独立とワーナーブラザースとは? わかりやすく解説

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独立とワーナー・ブラザース

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 17:53 UTC 版)

アルフレッド・ヒッチコック」の記事における「独立とワーナー・ブラザース」の解説

ヒッチコックは、バーンスタイン新しく設立した独立系映画製作会社トランスアトランティック・ピクチャーズ(英語版)で監督プロデューサーとして映画作り始め自分作りたいものが自由に作れようになった。その第1作ヒッチコック最初カラー映画となる『ロープ』である。この作品実際に起きたレオポルドとローブによる殺人事件を基にしたパトリック・ハミルトン英語版)の戯曲の映画化で、知的なスリルから友人殺害した2人青年ジョン・ドールファーリー・グレンジャー)を主人公にしている。原作戯曲舞台の幕が上がってから降りるまでの実際の上時間即してドラマ進行させたが、ヒッチコックこれを映画見せるため、「テン・ミニッツ・テイク」という実験的な撮影手法試みたこの手法はカメラマガジンに入るフィルム1巻分(1000フィート=約10分)ごとにワンショット撮影しショット切れ目俳優小道具クローズアップカモフラージュすることで、1本の映画まるごとワンショットのように見せた。しかし、ヒッチコックこの手法が「映画カット割りモンタージュが重要」だという自身方法論否定していたため、「無意味な狂ったアイデアだった」と述べている。作品1948年公開されるさまざまな批評集めたが、興行的に成功しなかった。 1948年ヒッチコックイギリスでトランスアトランティック・ピクチャーズの監督2作目として、バーグマン主演コスチューム・プレイ山羊座のもとに』(1949年9月公開)を撮影したが、この作品興行的に批評的にも失敗しその後トランスアトランティック・ピクチャーズは活動停止したこの頃ヒッチコックタレント・エージェント業を行うMCA顧客のひとりとなった1949年1月にはトランスアトランティック・ピクチャーズの2本を配給したワーナー・ブラザースと、自らがプロデューサーとして題材配役など自由に選べるという条件で、6年半の間に4本の映画を約100万ドル報酬作るという契約結んだ。その第1作である『舞台恐怖症』はジェーン・ワイマンマレーネ・ディートリッヒ主演し同年半ばイギリススタジオで撮影した。翌1950年2月作品公開されたが、批評家の評価芳しくなかった1949年後半から1950年初めにかけて、ヒッチコック自由に題材選べたにもかかわらず創造力思うよう発揮できずにいた。それでもヒッチコック大きな富と国際的名声築き石油油井所有さらにはサンタクルーズ所有する土地ワイン用のブドウ栽培して利益得た1950年春にパトリシア・ハイスミス小説見知らぬ乗客英語版)』を読んで感銘を受け、自分エージェント映画化権交渉指示したヒッチコック脚本を書くためにダシール・ハメット近付いた実現はせず、次にレイモンド・チャンドラー雇った意見合わず9月チャンドラー仕事から降ろしベン・ヘクト助手のチェンチ・オーモンド(英語版)と新しく脚本書き直した。『見知らぬ乗客』は列車の中で見知らぬ男ロバート・ウォーカー)から交換殺人持ちかけられテニス選手グレンジャー)が主人公スリラー映画である。撮影同年クリスマスまでに終わり1951年6月末に公開される成功収めマスコミヒッチコックのことを「サスペンス・スリラーの巨匠」と呼んだ。 この作品完成後、ヒッチコックは再び興味そそられる企画を見つけることができず、新し作品作れないのではないか不安に駆られたが、1952年2月に妻の提案でポール・アンセルム(英語版)の戯曲『わが二つ良心フランス語版)』が原作の『私は告白する』の脚本取り組んだ。この作品ローマ・カトリック司祭モンゴメリー・クリフト)がゆるしの秘跡守秘義務により、殺人告白した男のことを口外することができず、自身殺人者疑われるという物語である。撮影8月から10月の間に行われたが、ヒッチコック主演クリフト過度な飲酒メソッド演技が気に入らず2人協力関係はあまり上手くいかなかった。この作品ユーモア要素欠いたヒッチコック数少ないサスペンス映画の1本だったが、後年ヒッチコックはそれを間違い見なした。1953年2月公開されると、『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン』紙の批評家に「本来なら切れ味の鋭いナイフのようなヒッチコック演出重苦しく釈然としない状況鈍ってしまっている」と評された。 ヒッチコックワーナー・ブラザースとの契約最後作品として、デイヴィッド・ダンカン(英語版)の小説『ブランブル・ブッシュ』の映画化企画したが、まもなくそれを諦め1952年ロンドンニューヨークで上演され大ヒットしたフレデリック・ノット(英語版原作の舞台劇『ダイヤルMを廻せ!』の映画化取りかかった物語は若い妻(グレース・ケリー)の殺人企て別の人に殺させようとする元テニス選手レイ・ミランド)が主人公で、妻が自己防衛から襲撃者殺してしまうことで事態複雑になる撮影1953年7月から9月の間に行われヒッチコックは「35日間撮り上げた」と述べている。ワーナー・ブラザースはこの作品当時流行した3D映画として作らせたが、1954年公開され時には3D映画流行はすたれ、ほとんどの劇場では通常の形で上映された。

※この「独立とワーナー・ブラザース」の解説は、「アルフレッド・ヒッチコック」の解説の一部です。
「独立とワーナー・ブラザース」を含む「アルフレッド・ヒッチコック」の記事については、「アルフレッド・ヒッチコック」の概要を参照ください。

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