研究及び社会活動
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アジア経済研究所に在職時代の1972年から80年まで哲学者の市井三郎と共同で山梨県大月市朝日小沢で畑を開墾し農耕に従事する。 その後、1982年から87年まで市井三郎、山口一郎(元孫文記念館館長)、渡辺一衛、山本恒人、田辺義明らと「文化大革命研究会」を組織。そのかたわら1980年から竹中労、太田竜らと「現代史研究会」を組織、同じ頃、小阪修平、笠井潔らと「マルクス葬送派」を形成していた晩年の戸田徹と親交を持つ。 1985年に「現代史研究会」を解散し、竹中労、玉城素、玉川信明らと新たに「風の会-講座にっぽん百年」を組織したが、1991年に竹中の死去とともに解散となった。 この間、鶴見和子、市井三郎を中心に1976年から83年まで組織された「不知火海総合学術調査団」の中で、82年市井が胎児性水俣病患者について「人間(人為)的淘汰」という新概念を提起したため、研究会内部に激しい論議を呼び「市井三郎・最首悟論争」が起きて、市井が批判の矢面に立たされた。苦境に置かれた市井三郎は病いがちとなり十分な対応が出来なかった。その際、鶴見和子、鶴見俊輔姉弟が研究会外部の加々美に公私で市井を精神的に擁護するよう依頼。89年6月、市井は故人となったが、以来、加々美は鶴見姉弟と親交を結ぶこととなった。 同じ1989年以後、90年代半ばまで国際問題研究協会の運営に武者小路公秀(会長)、進藤栄一(理事長)、板垣雄三、吉田勝次(事務局長)らと携わる。1989年に前後して中国社会科学院の劉再復、張琢、張萍、李澤厚、丁守和らと懇意になり、1989年5月天安門事件の際中、北京開催の「新文化運動70周年記念シンポジウム」に主要討論者、パネラーとして参加した。 1990年、田畑書店社長の石川次郎の斡旋によって晩年の新島淳良と親交を結ぶ。新島との間では中国文化大革命の評価について違いがあって、一時学問的に対立していた。 1991年に愛知大学(愛大)に移籍後は1992年に国際問題研究協会会長代理として吉田勝次事務局長と北朝鮮平壌を訪問、のちに1997年に脱北する朝鮮労働党書記の黄長燁と会見した。 1995年以後、愛大における日本初の中国研究専門学部である現代中国(現中)学部の創設に石井吉也(学長)、江口圭一(法学部長)らと尽力、その初代学部長となった。その際、中国天津市の南開大学に日本初の日中共同教学宿泊施設として「南開愛大会館」を設立した。1999年6月に腎透析導入により愛大現中学部長を中途辞職。 さらに2002年6月には武田信照(学長)の強い要請を受けて第1期文科省COEプログラムに国際中国学研究センター(ICCS)創設の申請を引き受け、10月同認可を受けてその初代所長となる。山本一巳、高橋五郎らと協働して、中国とだけでなく欧米・アジアの国際学術交流の場としてICCSを発展させることに貢献した。とくに中国学の方法論に関して溝口雄三、金観涛、劉青峰らと5年間に及ぶ共同研究を展開したが、その視点は常に等身大の「イノチ」に置いたうえで、国家と民族の境界を超えて問題を抉り出して解決を模索する方法論(共同行動論)を提起した。 1992年から95年まで朝日新聞書評委員を務める。1997年から98年まで朝日新聞名古屋版のコラム風に聴くを執筆担当、2000年1月から6月まで中日新聞及び東京新聞のコラム紙つぶて 放射線を執筆担当した。1988年から2010年まで日本現代中国学会理事を務め、2016年より日本貿易振興会アジア経済研究所名誉研究員となった。 2022年4月22日、腹膜炎のため死去。78歳没。
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