日本政府による活動制限
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 10:19 UTC 版)
「日本のフリーメイソンリー」の記事における「日本政府による活動制限」の解説
.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}} オランダのライデンで入会した西周。 西と同時期にメイソンに入会した津田真道。 日本人のフリーメイソンは、1864年、留学先のオランダで入会した西周と津田真道が最初という。しかし、第二次世界大戦以前の日本では、日本人の会員はほとんどいなかった。1887年(明治20年)に発令された保安条例は、政治結社・集会の届出制や警察官の集会への立ち会いを定めており、秘密結社は禁止されていた。この時点では、不平等条約によって外国人は治外法権に置かれていたものの、やがて不平等条約が是正されれば、外国人にも日本の法律が適用されることになるため、フリーメイソンにも保安条例が適用され、最低でも集会に警察官の立ち入りを要求されると考えられた。 フリーメイソン側の記録によれば、これを恐れたフリーメイソンが、お雇い外国人として日本政府の通信技術顧問であったW・H・ストーンを代表として、日本政府の外務大臣と面会して協議に及んだという(外務大臣の具体的な名前が明記されていないが、時期から考察すると陸奥宗光か大隈重信のいずれかと思われる)。ストーンはフリーメイソンリーの非政治・非宗教性を説き、欧米各国で政府に承認・支持されていることを強調したという。条約改正交渉を進めていた日本政府としては欧米諸国と対立を深めたくない時期であり、その結果、フリーメイソンリーは保安条例の対象外とする代わり、日本人を入会させないこと、日本社会への接触・宣伝をしないという「紳士協定」が日本政府との間に交わされたという。この「紳士協定」は口頭によるものであるといい、日本政府側の書類としては発見されていないが、フリーメイソンリー側によれば協定遵守を申し合わせた記録が残っているという。 1898年(明治31年)に保安条例は廃止されたが、フリーメイソンは「紳士協定」を守り続け、メイソンリーに対して日本人への働きかけを自粛するようたびたび呼びかけた。そのため戦前にはフリーメイソンは日本社会から隔絶した存在であり続け、その会員は全員が外国人であった。戦前にフリーメイソンリーに入会した日本人は、海外のロッジでの入会者に限られており、彼らが大きな流れを形成することは全くなかった。しかも、そのために「外国人だけが入会するスパイ団体」、「日本人はのけものにされ、入会はおろか見学さえもさせぬ反日・反国体的人種差別団体」といった非難に晒されることになった。 1900年(明治33年)、光子クーデンホーフ=カレルギー伯爵夫人にカトリックの洗礼を行ったことで知られる神父フランソワ・A・リギョールの著書『秘密結社』(出版者石川音次郎)が出版され、この著書においてはメイソンリーが唯物論的陰謀団として語られる。大正時代、今井時郎や樋口艶之助は、フリーメイソンリーの自由主義・民主主義的理念を共産主義の発生源と非難していた。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}1921年(大正10年)、『マッソン結社の陰謀』という冊子がロシアから日本に持ち込まれ[要出典]、1923年(大正12年)に全国中学校校長協会がこの冊子を教育界へ配布した。昭和に入ると、『共産党の黒幕猶太民族の大隠謀を曝露す : マツソン秘密結社の正体と我国の現状』(昭和3年)、『皇輝遍照赤魔の正体を見よ』(昭和6年)などの書籍において「猶太」(ユダヤ)とともに「マッソン」(メイソン)が陰謀と見なされる。日独伊三国同盟が成立すると、ナチス党政権下のドイツの影響で日本にも「フリーメイソン陰謀論」、「ユダヤ陰謀論」が広まった。陸軍中将の四王天延孝は、ナチス党の影響を否定しつつ、ユダヤ・フリーメイソン陰謀論を流布した。四王天は、『シオン賢者の議定書』を陰謀の物証とした。海軍大佐犬塚惟重はフグ計画を主導した親ユダヤ派であったが、犬塚の機関は上海でメイソンリーの拠点を強制捜査し、中国国民党に多数の中国人フリーメイソンがいることを突き止めた。1943年に毎日新聞社主催、情報局が後援をし、銀座の松屋で「米英を操る黒幕の正体をえぐり出し、国際謀略の思想に構えんとす」というキャッチコピーの下、「国際秘密力とフリーメーソンリー展」という催しが行われた。 1941年(昭和16年)、日本がイギリスやアメリカと太平洋戦争に突入すると、英米に根を張るフリーメイソンは完全に敵国スパイと見做されるに至り、ロッジはことごとく憲兵・特別高等警察によって閉鎖に追い込まれ、書類・備品は全て押収された。
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