放蕩とは? わかりやすく解説

放蕩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/30 15:08 UTC 版)

エロティシズム」の記事における「放蕩」の解説

かつてショーペンハウアーは、恋の駆け引き軽薄さ輝きが、性行為厳粛さ--ショーペンハウアーによればまったく動物的な--とまった対照をなしていることに衝撃受けたこのため彼はエロス営み単なる幻想とみなし、生命そのものによって恋人たち知性個体に対してかけられた罠だと考えた。しかしまったく反対にエロティシズムはほとんど生殖の問題考慮しないからこそそのままにしておけばすぐに消え去ってしまう性衝動反して快楽欲望長続きさせるのだ、ということ注目してみることもできるこのようにエロティシズム根底的に人間のものである実際ヒト特徴的なのは、動物違って発情期性的に無関心な時期との循環がないということである。この不決定空間において公序良俗観念発達するし、同時にまた放蕩(自由思想)も進化していく。もはや欲望自然に発露するものというよりも、誘惑技術によって掻き立てられるものなのである生物学的ないし社会的なあらゆる正当化から快楽解放され無思慮無節操にひけらかされるそのときエロティシズムの中で、かつてセクシュアリティ快楽欲望駆け引きにすべく文化的に創意工夫重ねて付け加えた取り除いたりしてきた一切のものが、混ざり合ってしまう。そのとき恋愛することは、あまりに束縛が強すぎ、あまりに深刻すぎるものになってしまう。プラトンは『パイドロス』の中で弁論家リュシアスに、愛がないのに誘惑してくる人たちにこそ味方すべきだと言わせている。彼らより恋人たちの方がよほど軽率煩わしいものだからである。やがてエロティシズムは、芸術とか会話術のように、文明的洗練表現する形式にすぎなくなるだろう、というわけである。しかしそのようにみなすのは、エロス快楽凡庸化し、それを味覚快楽モデル考えようとするやや愚かしい試みである。そもそもエロティシズムとは、他の身体との、他者との、他の経験や他の意識という計り知ることのできないものとの対決ではないだろうか。 そしてもちろん、ドン・ファン形象表しているように、放蕩の中には反逆身ぶりがある。人は火遊びをし、ミシェル・レリスの言う「雄牛の角」をもてあそぶ。すなわち、性と死の聖なる力が、みずからの身を焦がす危険を冒しつつ、近づいていくのである。人はみずからの個体性とみずからの独立を脅かす力に挑む結婚、病、愛などのことだ。そのとき人はついに不変である。また放蕩は男性優位主義にも近い。実際シモーヌ・ド・ボーヴォワール述べてたように哺乳類の雄は雌を受胎させた瞬間にその雌への関心を失う。従って「雄はみずからの個体性を乗り越えるその瞬間に、再び個体性の虜になる」。もちろん避妊普及風俗解放によって、女性にもこの種のエロティック営み可能になるとも言える

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放蕩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/08 03:30 UTC 版)

エドワード7世 (イギリス王)」の記事における「放蕩」の解説

皇太子時代エドワード公務から排除されていたため、そのエネルギーは放蕩に向いた20歳時にはじめて女性寝たエドワードは、以降売春婦除いて101人の女性と関係を持ったという。恋愛問題めぐってランドルフ・チャーチル卿(後の英国首相ウィンストン・チャーチルの父)に決闘申し込んだこともある。 数多い愛人中でも特にエドワードから寵愛を受け、常に彼と一緒にあった愛人が3人おり、彼女たちは「ロイヤル・ミストレス(Royal mistress)」と俗称された。その最初の一人は、1877年5月知り合い1880年別れたリリー・ラングトリーだった。ジャージー出身平民人妻だが、美人気立て良く身の程わきまえていたのでヴィクトリア女王や妃アリックスからも気に入られていた(リリーアリックスに対して常に下手に出たため、アリックスリリーに対して嫉妬しなかったという)。 つづいて1889年から1897年までウォリック伯爵夫人デイジー・グレンヴィル(英語版)を「ロイヤル・ミストレス」にした。彼女はメイナード子爵家(英語版)の令嬢で第5代ウォリック伯フランシス・グレンヴィル(英語版)の妻だった。エドワードは彼女を相談相手の妻のように扱い、「デイジー・ワイフ」と呼んでいた。デイジー貴族社会気立て良い評判ヴィクトリア女王からの覚えよかったが、貴族出身だけに下手に出ることがなかったため、アリックス妃から強い敵意抱かれた。やがてデイジー社会主義運動のめり込み政治面でもエドワード影響を及ぼすようになった1894年エドワード貴族院で「貧民街改善案」を訴えているが、これはデイジー影響だったという。しかしデイジー社会主義傾倒深まりすぎるとエドワードとの思想面での距離が広がり結局二人1897年別れることになったその後1898年早春から国王即位挟んで1910年崩御までアリス・ケッペル夫人を「ロイヤル・ミストレス」にした。彼女はスコットランド準男爵家の出身で、第7代アルビマール伯爵ウィリアム・ケッペル(英語版)の三男ジョージ・ケッペル(英語版)と結婚していた。エドワードとは27歳年の差があったが、彼女はエドワード落ち込んでいる時には励ましエドワードが疳癪を起こせば耐え忍びエドワード病気になれば献身的に看病するという「高齢者向き」の愛人だったため、エドワード片時も彼女を手放さなかった。エドワード即位時には彼女の去就注目されたが、結局国王となった後もエドワード皇太子時代以上に彼女を寵愛した。やがて彼女は「La Favoritaお気に入り)」と渾名されるようになったアリスへのアリックス妃の反応リリーほど好感をもっていないが、デイジーほど嫌ってもいないという雰囲気だったという。しかしエドワード崩御後アリックス妃はアリスをただちに宮殿から退去させている。また皇太子ジョージジョージ5世)はアリス嫌っていた。

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