手塚治虫と通説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/20 06:07 UTC 版)
ストーリー漫画を確立したのは、1947年(昭和22年)に発表された手塚治虫(原作:酒井七馬)の赤本漫画『新宝島』であり、「映画的手法」を発明したのも手塚であるという通説が1970年代半ばまでには広く浸透し、1970年代後半に評論家の呉智英が『スピード太郎』などのほうが先に長編やってるし、映画的手法を取っていると指摘していたものの、一般に定着することはなかった。 1980年代末、手塚は上記のストーリー漫画と呼ばれるまでの経緯を説明。ストーリー漫画の元祖であることも映画的手法の先駆者であることも否定したが、他の評論家はそれを意図的に無視。その結果、ストーリー漫画の起源を手塚とする説が常識化した。 手塚自身は『「冒険ダン吉」や「スピード太郎」などのように、ただ話を追っていくだけの物語漫画なら、ぼくの目指すストーリー漫画ではなかった』と述べている。『内容に哲学的な深さをもたせ、人物の配置や構成に文学的な広がりを加える、かならずしも笑いは必要ではなく悲劇性、カタストロフィーも拒否しない』というのが手塚の主張であった。これは手塚が従来の児童漫画の枠を覆すために商業誌においては『地底国の怪人』から意識的に始めた手法であり(手法自体は中学生時代の習作である『私家版ロストワールド』にすでにその萌芽が認められる)、後には劇画でも当たり前の要素となった。 ヨーロッパなどではエルジェ(ベルギー)が1929年から『タンタンの冒険』を発表しているほか、トーベ・ヤンソン(フィンランド)が1947年から『ムーミン』を小説と並行する形で、ペヨ(ベルギー)が1958年から『スマーフ』をそれぞれ発表している。
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