翌16日に降伏文書が結ばれた時も、ビーティー提督の "うっかりミス" によりフィッシャー提督とジェリコー提督とジョージ5世(イギリス国王)が招待されなかったり欠席する中で11月21日にドイツ艦隊がスカパー・フローに到着して抑留されたときも、クイーン・エリザベスはビーティー提督および大艦隊 (Grand Fleet) 旗艦であった。同日11時34分、クイーン・エリザベスは連合国軍およびドイツ全艦艇にむけて「本木曜日午後3時57分(日没時)をもって、ドイツ国旗を引き下ろすべし。なお今後許可なくこれを再掲揚してはならない」と信号する。この命令は休戦協定に違反していたが、ビーティー提督の個人的欲望により実施された。ビーティー提督がドイツ艦隊に与えた屈辱は、短期的にはドイツ艦隊自沈として結実し、長期的にはナチス・ドイツの躍進と再軍備に繋がってゆく。
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