柔拳興行(概要)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 16:24 UTC 版)
明治後期から第二次世界大戦後にかけて外国人ボクサーと柔道家による他流試合興行「柔拳試合」が流行し行われていた歴史がある。戦前の柔拳興行は嘉納治五郎の甥の嘉納健治によって隆盛し、戦後の柔拳興行は万年東一によって行われている。 詳細は「#柔拳興行」を参照
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柔拳興行
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明治末期から昭和30年代頃まで、時代のあだ花のように存在した「柔拳」という異種格闘競技があった。柔拳は柔道vs拳闘(ボクシング)を意味し、柔道家は道衣を着用した柔道スタイルで、ボクサーはグローブを着用したボクサー・スタイルで闘った。1853年のペリー来航以降、日本にボクシングが紹介されると、ボクシング技術を使う外国人水兵と日本人力士や武術家との他流試合がなされるようになった。それらの他流試合が明治後期から第二次世界大戦後にかけて流行した外国人ボクサー(そのほとんどが力自慢の水兵)と柔道家による他流試合興行「柔拳試合」を生み、また、ボクシング技術を学ぶ者を増やすことになる。 初めて「柔拳」の名称を使用したのは柔道の創始者嘉納治五郎の甥にあたる嘉納健治とされる。若くして講道館を飛び出した健治は横浜で、柔拳試合を見たのをきっかけに神戸の自宅に日本初のボクシングジム国際柔拳倶楽部(後に大日本拳闘会と改名)を設立した。健治が行った柔拳興行は大成功を治め、関西圏はもとより東京でも満員の観客を集めるほどの大きな人気を呼んだ。その後1931年(昭和7年)には、全日本プロフェッショナル拳闘協会(のちの日本プロボクシング協会)結成に参加。日本のボクシング界を発展させる礎を作った。 その後、戦後消滅したも同然であった柔拳が復活したのは、第2次大戦後のことであり、東京の万年東一が中村守恵、木島幸一らを使って旗揚げした「日本柔術連盟」がそれである。万年東一は柔拳興行の後、全日本女子プロレスを設立し活動内容を変えていくことになる。 嘉納健治の行った柔拳興行では、その活動時期から、前中後の3期に活動内容が分けられる。前期柔拳において健治はボクサーとの対戦を通じて、柔道を当身や武器にも対処しうる武術として蘇らせようとしていたとされる。健治は拳闘以外の武道・格闘技との対戦も企画し、柔道改造を推し進めていった。 それは叔父の嘉納治五郎と共通する思想からとされる。嘉納治五郎は、柔道において、心身の力を最も有効に使用して世を補益する「上段の柔道」を最終目的とし、体育と修心を目指す「中段の柔道」、攻撃防御の方法としての「下段の柔道」の3段階の構造を描いた上で、「下段の柔道」から柔道を始めるのが最も良いとした。治五郎は「攻防の技術」としてあらゆる攻撃に対応できる護身術・総合格闘技でなければならないと考えていた。そして治五郎はボクシング、唐手、合気柔術、棒術などの他の武道・格闘技の研究を通じて、その晩年に至るまで彼の理想とする「柔道」の完成を追求している。嘉納健治は「柔拳興行」という公開試合の場で、他武道・格闘技との異種格闘技という実践を通じて「攻防の技術」として柔道を追求していたのであり、その点で嘉納健治は叔父・嘉納治五郎と同じ問題意識を共有していたとされる。 しかし1921年に行われた米国レスラー、アド・サンテルと児島光太郎の門下生が行った柔道対レスリングの公開試合「アド・サンテル事件」により、それまで興行的異種格闘試合を黙認していた立場だった嘉納治五郎は公職の立場にある身から、「木戸銭」を取って行う「興行」活動への参加を禁止する方針転換がなされることになる。 「金を取って柔道の業を見せたり、勝負をして見せるのは、軽業師が木戸銭を取って芸を見せるのと何も択ぶ所はない。我も彼もさういふやうなことをするやうになつたならば、柔道の精神は全く消滅して仕舞ふことになるから、一般の修行者は、大に慎んで貰はねばならぬ。」 そして柔拳興行はスペクテーター・スポーツへの方向転換を余儀なくされ、次第にナショナリスティックなショーへと変貌しやがて終焉していくことになる。 昭和11年に発行された講道館六段・竹田浅次郎の技術書『對拳式実戦的柔道試合法』において、柔道家の対拳闘相手の対戦法が解説・紹介されている。 心構え、構え方、目の付け所や呼吸の仕方、両手の働き、足の動作、身体の動作、拳闘の分析、ボクシングのパンチの防御法、その捌き方と攻撃法、異種との戦いにおいて柔道家が注意すべき裸体の相手への組み付き方、腕・手首・首・体といった箇所への組み付き方、投げ技・絞技・関節技の応用、足関節技、種々の双手刈りの方法、のちに言うところの「片足・両足タックル」が有効であることなどが解説されている。 昭和16年に発行された講道館七段・星崎治名の技術書『新柔道』には、「拳闘に對する柔道家の心得」と題して、彼が提唱した当時の柔拳興行におけるボクサーとの対戦法が紹介されている。 まず柔道家自身が、最低でも数ヶ月は拳闘の訓練をする。柔道の当て身を使うことも勿論有効だが、観衆に好感を持たして奇麗に勝利を得る方法としてはボクシングの練習を第一条件とする。 フットワークの種々を研究、敵がどんなパンチを出すのかを足使いから読む練習。 両腕でしっかり顔面ガードしながらの自在な進退、相手のパンチにカウンターで蹴りを入れる練習。 敵のスキを見て一気に飛込む練習。全身のバネとタイミングが肝要。 飛込んだらすぐ投げ、逆・絞に繋げる練習。 拳闘家に対して当て身もつかい足も用い寝技立ち技の連繋を運行し勝ちを制する。 対拳闘は、常に平静に「後の先」を狙う気持ちが肝要。
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