明治以降の堀江
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 05:11 UTC 版)
幕末以降も、水運に便利な堀江は物資の集散地、生産地として栄えた。明治3年(1870年)、岩崎弥太郎は、長堀川の鰹座橋南詰にあった土佐藩の蔵屋敷で藩が始めた九十九商会の監督に任ぜられた。翌年の廃藩置県後、九十九商会は個人事業となったが、弥太郎は県から土佐藩所有の船三隻を買い受け、1873年に三菱商会と改称し、海運と商事を中心に事業を展開した。翌1874年に本社を東京に移転したが、これが三菱グループの始まりであり、今でも堀江の蔵屋敷跡にある土佐稲荷神社はグループの原点に位置づけられ、グループ会社の役員たちが参拝している。 関西電力の前身である大阪電灯は明治末期、燃料輸送に便利な南堀江の道頓堀岸に発電所を作った。このレンガ造りの建物はのちに宇治川電気の変電所となり、その後長らく倉庫として使用されていたが、関電の超高層マンション建設のため2004年に取り壊された。 堀江周辺は四ツ橋筋を走る市電南北線、長堀沿いに走る東西線などが交差し、道頓堀川の南側の対岸には関西鉄道の湊町駅(吉野の材木を大量に大阪へ運び込んでいた)、高野鉄道の汐見橋駅が開設されるなど交通も至便であり、多くの市民が住み、働き、また茶屋や芝居小屋、劇場や寄席などで遊ぶ地域として繁栄した。
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