日本政府による雇用
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/15 18:12 UTC 版)
「ポール・ブリューナ」の記事における「日本政府による雇用」の解説
東京に戻った後アルベール・シャルル・デュ・ブスケの推薦を受け、同年10月7日(1870年11月29日)に契約を結び、ブリューナは1871年(明治4年)から日本政府に5年間雇用される事となった。富岡製糸場の建設に先立って機材購入や技師の雇用のために一時フランスに帰国することになり、明治4年1月22日(1871年3月12日)にイギリスの船で日本を発っている。 香港経由で帰仏した後、製糸工2名・工女4名と契約を交わし、さらに当時18歳のエミリー・アレクサンドリーヌと結婚をしている。彼らとともに1871年10月29日にマルセイユを出航し、香港でフランス郵船・アバ号から同・ファーズ号に乗り換え、同年12月19日(明治4年11月8日)に横浜港に到着した。なお、妻のエミリー・アレクサンドリーヌの父は、音楽家のルイ・ジェームズ・アルフレッド・ルフェビュール=ヴェリー。 ブリューナには月給600円に加えて賄金が毎年1,800円、合計9,000円の年俸が支払われており、お雇い外国人のフランス人としては横須賀製鉄所のレオンス・ヴェルニーが受け取っていた年俸10,000円に次ぐ金額であった。一般的な日本人職工の年俸74円などに比べて非常に高額なことから後に問題となり、1874年(明治7年)7月8日には大久保利通が、同年8月には伊藤博文が三条実美に契約の中途解約を進言している。 1872年(明治5年)7月には妻のエミリーとの間にマリ・ジャンヌ・ジョゼフィーヌという長女が生まれ、横浜のイエズス会で洗礼を受けた。後に次女も生まれ、契約を終えて1876年(明治9年)2月15日に横浜港からブリューナ一家は帰仏している。
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