日本でのさらなる広がり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 09:19 UTC 版)
「アダルトチルドレン」の記事における「日本でのさらなる広がり」の解説
アダルトチルドレンという言葉は、日本には1989年に入り、1995年から注目されるようになった。アルコール依存がアメリカほど問題になっていない日本では、精神科医の斎藤学によって、アメリカの「機能不全家族で育った人」という意味のアダルトチルドレン概念よりさらに意味が拡大され、家族システムの危機や、親との関係での何らかのトラウマ、過度に「いい子」でいることを余儀なくされたなどの経験があり、他者の期待に過剰に敏感になるなどの状況に陥り、その結果、自己のアイデンティティの不安定さやある種の「生きにくさ」を感じる人、PTSD(心的外傷ストレス性障害)に悩む人を指すようになった。 斎藤らは、近代家族(核家族)の特性に家族の機能不全性を見いだし、企業戦士で仕事に依存する父、夫の仕事依存を可能にする良妻賢母的な共依存の母に育てられ、勉強依存の傾向がある子など、明らかな虐待を受けたわけではない人の多くにも、アダルトチルドレンの問題があると考えられるようになった。斎藤は1996年時点で、一般的には「親からの虐待」「アルコール依存症の親がいる家庭」「家庭問題を持つ家族の下」で育ち、その体験が成人になっても心理的外傷(トラウマ)として残っている人を言うとしており[要ページ番号]、2014年のインタビューでは「ACじゃない人なんていないからね。大体の人の親は、変でしょう」と述べており、彼の言うアダルトチルドレンにはかなり幅がある。 この語の持つ曖昧さと安易な使われ方が敬遠され、精神医学からは排除され、嗜癖問題関係者と一般大衆の用語となっており、嗜癖治療に関係する精神科医も使用を避ける傾向がある。臨床単位・病名ではなく、客観的にアダルトチルドレンを定義・識別する試みは成功していないため、自己認定、自己申告だけが基準になる。臨床心理士の信田さよ子は、本人が機能していなかったと考えればそれは機能不全家族であるとし、「私はACを『自分の生きづらさが親との関係に起因すると認めた人』と定義づけている」「自分がACと思えばAC」と述べ、アダルトチルドレンは自己認知の問題であり、医師やカウンセラーが一方的に診断して与えるレッテルではなく、病気でもないとしている。斎藤の主導で作られた自助グループ「日本トラウマ・サバイバーズ・ユニオン」や信田は、本来アダルトチルドレンとは、生きづらさという問題を解決するための自覚用語であると述べており、治療概念として扱われている。 アダルトチルドレン言説の支持者は、当事者が「私はアダルトチルドレンだ」と自己認識することで、その人の「生きにくさ」の感覚、それにともなうさまざまな問題行動からの脱却につながることを期待した。「自分が悪いから現在のすべての苦しみがある」といった低い自尊感情の状態から、「アダルトチルドレンという物語」によって(実際はどうであれ)「悪いのは自分ではなく、親(=機能不全家族)」であると意識を転換することで、その時点で人間観関係に悪い影響を及ぼす自己イメージ(人からどう見られているかという想像)から解放され、ネガティブな自己物語を作り直すことができるだろうと考えた。こうした考え方は、1990年代に台頭した物語療法によって強化されている。癒しのプロセスのあとには、カウンセリング・セラピー文化でよく見られる、「肯定的な人生観を持ち、自分のことが好きであるがゆえに他者も愛することができ、何でも包み隠さずオープンに話して、他者と調和的なコミュニケーションが取れる人物」といった自己肯定感にあふれる自分になることが目指される。 日本でのアダルトチルドレンの定義の場合、良好なコミュニケーションが取れている家庭がそもそも少ないため、「自分はアダルトチルドレンだ」と納得する人は多い。斎藤らは近代家族=「(その当時の)普通の家族」と関連づけて家族の機能不全性を設定したため、アルコール問題家族や薬物問題家族など客観的に定義可能なものと異なり、問題の幅が著しく拡大し、客観的識別は困難になった。生きづらさを感じてアダルトチルドレンというフレームで過去を振り返ると、「普通の家族」で過ごしたという子ども時代の問題が発見され、自分はアダルトチルドレンであるという確信を得ることになるのである。アルコール依存症の問題から離れた日本のアダルトチルドレン論には、ネガティブな自己認識を転換するための「わかりやすい」物語として過剰な単純化・短絡性があり、こうした言説が(専門家含め)再生産され流通し、大量の事例・体験談が消費された。アダルトチルドレンを示すとされた特徴は、「他人からの肯定や承認を常に求める」「物事を最初から最後までやり遂げることが困難である」といった曖昧で非限定的なものであったため、「自分もアダルトチルドレンでは?」という疑問を多くの人に抱かせ、それまでの自分を否定して「回復」する必要のない人にまで届くことになり、批判や反感も少なくなかった。 多くのアダルトチルドレンに関する議論では、子ども時代に家族内で自尊心が適切に育たないと、それがほぼそのまま大人になったときの「低い自尊心」となり、共依存や嗜癖につながるとされており、自己と家族へのフォーカスが非常に強い。成人するまでに家族以外のさまざまな環境が自尊心やパーソナリティに影響するが、そうした影響はほとんど議論されない。 アメリカでも日本でも「自分の物語」として消費されたが、クラウディア・ブラックによると(1998年時点)、アダルトチルドレンの自覚がある人は、アメリカでは30代から40代、日本では若者中心だった。日本では若者に「自分の問題」かつ「大人になれない問題」として受容され、Adult Children(成人した続柄上の子ども)という英語の熟語が「おとな・こども」という語感であることから、日本では「子どもっぽい大人」「オトナ子ども」といった意味でも用いられ、「大人になり切れない大人」という意味の言葉だと思っている人も少なくなかった。自助グループなどの当事者から見れば、「オトナ子ども」という意味は間違いであるが、機能不全家族のために必要な成長が阻害され、大人になっても傷ついた子どものような状態だったり、大人になりきれていないという意味で、「おとな・こども」のダブルミーニングでもある。 医師の竹村道夫は、アダルトチルドレン言説の功績として、負の影響の世代間連鎖に人々の目を向けさせたことを挙げている。 アダルトチルドレンの癒しに関わるような共依存・嗜虐「産業」、セラピー産業には、「共依存の文献は、ポップ心理学とポップフェミニズムの本を、ニューエイジのスピリチュアリズムと伝統的福音主義で合体している」といった批判、共依存という概念に対しては、問題を個人の心理的・内面的問題に切り詰め、問題の政治的・社会的側面を無視するものだという批判がある。
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