明治以降の深川花街
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/07 07:30 UTC 版)
「深川 (花街)」の記事における「明治以降の深川花街」の解説
明治に入り深川の花街は柳橋、新橋の花街に押され、芸妓32人までに寂れた。だが1878年(明治12年)、深川不動堂の建立で花街は盛り返し、1886年、米市場が開設され、米穀関係者に利用された。1888年(明治21年)、根津から移転した洲崎遊廓が開設され、共に賑わった。1907年、組合が組織され、芸妓40名が在籍、昭和初期では松川二郎の『全国花街めぐり』によると、置屋54軒、芸妓149名であった。しかし1937年(昭和12年)、日中戦争勃発で戦時色が強まり、深川芸妓は洲崎の娼妓と共に国防婦人会と結成、軍隊慰問したりしたが1944年(昭和19年)、花街の営業は停止された。
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