明治以降の変遷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 08:59 UTC 版)
明治時代になると、最初に田代越のルートが整備された。明治10年代に、山陰と山陽を結ぶルートとして大改修が行われ、人形仙越よりも3里(約12キロメートル)ほど距離が短縮され、往来の行程が2時間あまり節約できるようになった。この結果、田代峠のルートは毎日100人あまりが通る重要な陰陽連絡路となった。とはいえ、1885年頃(明治18年)の文献によればこの道は幅4尺(約1.2メートル)、馬が通れるのは2尺(約60センチメートル)ほどで、杖がなくては歩けないほど道路は「険悪」とされている。なお、このルートは現在の岡山県道・鳥取県道116号羽出三朝線に相当するが、この県道は2014年現在全通していない。 次いで整備されたのが打札越のルートで、1899年(明治32年)に県道倉吉津山線(現在の国道179号の前身)が整備され、車両の通行が可能になった。ただし、当時はまだ「人形峠」との呼称はなかった。車が通ることが一応可能とはいえ、このルートも峠では道幅も狭く、坂は急峻でカーブも激しく、冬は雪や凍結で通行が困難だった。1912年(明治45年)に山陰本線が全通すると、山陰と山陽の往来の手段は鉄道が主流になり、これらの峠越えルートは廃れてしまった。 ところが、太平洋戦争後の1954年(昭和29年)になって、天神川本流や三徳川の上流域でウラン鉱が見つかるようになり、本格的な調査の結果、1955年(昭和30年)11月12日に県道倉吉津山線の頂上付近でウラン鉱の露頭が発見された。当時は日本中でウラン鉱の探索が行われており、この鉱山が当初の見立て以上に有望そうであることが伝えられると一躍注目を集めることになった。このときに鉱山は「人形峠ウラン鉱」と命名され、旧来の打札越もこれ以来、「人形峠」と呼ばれるようになった。発見地点には現在「ウラン鉱床露頭発見の地」の碑が設置されている。 鉱山の開発とともに、県道には峠を越えて倉吉と津山を結ぶバス便が通るようになった。峠の岡山県側に広がる高清水高原は観光地として開発が始まり、ウラン採掘と精錬を行う原子燃料公社の施設も建設された。1963年(昭和38年)には県道が二級国道179号に昇格し、さらに1981年(昭和56年)には峠付近の難路をバイパスするための人形峠トンネルが開通した。人形峠トンネルは両県の標高600メートル付近を結び、全長1,865メートル、総事業費は32億円あまりだった。これと前後して中国自動車道が開通しており、国道179号は鳥取県中央部と山陽・近畿地方を接続する重要路として交通量も増えたが、バイパス化によって峠の頂上付近には一般車の通行は激減した。
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