手塚治虫との関係
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手塚治虫の熱烈なファンで親交も深かった。手塚が知人の有名人に「一言出演」を依頼したアニメ映画『千夜一夜物語』にモブキャラの声優として友情出演し、手塚の没後に製作された『ジャングル大帝』では名前のある役(密猟者ハムエッグ)として出演した。また、ブラック・ジャックの文庫本にもメッセージを寄せている。「世の中で天才というのは手塚治虫とダヴィンチだ」と語り、手塚治虫が使っていたベレー帽を宝物にしていた。 政治家を辞めたのも、「手塚先生に言われたから」とのこと。
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手塚治虫との関係
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「藤子・F・不二雄」の記事における「手塚治虫との関係」の解説
藤本は安孫子(藤子不二雄Ⓐ)と同様、手塚治虫の『新寶島』に強い影響を受け漫画家を志し、生涯を通じて手塚を最大の師と尊敬し続けた。藤本は子供のころ、安孫子と毎日のように書店を訪ね、刊行されたばかりの手塚作品の初版本をほぼすべて買い集めていた。また藤本は手塚の漫画を感激のあまり誰彼となく見せて歩き、必ず相手が読み終わるまでそばにいて反応を見ていた。ただし期待通りに相手が面白がってくれないと「こいつ鈍いんじゃないのか」と不満だったという。 14歳のころ、藤本は手塚にファンレターを出す。その返事として「しっかりしたタッチで将来がたのしみです」と手塚から直筆のハガキを受け取り、ますますファンになったという。藤本はそのハガキを生涯大事に保管しており、現在は藤子・F・不二雄ミュージアムに展示されている。 高校卒業時にはいったん就職することに決めるが、漫画家への夢を諦めきれず、春休みを利用して手塚治虫に会いにいったこともある。藤本は高校を卒業して漫画家としてやっていけるか不安だったが、手塚から「君たちならやっていけると思う」と言われたことでプロになることを決意したという。当時を想起して、藤本は「夢のような声をかけてくれた」と語っている。そのころの2人のペンネームは「手塚の足元にも及ばない」として「足塚不二雄」であった。その後、藤本と安孫子は憧れの手塚がかつて住んでいたトキワ荘の14号室に部屋を借り、漫画を描いた。手塚は2人のためにトキワ荘の敷金を肩代わりし、漫画を描くための机を残した。そのため、トキワ荘時代の作品は手塚が使っていた机で描かれた。この机は現在、安孫子の実家に保管されている。手塚が肩代わりした敷金3万円は、6年かけて手塚に返済したという。藤本の初期の絵は手塚に酷似した絵であった。 その後も藤本は漫画の描き方の本や自伝などで頻繁に手塚作品への特別な思いを述べており、「いつか手塚先生のような壮大な作風にも挑戦してみたい気持ちもある」とも語っていた。 手塚を信奉するあまり、『コロコロ』初代編集長の千葉和治が手塚への批判を漏らすと、千葉を1週間近く事務所に出入りさせなかったという。 1989年(平成元年)に手塚が死去した際、藤本は「『新宝島』が世に出た1947年をもって元号は手塚元年にしたいと思っているほどです」とまで称えた。
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手塚治虫との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/27 08:27 UTC 版)
