明治以降の歴史的仮名遣い
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「仮名遣い」の記事における「明治以降の歴史的仮名遣い」の解説
明治政府は中央集権的に諸制度を整備していったが、学制の公布に伴い、学校教科書の日本語をも整備していった。その際、歴史的仮名遣いが採用された。歴史的仮名遣いの推進者は物集高見(もずめたかみ)あるいは榊原芳野とされる。榊原は『小学読本』(明治6年、1873年)の例言において、ア行のイとヤ行のイ、ア行のウとワ行のウ、ア行のエとヤ行のエを区別しないとし、ここで歴史的仮名遣いがいろは47文字(「ん」を含めて48字)の体系となった。 大槻文彦は近代的な国語辞書『言海』を著し(1891年〈明治24年〉)、ここで採用された歴史的仮名遣いは一般への普及に役立った。 このようにして整備された歴史的仮名遣いは、契沖仮名遣いが和文や国学者に限られていたのに対し、学制や言文一致運動以後、口語文でも用いられていった。しかし完全には守られず、一般への普及には数十年かかった。例えば明治初期の仮名垣魯文や樋口一葉はいまだ恣意的な仮名遣いであったが、夏目漱石に至るとほとんど歴史的仮名遣いで統一されるもののいまだ合わない例も見られ、石川啄木に至っても合わない例がある。 しかしそもそも正しい歴史的仮名遣いを確定することの難しい語もある。1912年(大正元年)と1915年(大正4年)に文部省国語調査委員会は『疑問仮名遣』(前後編)を発行し、最新の研究に基づく正しい仮名遣いを決定しようとした。『竹取物語』『伊勢物語』などは平安時代の写本がないので仮名遣いの確かな資料にはならない。そのため平安時代の資料には訓点資料が多数採用された。この研究によって「あるいは」「もちゐる」などが確定した。このようにして契沖以来の歴史的仮名遣いは、大正に至って一応の完成を見た。しかし「うずくまる」「いちょう(鴨脚子)」「がへんず(肯)」など、いまだに説が分かれていたり、確定をみていない語も残っている。そもそも平安時代に存在しなかった語形(「-ましょう」など)に対して歴史的仮名遣いを決定することには無理があるとの考えもある。 漢字音の仮名遣い(字音仮名遣い)については更に後世の研究に待つことになった。例えば本居宣長は「推」「類」などを「スヰ」「ルヰ」としたが、満田新造は1920年(大正9年)に「スイ」「ルイ」の形が正しいと主張し、古例はみなそうであることが大矢透などによって確かめられた。同様に「衆」「中」などを宣長は「シユウ」「チユウ」としたが、現在は契沖が採用した「シウ」「チウ」の方が古例であることがわかっている。しかしこのような学問的に決められた仮名遣いは、必ずしも一般の国語辞典・漢和辞典にすぐに採用されたわけではなく、旧説と新説が混在することもあった。「スイ」「ルイ」の説は、『明解古語辞典』(1953年)をはじめとして『日本国語大辞典』(1972年–1976年)、『古語大辞典』(1983年)、『角川古語大辞典』(1982年)などに新説が採用されたが、『大漢和辞典』(1955年–1960年)では旧説「スヰ」「ルヰ」のままである。このように、字音仮名遣いはいまだに完成していない。
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