歴史・起源
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/01 03:40 UTC 版)
現代のブリソン諸語は、「ブリトン語(British)」「共通ブリソン語(Common Brythonic)」「古ブリソン語(Old Brythonic)」「ブリソン祖語(Proto-Brythonic)」と呼ばれる祖語を起源に持つと通常は考えられている。これはケルト祖語、もしくは初期の島嶼ケルト語が紀元前6世紀までに発展してきたものと考えられている。 代替仮説は数多くあるが、広く受け入れられているものはない。マリオ・アリネイ(en:Mario Alinei)はケルト語の前身となる言語の存在を否定し、ケルト語は旧石器時代に成立したと語っている[要出典]。シュテフェン・オッペンハイマー(en:Stephen Oppenheimer)は紀元前1世紀のベルガエ族の侵略によってゲルマン語派がブリテンにもたらされた可能性を指摘している。テオ・ベンネマン(en:Theo Vennemann)は、島嶼ケルト語の基礎になる基層言語をセム語系だとしている。 ローマ人の侵略以前、少なくともフォース川・クライド川以南の人々の多数はブリソン諸語を話していたとされる。だがマン島は後にゲール語系のマン島語を話すようになった。北スコットランドでは主にピクト語の前身となるプリテン語が話されており、ピクト語はブリソン諸語ではないかと考えられている。R・F・オライリーなどの一歩進めた学説では、アイルランドにはブリソン語話者が住んでいたのが、Qケルト語話者(おそらく南フランスのQuarietii族)に取って代わられたとしているが、マイルス・ディロン(Myles Dillon)とノーラ・チャドウィック(Nora Chadwick)はこれを否定している。 グレートブリテン島南部のローマ支配時代(43年から410年ごろ)、共通ブリソン語はラテン語から多くの語を借用した。これは、例えば都市計画や戦術に関する言葉など、都市化されていないケルト系グレートブリテン社会において不慣れな概念と、現地の言葉に置き換わった日常語の両方があった。日常語の顕著な例では、ブリソン諸語で魚を意味する言葉は現地語の「*ēskos」ではなく、すべてラテン語の「piscis」が起源である。とはいえ、「*ēskos」の語はウェールズ語でウスク川を指すWysgとして残っているとも考えられている。推定800語のラテン借用語は、現存する3つのブリソン諸語にいぜん生き残っている。ローマ人の著述家に使用された、ラテン語化されたブリソン語はローマ・ブリトン語と呼ばれる。 ローマ支配時代が終わると、共通ブリソン語は、南西と西の2つの主要な方言グループに分化したと考えられる(さらに東ブリソン語など、他の方言も仮定できる。これは現在で言う東イングランドで話されていたと考えられるが、証拠はほとんど残っていない)。ローマ支配時代の終わりから6世紀中盤までに、この二つの方言は別々の言語になりはじめた。西の方言はカンブリア語・ウェールズ語に、南西の方言はコーンウォール語になり、またグレートブリテン島南西から大陸のアルモリカ(ブルターニュ半島の古名)に渡り、近縁の姉妹語としてブルトン語になった。ケネス・H・ジャクソンは、西と南西、それぞれのブリソン語方言の違いのいくつかは、古くまでさかのぼることを指摘している。また500年ごろに新たな分化が始まったが、6世紀には共通する変化も起こっている。7世紀から、おそらくは言語の内在的な傾向のため、別の基本的な変化が起こった。こうして共通ブリソン語は600年までに消滅した。広がるアングロサクソンの支配領域にはかなりの人口のブリトン人が残っていたと考えられているが、ブリトン人の言語の情報は地名にしか残っておらず、時代を下るに従って英語に適応していったものと思われる。 スコットランドやマン島で話されていたブリソン諸語は、アイルランド人(対スコットランド)や北方民族・ゲルマン人の侵略者の影響により、5世紀頃から排除されはじめた。ブリソン起源の言語は、スコットランドやマン島では(コーンウォールと、ウェールズに接するイングランドの州を除いて)11世紀までに(様々な地域での絶滅の時期については議論の余地がある)完全に置き換えられた。アイルランドで話されていた可能性のあるブリソン語は"Ivernic"と呼ばれる。
※この「歴史・起源」の解説は、「ブリソン諸語」の解説の一部です。
「歴史・起源」を含む「ブリソン諸語」の記事については、「ブリソン諸語」の概要を参照ください。
歴史・起源
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 03:34 UTC 版)
八ツ橋の起源は不明な部分が多いが、主に以下の2つの説が挙げられる。 箏曲の開祖と称えられる八橋検校を偲び、箏の形を模した干菓子を「八ツ橋」と名付けたとする説 歌人として名高い在原業平を偲び、『伊勢物語』第九段「かきつばた」の舞台である「三河国八橋」にかけ、八枚橋の板の形を模した菓子を作ったとする説 京都の八ツ橋製造業者の団体京都八ツ橋商工業協同組合に加盟する14社のうち、「八橋検校」の説を支持するのが聖護院八ツ橋総本店・井筒八ッ橋本舗など6社、「伊勢物語」の説を支持するのが本家西尾八ッ橋・本家八ッ橋の2社である。上記のいずれの説でも元禄年間に原型が作られ、現在に近い形になったのは享保年間としている点は共通している。 元々の発売時期も判然としないが、1879年(明治10年)に京都に鉄道が通ると西尾松太郎が京都駅で土産物として販売を開始し、1915年(大正4年)の大正天皇即位の祝賀行事で京都を訪れた人々が買い求めたことで全国的に有名になったとされる。その間に西尾松太郎から事業を引き継いだ息子の西尾為治が、1900年(明治33年)のパリ万国博覧会に八ツ橋を出品して銀賞を受賞している。この頃の出版物には1926年(大正15年)に京都府内務部が発行した京都名物紹介本『京の華』があり、その中で八ツ橋の起源について「西尾為治の祖先が三河の僧侶から製法を教わって、1689年(元禄2年)に聖護院の森で販売を始めた」との記述があるが、それ以上の詳しいことは書かれておらず真偽についても不明である。 1960年代には「生八ツ橋」が考案され、次いで美十が生八ツ橋で餡を包む商品を考案したとされる。
※この「歴史・起源」の解説は、「八ツ橋」の解説の一部です。
「歴史・起源」を含む「八ツ橋」の記事については、「八ツ橋」の概要を参照ください。
- 歴史・起源のページへのリンク