手塚治虫とはライバルであり、同時に対立関係にあった。手塚は『イガグリくん』に対して「しまった、やられた!」という意識を抱き、自作で勝負を挑んだが「どうしても抜けない」結果となり、ドラマ化や単行本の好調な売れ行きに「かぶとを脱いだ」と記している。 前出の福元一義によると、福井は鉛筆で下絵を描いてから丸ペンで丁寧に仕上げる「昔気質の律儀な漫画家」である上に、徹夜ができなかった。一方の手塚は「アタリ」を入れただけで猛烈な速度でペンを入れる対照的なタイプであった。福井は一度手塚と同室で執筆した際、普段はやらない徹夜ができたことを喜んだものの、ペースを乱されたためか「もう君とは二度と一緒に仕事しない」と手塚に話したという。 福井の手塚に対するライバル心も並々ならぬものだった。うしおそうじが伝聞として記しているところによると、福井に限らず「児漫長屋」の漫画家たちは、関西出身かつ人気トップの手塚に対するやっかみを持ち、飲み会の払いを手塚に命じたりしたが、手塚はそれを受け流して払いに応じていた。手塚によると、漫画家仲間の飲み会(池袋駅西口のバラックだった)では居合わせた客も含めた喧嘩がしばしばあり、そうした喧嘩の折に酔った福井が手塚の胸をつかんで「やい、この大阪人、あんまり儲けるなよ」と絡んだ。「稼ぐばかりが能じゃねえ、子供だ、子供のことをちったァ、考えてみろ」と難詰された手塚が「じゃア、ぼくの漫画が、子供に悪いとでもいうのか?」と返すと「ああ、金のために描いているとしか思えねえ、この大阪人め!」と罵倒した。アニメ映画制作資金を漫画執筆で貯めようとしていた手塚は、この福井の発言に「多分に寂しかった」と記している。 この福井の手塚に対するライバル心は、1954年(昭和29年)に手塚が『漫画少年』2月号で『ジャングル大帝』と同時連載していた『漫画教室』の133ページの一コマをきっかけに、「イガグリくん事件」として、決定的な衝突を生むこととなった。手塚は持論として「ストーリー漫画家はページ数を稼ぐために無駄なコマや不必要な絵を描く」と批判し、「悪い例」として「イガグリくん」の絵を描いたのである。これを見た福井は「手塚はこのイガグリを悪書漫画の代表としてこきおろして、天下にさらした」と激怒した。福井は手塚がいた少年画報社を訪れて抗議の意を示し、その後場所を移した居酒屋(馬場のぼるが同席)で「どこに無駄な絵があるのか」と手塚に詰問、「無関係な架空の漫画」という手塚の弁解を許さず、手塚は福井に頭を下げた。「福井氏の筆勢を羨んでいた」手塚は自己嫌悪に陥ったという。 手塚は翌月の『漫画教室』に、漫画の先生が福井と馬場らしきシルエットの人物にやり込められている様子を描き謝罪の意を表した。福井が過労で急逝した際に、手塚は死去の報を受けて競争相手がいなくなったことに「ああ、ホッとした」という感情を覚え、そのことでも自己嫌悪に陥ったと記している。 福井の死の直後、手塚はアシスタントを頼んでいた当時高校生の石ノ森章太郎にハガキを出している。内容は以下の通り。 福井英一氏が亡くなられた。今、葬儀の帰途だ。狭心症だった。徹夜をしたんだ。終わって飲みに出て倒れた。出版社が殺したようなものだ。悲しい、どうにもやりきれない気持ちだ。おちついたら、また、のちほどくわしく知らせるから… その手紙を受け取った石ノ森は手塚の悲しみが行間からにじみ出てるようだったと語っている。 その後手塚は漫画「世界を滅ぼす男」で空に浮かぶ雲を福井の形にして自身の追悼の気持ちを漫画の中であらわした。その雲は穏やかな生前の福井の顔の形をしており頭の上部には天使の輪の形をした雲も付いていた。 手塚の漫画「38度線上の怪物」には福井が、福井の漫画「イガグリくん」には手塚が登場するなど、微笑ましい付き合いもあった。うしおそうじが著書で二人の「対立」をクローズアップしたのに対して、福元一義は他の漫画家が手塚から距離を置く中で福井は唯一積極的につきあっていたと記し、馬場のぼると手塚と福井の三人で旅館にカンヅメになった際には映画「第三の男」のオーソン・ウェルズの形態模写を交代でするなど朝まで映画の話で盛り上がったエピソードも紹介している。 手塚は、自作の『弁慶』に対して福井が「やりやがったな、うめえ」と一度だけほめたことがあると記し、通夜の席で山根一二三から手塚の作品をすべて福井が揃えていたと聞かされたという。
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