明治以降の内臓肉食ともつ煮の誕生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/14 04:34 UTC 版)
「もつ煮」の記事における「明治以降の内臓肉食ともつ煮の誕生」の解説
1874年(明治7年)6月の『繁昌誌』に「辻売の煮肉は、一串僅文久三孔、廉価此の如くなれば、人力曳は、夜寒を凌ぐに便る地を得、按摩針に霜を踏むに杖の力云々」とあり、1944年(昭和19年)の『増補改訂明治事物起源』はそれを紹介して「辻売の煮込の様子は今日と変わらない」と解説している。 1882年(明治26年)頃の東京の低所得者の生活を記録した文学である、松原岩五郎の『最暗黒の東京』には「煮込み」の記述が記されており、 これは労働者の滋養食にして種は屠牛場の臓腑、肝、膀胱、あるいは舌筋等を買い出してこれを細かに切り と書き出され、田楽のように串に刺して、醤油に味噌が混ざった汁で煮込んだものと記されている。 価格は一串あたり2厘(そばが1銭から1銭2厘程度の物価)で20串くらいを平らげる者もいると続き、腥臭が酷く一般人には向いていないとされている。もともとこの文学の成り立ちがいわゆる貧民窟と言われていた場所への潜入ルポの体裁であり、煮込みを食べる人々の職業として、肉体労働である人力車の車夫が挙げられている。また同書には夜業車夫相手に屋台のメニューにも煮込みがあると記されている他、鶏の臓物を蒲焼にしたものとして焼き鳥に関する記述もあり、これは3厘から5厘の価格となっていることから牛の臓物よりも高級品であったことが見て取れる。 また永井荷風は1942年(昭和18年)の『断腸亭日乗』第二十七巻に 深川門前仲町あたりの屋台店にて煮込と言ふ物の材料は牛豚等の臓物を味噌で煮たるもの。焼鳥の材料も同様なり。 と書き、松原岩五郎が記したものと一致することから、明治中期から戦前に至るまでもつ煮の歴史はあまり変化がなく続いており、偶然にも同様に焼き鳥の記述が続いている。 「焼き鳥」と称するとき、材料が鶏肉以外のものが含まれるのは、鶏肉の価格が他に比較して高かったことが影響している。30年ほどの開きがあるが、1911年(明治44年)の時点から1950年(昭和25年)頃までは、鶏肉、豚肉、牛肉の順で高価であり、内臓肉の流通と価格についてははっきりした資料がないものの、1940年頃までは内臓も同様の価格順であったことが推察され、第二次世界大戦後にブロイラーをアメリカから導入するまでは価格差はそれほどなかった。そのために「最暗黒の東京」では串に刺さったもつ煮の価格よりも焼き鳥の方が高く、永井荷風の記述における、焼き鳥という名前でありながら牛や豚の臓物が材料であるという理由が、高級食材である鶏肉に見立てていたことがうかがえる。 大正から昭和にかけての文献では、今東光や古川緑波の記述として牛丼(カメチャブ)について触れられており、材料には牛肉だけでなく牛のもつが使用されていたとある。
※この「明治以降の内臓肉食ともつ煮の誕生」の解説は、「もつ煮」の解説の一部です。
「明治以降の内臓肉食ともつ煮の誕生」を含む「もつ煮」の記事については、「もつ煮」の概要を参照ください。
- 明治以降の内臓肉食ともつ煮の誕生のページへのリンク