東光丸事件とは? わかりやすく解説

東光丸事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/02 18:53 UTC 版)

東光丸 (貨物船)」の記事における「東光丸事件」の解説

本船1F型戦時標準貨物船の1隻として大阪府遠藤造船所にて建造され1943年昭和18年)に起工同年12月18日進水1944年昭和19年2月27日竣工した竣工後は中国運航貨物船となったが、竣工翌日2月28日中国運航近海運航合併し日本近海汽船となったことに伴い移籍以降戦没まで日本近海汽船所属していた。船舶運営会資料によれば陸軍徴用船となっており、船員28人に加えて船舶砲兵19人が乗り組んでいた。『横須賀防備戦隊戦時日誌によれば1945年4月頃、本船海防艦駆潜艇直接護衛受けて下田港八丈島頻繁に往復している。そして、本船最期となった航海において、八丈島からの疎開船としての任務与えられていた。 八丈島には1935年昭和10年時点9000人以上が居住し出征満蒙開拓移民などで徐々に人口減少しつつも相当数住民太平洋戦争中在島していた。1944年昭和19年7月サイパン島陥落すると、八丈島でもアメリカ軍の上陸懸念されるようになり、同年7月10日には八丈島守備隊である第2警備司令部司令官子安和夫大佐から疎開要領通達があったが、渡海経験少な高齢者らは疎開消極であった1945年に入ると八丈島にも空襲始まり、特に同年2月硫黄島の戦い起きて地上戦対す危機感が高まると、疎開促進のため行政指導強化された。3月村役場反対派住民集めて八丈支庁内政課長警察署長疎開勧告するなどの指導結果最終的に人口の約70%にあたる5853人以上が本州への疎開応じた1944年7月17日の第1便以降1945年4月16日の「東光丸」の航海より前に海軍艦艇含め少なくとも16便の疎開船無事に運航されている。なお、1945年4月2日横須賀鎮守府横須賀防備戦隊などに対して伊豆諸島現地陸海軍部隊官憲依頼に応じて指揮艦船疎開者を便乗させるよう命令している(横鎮電令作第78号)。 4月16日午前11時、八丈島神湊停泊中の「東光丸」に、疎開する島民60人余及び浅井大尉下陸傷病兵24人・衛生兵7人など、輸送人員113人が乗船した乗船者には、疎開指導終えた八丈支庁内政課長島内小学校長3人以下8人の教員含まれていた。同日正午過ぎ、護衛第4号海防艦先導されて「東光丸」は出航した。『八丈町誌』によれば出港直後空襲があったため、一度引き返して再出航した輸送人員は、敵航空機機銃掃射避けるため船倉中に入っていた。 「東光丸」は速力8ノット低速で、敵潜水艦雷撃難しくする之字運動ジグザグ運動)をしながら航行した第4号海防艦出航前の午前9時に打電した電文によると、2隻は当初予定八丈島列島線沿った針路御蔵島三宅島西方新島伊豆大島東方通過)を変更し横浜港直行針路選び4月17日午前8時に到着予定であった4月16日午後3時2分頃、八丈島西方40km・御蔵島北緯3331分 東経13936分 / 北緯33.517度 東経139.600度 / 33.517; 139.600の地点差し掛かったところで、「東光丸」は、アメリカ潜水艦シードッグ」による襲撃受けた日本側によると「東光丸」と700mほど先行する護衛第4号海防艦へ2発ずつの魚雷向かってきた。第4号海防艦襲撃直前に敵潜水艦しきものソナー探知しており、魚雷気づく25mm機銃迎撃試みつつ汽笛旗旒信号で「東光丸」に警告したが、「東光丸」は魚雷に気づかなかったのか回避運動を行わなかった。第4号海防艦魚雷回避できたが、「東光丸」は機関室左舷に2発の魚雷立て続け命中して転覆、約1時間後に沈没した魚雷命中時の水柱爆発音八丈富士山腹の監視所からも観測できたほどであった日本海軍第4号海防艦加えて、第42駆潜艇現場急派して対潜攻撃命じた第4号海防艦爆雷投下して、敵潜水艦1隻撃沈確実と認定されている。しかし、同日アメリカ潜水艦喪失記録はなく、「シードッグ」は健在であった第4号海防艦により救助活動が行われたが、収容され生存者上甲板にいて海上脱出できた船員軍人11人だけで、船長以下149人が死亡した八丈島守備隊である独立混成67旅団終戦後報告によると、民間人疎開者に生存者はなかった。犠牲者には一家7人が全滅した例も含まれている。3人の校長一度失ったことは、疎開先の長野県軽井沢町臨時学校準備中だった教員らにとって痛手であったが、在京であった大賀校長中心に八丈学寮開校実現されている。 本船沈没最後に八丈島本州の間の交流はほとんど絶たれた。『八丈町誌』は本船八丈島からの最後疎開船とするが、山田2012年)によると本船の後にも1便だ疎開船運航がある。なお、結果的に八丈島では終戦まで地上戦起きず民間人人的被害空襲による死傷者11人が発生するとどまった疎開者1476世帯・5853人が終戦翌年1946年帰島した。

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