明治以降の動向
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大正期、板垣清平(初代)が伊勢崎町にて製糸業を興し、前橋・館林と並ぶ群馬県下の織物文化を担った。1935年(昭和10年)、父の遺志を継いだ2代・清平(初名・清一郎)が町に図書館・プールの建設費として1万円ずつを寄贈した。1936年(昭和11年)4月に図書館、プールは1938年(昭和13年)7月に完成した。 1937年(昭和12年)、生糸商の板垣源四郎が伊勢崎町長となったが、「町議会の混乱を治める事が出来ない」との理由で、わずか10日で自ら町長の座を退いた。しかし、後の1940年(昭和15年)、伊勢崎町及び殖蓮村、茂呂村の合併による「伊勢崎市」発足の際に市議会議長へと返り咲き、1931年(昭和6年)11月、初代伊勢崎市長となった。 就任後も戦時下の混乱、市議会の紛糾等があったものの、1944年(昭和19年)までの1期目を全うし、再選後の2期目半ばである1946年(昭和21年)にGHQによる公職者追放を予見し、自ら市長職を辞した。 また、信廣の直系12代にあたる板垣栄作[要出典]は、1967年(昭和42年)から1983年(昭和58年)までの4期にわたり伊勢崎市議会議員を務め、3期目の1977年(昭和52年)に市議会議長になった。
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明治以降の動向
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明治維新時の当主、忠順は維新後、大阪府知事などを歴任し、明治17年(1884年)7月7日に侯爵に列する。忠順の女、好子は賀陽宮邦憲王妃。 忠敬が、甥である格太郎に射殺されるというスキャンダルが発生し、忠順が再度家督を継ぐという事態により一時没落。 この事件は、格太郎の父忠告が忠敬の兄であり共に庶子でありながら病弱を理由として家督相続されず病没。金銭に困窮し、また弟賢次郎が華族待遇を受けられず軍夫として台湾に出兵し戦死したことによる度重なる恨みの末の犯行であった。犯行時には四条隆平男爵(醍醐輝久の孫で、一時、実兄隆謌の養子となる)が醍醐家を訪問しており格太郎を捕らえるも、忠敬が犠牲となり、その長女為子が重傷を負った。 昭和の時代の当主・忠重は、海軍に入り海軍中将にまで進み、侍従武官、第五潜水艦隊司令官、第六艦隊司令長官などを歴任するが、戦後戦犯に指定される。昭和22年(1947年)オランダ軍によって銃殺刑に処された。 忠順の子・醍醐忠直は、式部官、掌典次長、宮中顧問官などを務めた。
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