明治以降の壺屋焼
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/14 18:05 UTC 版)
明治から大正に掛けて壺屋焼は低迷期を迎える。琉球王府の廃止を含む幕藩体制の解消で流通の制限が無くなり、有田などから安価な焼き物が大量に流入してきた。 再生の転機は、大正の終わり頃から柳宗悦によって起こされた民芸運動に陶工達が触発されてからである。柳は、沖縄での作陶経験のある濱田庄司らとともに1938年初めて沖縄を訪問し、1940年までに4回来島した。金城次郎や新垣栄三郎ら陶工に直接指導や助言を行い、また壺屋焼を東京や京阪神などで広く紹介したため、生産も上向きになった。 今日、壺屋焼があるのはこの民芸運動によるところが大きい。彼らは日本国内で生産される日用雑器の「用の美」と呼ばれる実用性と芸術性に光を照らした。そして壺屋焼を、本土にない鮮やかな彩色が目を惹き、庶民の日用品でこれほどまでに装飾性を兼ね揃えたものは珍しいと評価している。
※この「明治以降の壺屋焼」の解説は、「壺屋焼」の解説の一部です。
「明治以降の壺屋焼」を含む「壺屋焼」の記事については、「壺屋焼」の概要を参照ください。
- 明治以降の壺屋焼のページへのリンク