溶岩凝固作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/23 14:22 UTC 版)
溶岩流が港の入り口を閉め切る可能性は、ヘイマエイの住人にとって、その当時、街が直面していた最大にして重要な脅威であった。それに備えての対策案が一つ考え出された。どのような案かというと、溶岩が今ある港の出入り口を閉鎖するにまかせ、島の北岸にある低い砂嘴を切り通して新水路を開削し、そこを港への入り口にしようというものだった。しかしながら、それは、もし溶岩流の速度が落ちれば、そのような手間暇をかける必要が無くなるかもしれなかった。過去に2回、ハワイとエトナで試しに溶岩流に散水されたことがあった。それらは幾分小さな規模でのことであり、結果も限定的な成功にとどまったものであった。しかしながら、ソービョルン・シーグルゲイルズソン(Thorbjörn Sigurgeirsson)は、前進する溶岩流フロントができ次第すぐに凝固させることで、溶岩のさらなる前進を邪魔する事が出来るということを証明する実験を成功させたのだった。 冬の冷たい海水をポンプでくみ上げ、溶岩流の最前線に散水することで溶岩の進みを遅らせようという最初の試みは2月6日に始まった。また、撒く水の量も毎秒100リットル(26 US液量ガロン毎秒)と、かなり少ないものだったが、流れこむ速度は目に見えて減った。溶岩の水冷は遅かったが、冷却作業に使ったほぼ全量の水をスチーム(en)に変換しつつ、最大の能率を実現した。一度でも溶岩冷却作戦が成功するかもしれないという事が実証されると、溶岩流を停めようという努力は増進された。 3月初めごろ、ポンプの揚水容量は増やされた。その時、火口壁を構成していた巨大なひとかたまりの岩塊が、エルトフェットルの山頂から崩れおち、溶岩流の頂部にのせて運ばれ始めた。「フラッカリン」("Flakkarinn" The Wanderer―「風来坊」の意)と名づけられた、その流された岩塊は、もし、港まで運ばれてしまったら、港が生きるか死ぬかを左右する深刻な脅威となったことだろう。そこで、3月1日に浚渫船「サンデイ号」(Sandey)が徴用された。溶岩がこれ以上前進するのを食い止めるためである。Þorbjörn Sigurgeirssonは、ポンプ船のクルーに、一番効率よく溶岩流の流速を遅くするために、彼らの努力をどこに向けたらいいかという助言を提供した。結局のところ、フラッカリン丘は2つに分裂し、港口から100メートル(330 ft)手前の地点で両方とも停止した。 後続する溶岩冷却作戦は、今までに試みられていないことを盛り込んでおり、前例がなく一番野心的だった。サンデイ号は400リットル毎秒(105 USガロン毎秒)もの水を汲み上げ、前進してくる溶岩流に散水することが可能であった。今回はそれに負うことが大きかった。そして、パイプのネットワークが先に冷え固まった溶岩の上に敷設された。海水を域内に出来る限り広範囲に分配するためである。最初に木製のパイプ支持具が使われたが、これは溶岩がまだ赤熱するほどのところでは溶岩の輻射熱を受けて燃え上がってしまった。アルミ製の支持具さえも熱で溶けてしまった。しかし、パイプ自身は、その中を冷たい海水が通ることで溶岩の上であっても融けだすようなことは無かった。12000平方メートル(3エーカー)以下の溶岩流がこの一回で凝固された。溶岩流の中に、ひとりでに厚みを増し、自己増殖的に堆積する障害物が出来上がったのである。 活発な溶岩流の上でパイプを設置する作業は非常に危険だった。スチームの放出が激しいため、その湯気で視界が非常に悪かったせいでもある。溶岩流の頂上に、テフラをブルドーザーで一掃してできた簡便な通路が造られた。しかし、これらの通り道はすぐにとてもでこぼこになり、1日に軽く数メートルは移動していることがよくあるという代物だった。パイプ設置作業員は、もうもうと上がる湯気で見通しが悪い中、溶岩流の上で更なるパイプを通すために、トランシーバーを通話と誘導に使用し、ブルドーザーを整地に利用した。作業に当たった者たちは、自らを「決死隊」'The Suicide Squad'と呼び、パイプを130 metres (430 ft)も引いて溶岩流が広がろうとする最前線で、溶岩トンネルの天井にあいた穴を覗くと流れるのが見えるその上に、何とかして直にパイプを設置しようと四苦八苦した。数人が軽い火傷を負ったが、重傷を負った者は一人もいなかった。 3月の終わりまでに、街の5分の1が溶岩流に覆われ、更なるポンプの容量が必要となっていた。アメリカ合衆国から、各1,000リットル毎秒(265 USガロン毎秒)の吐出容量がある32台のポンプを購入した。街に迫る溶岩流を、これらのポンプが冷やし始めると、その流れは劇的に遅くなり、間をおかずに動きを停めた。稼働開始して数週間もたたないうちに、ポンプ・シャフトの故障が問題化した。おそらく、これらのポンプは水よりも石油を汲み上げるために設計されていたためと思われる。新しく、改善されたシャフトをレイキャビクで生産・調達しなければならなかった。 溶岩冷却作戦における特記すべき事象が一つあった。それは、海水を溶岩の上に散布したところに、大量の海塩がこびりついたことだった。溶岩流の上を広い範囲にわたって、莫大な量の白い沈殿物が覆った。全体で220,000トン(240,000 ショートトン)もの塩を析出させたと推定されている。 シーグルゲイルズソン氏はこれらの対抗措置をこのように評価した。「疑う余地のないほどに、間違いなく、今までに発生した火山噴火で、一番広範囲に溶岩の水冷が使われている。」また、このようにも言っている。「もし、冷やされなかったら、(港に進出した)溶岩流の舌は、…実際に掛かっていたよりも一か月長い期間を費やして…その動くほうへと更に延びていただろう…。結局、溶岩流は港への入り口をブロックするために100メートル延びただけで失敗に終わったのさ。」 この時、作戦に掛かった諸費用は、アメリカドルにして総計1,447,742米ドルであった。 噴火が始まった時、噴火の一報は世界中に知れ渡った。そして、間断なく、アイスランドのマスメディアから、噴火開始から終息までの一部始終を報道された。ヨーロッパにおいては、噴火が継続している間は、噴火の報せが重大な報道記事のひとつであり続けた。新聞紙の第一面の紙面を、パリで開かれた和平交渉において当時泥沼化していたベトナム戦争の突破口ができたという重大ニュース記事と取り合うほどの重要度を持っていた。2010年代の現在において、我々がエイヤフィヤトラヨークトルにおける2010年噴火を非常な注意をもって見ていたのと同様である。島民による溶岩流による港湾閉鎖を食い止めようという努力は、ナショナル・ジオグラフィックのような雑誌の取材を受けるなどの特別な注意を受けた。噴火の結果、世界中の人々がヘイマエイに向けた関心は、噴火が終わって暫くしてから観光客が急増するという事態を招いた。
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