ロスト川の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/17 22:52 UTC 版)
11月27日、オーデニール監督官は平和的な解決には悲観して、クラマス砦の指揮官ジョン・グリーン少佐に十分な部隊を連れてきて、「出来ることなら穏便に、無理なら力づくで」、キャプテン・ジャックたちを保留地に強制移住させることを要請した。11月28日、ジェイムズ・ジャクソン大尉が40名の部隊を指揮してクラマス砦を出発し、ロスト川沿いキャプテン・ジャックたちの宿営地に向かった。この部隊はリンクビル(現在のオレゴン州クラマスフォールズ)の市民とジャンプオフ・ジョーが指揮する民兵隊で補強され、11月29日にエミグラント・クロッシング(現在のオレゴン州ストーンブリッジ)より約1マイル (1.6 km) 上流、ロスト川のモードック族の宿営地に到着した。 キャプテン・ジャック酋長は紛争を避けることを願い、保留地に入ることに合意したが、ジャクソン大尉が武装解除を要求したときに事態は緊張した。キャプテン・ジャックは最終的に武装解除に同意した。 モードック族の残りもキャプテン・ジャックと行動を共にする中で、モードック族戦士スカーフェイス・チャーリーと第1騎兵隊B中隊のフレーザー・A・ブーテル中尉が口喧嘩となり、互いの拳銃を抜いて撃ち合ったが、どちらも当たらなかった。モードック族はすぐ前に投げ捨てたばかりの武器を争って取り戻し、短時間撃ち合いになったあと、カリフォルニア州境に向かって逃げ出した。ジャクソン大尉はモードック族を宿営地から追い出した後で、部隊には後退して援軍を待つように命じた。しかし、ジャンプオフ・ジョーとその部隊はモードック族に対する攻撃を続行することに決めた。この短い戦闘における損失としては、米軍兵士1人が戦死し、7人が負傷、モードック族は2人が戦死、3人が負傷した。 ロスト川の戦場からテュール湖南のラバベッズに撤退しながら、フッカー・ジムが指揮するモードック族の一団は11月29日午後と30日朝に18人の白人入植者を殺した。ジャンプオフ・ジョーとその民兵隊はこの攻撃の痕跡を見出したときに、モードック族本体をラバベッズ方向に追撃することに決めた。 この最初の衝突に関する証言は様々である。ある証言では、米軍兵士や民兵はクラマスフォールズで酒を飲んできており、ロスト川の宿営地に着いたときは好戦的な精神状態となって隊列も乱れ、戦いに入ったという。最後に到着して最初に撤退した民兵隊は損失が1人だけだった。米軍はモードック族を追い出したのではなく、戦士達数人がその陣地を確保している間に、女性と子供がその船を出して南にこぎ出した。スカーフェイス・チャーリーは英語が堪能であり、夜通し賭け事をしていたために睡眠不足で気が立っており、おそらく彼自身も酔っていた。偽りの殺人容疑で逮捕令状があったので、そんなに穏やかに行ける状態ではなかった。このときの公式記録は、ジャクソン大尉が後に認めたように、米軍側の不手際を取り繕ったものだった。
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