溶岩地帯への立てこもり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/17 22:52 UTC 版)
「モードック戦争」の記事における「溶岩地帯への立てこもり」の解説
ロスト川の戦いから数ヶ月前、キャプテン・ジャック酋長は、戦争が起こった場合には、彼とその仲間はチュール湖南岸にある溶岩層のある地域でうまく自分達を守ることができるだろうとみていた。ロスト川の戦いの後にモードック族が撤退したのがその長さ19㎞、幅16㎞ほどの、1500年の歴史のある溶岩地帯だった。女・子供合わせた165人のモードック族のバンドが、ここに立てこもり、抵抗戦を始めたのである。 この地域は間もなく有名になり、今日では「キャプテン・ジャックの砦」と呼ばれている。モードック族は自分達を守る為の場所を選ぶときに、溶岩の尾根、割れ目、窪み、洞穴など防衛の観点から理想的な、この自然の地形を利用した。モードック族がこの砦に入った当時、チュール湖が砦の北にあって、飲料水の水源として機能していた。 12月3日、ジャンプオフ・ジョーとその民兵隊が砦の周縁部に到着し、乾いたクリークの川床辺りを偵察しているときに待ち伏せにあった。彼らは川床を掩蔽物にしようとしたが、直ぐに圧倒され、23名全員が戦死した。 12月21日、砦から偵察に出たモードック族の1隊がランド牧場で弾薬輜重隊を攻撃した。1873年1月15日までに米軍はラバベッズ近くの戦場に400名の部隊を揃えた。最も多く部隊を集結させたのは砦の西12マイル (20 km) のヴァン・ブローマー農場だった。他にも砦の東10マイル (16 km) のラニ牧場に部隊を置いた。フランク・ホイートン大佐が正規軍とカリフォルニア州とオレゴン州からの志願兵を合わせ、全部隊を指揮した。.1月16日、R・F・バーナード大佐の指揮するランド牧場を出た部隊が、ホスピタルロック近くでモードック族と小競り合いを演じた。
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