歴史と記念碑
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「ゲティスバーグの古戦場」の記事における「歴史と記念碑」の解説
戦闘の様子を細かに記録する最初の試みはニューハンプシャー州の歴史家ジョン・B・バチェルダーによって行われた。バチェルダーは多くの死体が埋葬される前に戦場に到着し、快復中の士官達とともに重要な出来事の場所を特定しスケッチした1863年から1864年に掛けての冬には、北軍の連隊と大隊全ての士官達にインタビューした。戦後直ぐに49人の将軍を含む数多くの士官達に呼びかけて共に戦場を再訪した。 ゲティスバーグで南軍の騎兵将軍で、サウスカロライナ州知事かつ当時はアメリカ合衆国上院議員だったウェイド・ハンプトンが、1880年にバチェルダーを雇用する政府予算5万ドルを認めさせる提唱者となった。これは戦場の公式調査を行い、戦闘の主要な段階での軍隊の配置を示す詳細地図を作ることが目的だった。これらの地図は十分に決定的なものとはならなかったが、戦場に記念碑を据える場所を推薦するときに重要となった。 バチェルダーの戦闘に関する長々しい原稿は当時出版されなかった。インタビューした古参兵からの矛盾する主張を解決するのを躊躇っていたので、批評家はその原稿が矛盾や冗長さで一杯であると主張した。ほぼ同じ頃に陸軍省から「公式記録」が出版されたので、バチェルダーの作品は公園局でしまっておかれた。1990年代、この保管文書に大きな編集の荒療治が行われ、やっと出版された。 1894年6月7日、アメリカ合衆国議会はダニエル・シックルズが提案した陸軍省にゲティスバーグの土地を接収し保存できるようにする権限を与える法を成立させた。あらゆる種類の商業開発が進行中であり、多くの退役兵組織が戦場における自隊の行動を保存し記念する自発的努力を行っていた。戦場に初めて置かれた記念碑は1867年に国立墓地に置かれた第1ミネソタ歩兵連隊に献げられた大理石製壺だった。この勇敢な連隊は7月2日にセメタリーリッジで事実上全滅していた。墓地の外に初めて建てられた記念碑は1878年8月1日、リトルラウンドトップのストロング・ビンセントが致命傷を負った場所に、共和国グランド・アーミーのペンシルベニア州エリー支部が大理石製銘板でその名前を記念したものだった。 戦闘から25周年が近付くと、退役兵の団体が記念碑を建てることに力を入れ、多くの州政府も同様に行動を始めた。1890年までに、ゲティスバーグは世界中のどこにもないような青銅や御影石彫像の屋外大コレクションになった。北軍側では、事実上全ての連隊、大隊、旅団、師団および軍団が記念碑を持ち、概してその部隊が最も貢献した戦場の場所に置かれた(古参兵達が自分で判断した)。大半の連隊は境界標も置いてその防御前線の位置あるいは襲撃の開始線を示した。その位置は必ずしも決定的なものではなく、時には古参兵の誤った記憶によった場合もあれば、顕著な例としてセメタリーリッジの場合は同じ地域で複数の日に行われた戦闘を代表する試みから生じた問題のためでもあった。 南軍は北軍のものに比較して戦場にはほとんど記念碑を置かなかった。これには幾つかの理由があった。1つの理由は、北軍が戦った場所であり、南軍が守った場所ではない土地の保存に当初の重点が置かれたことだった。2つめは、北軍兵の協会である共和国グランド・アーミーがそのような記念碑に強く抵抗したことだった。南軍には独自の拘りがあった。もし北軍が南軍を破った場所に記念碑を置けば、それは北軍の勝利を称えることになるのではないか?ゲティスバーグに南軍兵のための記念碑を置きたいと思った南部人はレコンストラクションや戦災のために適当な金がなく、北軍古参兵がやったように連隊毎に記念碑を建てることが出来なかった。その代わりに元南軍兵は州毎の記念碑を建てた。北軍兵が守った地域内に建てられた南軍の記念碑は2つしかない。1つは7月3日にルイス・アーミステッドが到達した最高点である「アングル」近くの銘板である。2つめはカルプスヒルに立てられた第2メリーランド連隊に献げられた記念碑であり、同じ連隊名が既に北軍にもあったために当初の第1メリーランド連隊から改名されたものだった。この数の少なさは一部、バチェルダーが記念碑は戦闘の前線に建てられるべきであり、前線を外れると小さな前進標識のみを認めるという厳密な要求をしたためだった。 両軍のために陸軍省は多くの案内様青銅製銘板を立て、部隊名、指揮者およびその功績を記した。戦場には現在1,600以上の記念碑と標識がある。記念碑の幾つかは著名な彫刻家や芸術家によって制作されており、例えば、キャスパー・ブバール、ジェイムズ・E・ケリー、リー・ローリー、ランドルフ・ロジャーズ、サイラス・ドーリン、エドワード・ポッター、ジョン・クィンシー・アダムズ・ウォードおよびガットスン・ボーグラムがいた。
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