明治以降の前田家
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廃藩置県後、旧加賀藩主前田本家には旧来の俸禄に代わって家禄6万3688石が支給され、賞典禄のうち3750石分と合わせて1876年(明治9年)の金禄公債の額は119万4077円に及び、この額は島津家(132万2845円)に次ぐ第2位の高額だった。 1884年(明治17年)7月7日に華族令により華族が五爵制になると加賀本家は侯爵、富山家は伯爵、大聖寺家と七日市家は子爵に叙せられた。また同年7月8日には加賀本家の分家前田利武が男爵に叙せられた。さらに1900年(明治33年)には加賀前田家の一門家臣だった旧土佐守家の前田直行と旧対馬守家の前田孝が父の維新の功により男爵に叙せられた。以上の7家が前田家から出た華族となった。 前田侯爵家は華族きっての大富豪だった。1898年(明治31年)時の高額所得者ランキングによれば前田侯爵家の年間所得は26万6442円で3位にランクインされており、旧大名華族の中ではトップだった。大正末から昭和初期、実業家たちの発展に押されて旧大名華族は相対的に没落し、金満家大番付から旧大名華族の名前が徐々に消えていく時世の中でも前田侯爵家は資産運用をうまくやって番付に名前を残し続けた。 前田侯爵家は本郷の東京帝国大学に隣接する土地に大邸宅を構えていた。その敷地は江戸時代には前田家の上屋敷が建っていた土地でその頃には10万坪あったが、維新後に約9万坪を東大に提供し、前田侯爵家は東大の赤門の隣の残り1万坪の土地を使用していた。同地に二階建ての日本館と三階建てで地下室もある西洋館を建てた。1906年(明治39年)のイギリス王族コノート公アーサーの来日の際にはコノート公を招いて盛大なパーティーを催した。1910年(明治43年)7月8日には前田侯爵邸に明治天皇の行幸があり、盛大な盛儀が行われた。 昭和に入ると本郷の土地1万2606坪を目黒区駒場の東大農学部の土地4万坪とそれに隣接する代々木演習林の敷地1万1543坪を等価で交換している。1929年(昭和4年)に前田利為侯爵は同地に英国風洋館を建設。現在は駒場公園になっており、国の重要文化財「旧前田家本邸」として保存されている。芝生やテニスコートなどの洋式庭園も備えていた。また日本館や茶室、煎茶亭もあった(戦時中に金沢兼六園内の成巽閣に移された)。 前田侯爵家の使用人の数は136名を数え、すでに大正時代には自動車を数台所有していた。車を磨くためだけの使用人まであり、ヨーロッパ貴族にも負けない豪勢な生活ぶりだった。 前田利為侯爵は、職業軍人だったが、かねてから東条英機と折り合いが悪く、前田は東条は「頭が悪く先が見えない男」と評し、東条は前田を「世間知らずの殿様」と評したという。彼は第二次世界大戦中の1942年(昭和17年)9月5日にボルネオ守備軍司令官を務めた際に司令部のあったクチンからミリへ飛行中に消息を絶った。陸海軍合同捜索の結果、10月17日にビンツル沖の海中で飛行機の残骸と遺骨が発見された。墜落を目撃した者はなく、エンジン故障説、落雷説、敵機の襲撃説など諸説あったが(戦後にアメリカ軍人に「ジェネラル・マエダはB26の編隊が撃墜した」と述べる者があったが真偽は不明)、当初は「陣没」(戦地における公務死)にされた。陣没だと相続税を払わねばならないが、戦死だと免除されるため、この違いは重要だった。そのため仲が悪い東条が前田家の巨万の富を狙って故意に「陣没」にしたのではという噂が流れた。この件は議会でも議論され、結局死亡後10カ月たった後、河田烈蔵相の答弁で「戦死」に変更された[疑問点 – ノート]。 式部官や狩猟官、内大臣秘書官などを歴任していた息子の前田利建が侯爵位を継承して貴族院議員となり、戦後は前田育徳会の理事や北海殖産株式会社の会長などを務めた。 占領中の1946年(昭和21年)11月12日にGHQの指令で制定された財産税により多くの華族が経済的に没落していったが、前田侯爵家も例にもれず、駒場の本邸、鎌倉・軽井沢・金沢にあった別荘、北海道の牧場と山林、京都や朝鮮の所有地などを売却していくことを余儀なくされ、その経済規模は急速に小さくなった。前田家は実に財産の90%を持っていかれ、使用人数は10分の1に激減したという。
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