歴史と記憶の中で
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/08 23:46 UTC 版)
ヨーロッパでの戦争が終わると、ハーンは9人の名だたる科学者とともにイギリスのファーム・ホール(英語版)に抑留された。マックス・フォン・ラウエを除く全員がドイツの原子爆弾開発に関わっており、ハーンとパウル・ハルテック(英語版)を除く全員が物理学者だった。彼らはそこで広島と長崎への原爆投下を知った。フォン・ヴァイツゼッカーら、アメリカ人に何年も遅れを取っていたことを認められない科学者たちは、会話が盗聴されていることに気づかないまま、そもそも核兵器開発の成功は良心が許さなかったという話を作り上げた。ファーム・ホールの科学者たちはそれから一生を費やして、ナチス時代に毀損されたドイツ科学のイメージを払拭しようと試みることになる。自分たちの実験のためザクセンハウゼン強制収容所で多数の女性奴隷労働者にウラン鉱石を採掘させたというような不都合な小事は見えないところに追いやられた。 ハーンは1945年にファーム・ホールでノーベル賞受賞の知らせを受けた。ハーンにとっての正当化は、核分裂発見の栄誉を彼自身、化学、そしてドイツに帰すことだった。ノーベル賞の受賞講演はこの物語を訴えるために用いられ、マイトナーは「長年にわたる助手」と呼ばれた。授賞式に出席したマイトナーは、自分がハーンにとって「抑圧すべき過去」になったと感じた。ハーンのメッセージはドイツ国内では強い共感を受け、ナチス体制に断固として抵抗しながら祖国にとどまって純粋科学を追求した典型的「良いドイツ人(英語版)」として尊敬を集めた。ハーンは1946年から1960年までマックス・プランク協会の会長を務め、ドイツ科学が卓越性を失わずナチズムにも汚されなかったというイメージを、それと信じたがっている人々に与えた。第二次世界大戦後のハーンは原子エネルギーの軍事利用に強く反対する立場を取った。ローレンス・バダッシュは次のように書いている。「戦時中に科学の軍事応用を容認していたことと、戦後に自国の科学活動の舵取りを行う立場になったことが、ハーンを社会的責任の代弁者へと押しやっていった」 対照的にマイトナーとフリッシュは、大戦の直後に英語圏の国々で核分裂の発見者として喝采を受けた。日本はドイツの傀儡国家と見なされており、広島と長崎の原爆被害はユダヤ人迫害への応報とされた。1946年1月にマイトナーは米国へ旅行し、いくつも講義を行って名誉学位を授与された。マンハッタン計画の責任者であるレズリー・グローヴス中将(1962年の回想録では核分裂の発見をマイトナー単独の功績だとした)のカクテルパーティーに出席し、ウィメンズ・ナショナル・プレス・クラブ(英語版)によってウーマン・オブ・ザ・イヤーに選出され、その授賞式では米国大統領ハリー・S・トルーマンと並んで座った。しかしマイトナーは人前で(特に英語で)スピーチすることを好まず、有名人の役割にもなじめず、ウェルズリー大学の客員教授の地位提供も断った。 1966年、米国原子力委員会は核分裂の発見を称えてハーン、シュトラスマン、マイトナーの3人にエンリコ・フェルミ賞を授与した。式典はウィーンのホーフブルク宮殿で行われた。非アメリカ人として、あるいは女性として初めての受賞であった。マイトナーの賞状には以下のような文言があった。「自然に発生する放射能の先駆的な研究と、核分裂の発見へとつながった広範な実験的研究に対して」ハーンの賞状はわずかに異なっていた。「自然に発生する放射能の先駆的な研究と、核分裂の発見を頂点とする広範な実験的研究に対して」ハーンとシュトラスマンは式典に出席したが、マイトナーは病気で出られなかったためフリッシュが代わって賞を受けた。 1978年にドイツで行われたアインシュタイン、ハーン、マイトナー、フォン・ラウエらの生誕100周年記念式典を境に、ハーンが単独で核分裂を発見したという物語は崩れ出した。ハーンとマイトナーは1968年に没したがシュトラスマンはまだ存命であり、核分裂の発見には自身の分析化学とマイトナーの物理学が重要だったことや、二人の役割が単なる助手以上のものだったことを主張したのである。シュトラスマンが没した翌年の1981年に詳細な伝記が出版され、10代後半向けに出版されたマイトナーの伝記が1986年に賞を受けた。科学者は化学偏重のノーベル賞選考に疑問を呈し、歴史家はナチス時代についての巷説に異議を唱えた。フェミニストはマイトナーを、女性が歴史のページから消去されるマチルダ効果の新しい例と見なした。1990年になるとマイトナーは物語の登場人物に復帰したが、その役割についてはその後も特にドイツで議論が続いた。ハーンとマイトナーのベルリン時代の同僚であり、ファーム・ホールでハーンとともに囚人生活をおくったフォン・ヴァイツゼッカーは核分裂の発見におけるハーンの役割をあくまで擁護した。1991年7月4日に行われたミュンヘンドイツ博物館の名誉の殿堂にマイトナーの胸像を収める式典で、フォン・ヴァイツゼッカーは集まった聴衆に対し、マイトナーも物理学も核分裂の発見に貢献しておらず「リーゼ・マイトナーではなくハーンの発見」だと語った。
※この「歴史と記憶の中で」の解説は、「核分裂の発見」の解説の一部です。
「歴史と記憶の中で」を含む「核分裂の発見」の記事については、「核分裂の発見」の概要を参照ください。
- 歴史と記憶の中でのページへのリンク