巡礼後の治世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/01 07:00 UTC 版)
メッカから帰る長い旅の途中の1325年にムーサは、サグマンディア将軍に率いられた自国の軍勢がニジェール川沿いの交易都市ガオを再び占領したという知らせを耳にした。ガオは元はソンガイ王国の都のあった重要な交易都市であり、マンサー・サークーラ(フランス語版)による遠征以来、マリ王国の版図に組み入れられていたが、たびたび反乱を起こしていた。ムーサは遠回りしてガオに立ち寄り、ガオの王ヤシボ(又はアシバイ)の二人の息子、アリー・コロンとスライマーン・ナル(又はネーリ)を人質として受け取った。ムーサは二人を自分の宮廷に連れて帰り、そこで教育を施した。 敬虔なイスラム教徒であったムーサは、トンブクトゥやガオに数多くのモスクやマドラサ、マスジドを建設した。UNESCOの世界遺産にも含まれる有名なトンブクトゥのジンガレー・ベル(英語版)は、ムーサがアル=アンダルス生まれの文人アブー・イスハーク・アッ=サヒリー(フランス語版)をエジプトから招聘して建設させたと伝えられており、元はマドラサであった。同じく世界遺産に登録されているサンコーレ・マドラサ(英語版)は、最盛期には2万5千人の学生を抱えていた。なお、ジェンネの大モスク(泥のモスク)もマンサ・ムーサにより建設されたものと誤解されることがあるが、これは1907年に再建されたものである。 また、イブン・ハルドゥーンが伝えるところによると、「ムーサはニアニの王宮の内側に、広く臣民の声を聴くための建物を建設することを欲したという。サヒリーはこれに応えて才能のすべてを傾けて見事な接見の間を建設した。王の希望通りに漆喰で塗装され石のタイルで覆われたその建物には、色とりどりのアラベスクで装飾されたドームがそびえていた。また、上の階の窓は銀で装飾が施されており、下の階の窓は金で装飾されていた。マリ帝国では建築学が知られていなかったのでムーサはことのほか喜び、サヒリーに褒美として1万2000ミスカールの砂金を与えた」という。しかしながら、19世紀にヨーロッパから植民者たちがやってきた頃にはこのような壮麗な王宮は失われていた。ムーサの時代から19世紀に至るまでこの地方では練り土に藁を混ぜたものを建築の材料に使っていたので、王宮は長年の雨の作用で元の土塊へと戻っていたものと推定されている。 この時期に、マリの主要な都市群は、一歩進んだ都市生活が営まれていた。都市文明の萌芽がみられ、マリ帝国の全盛期には少なくとも400もの町を版図に加え、ニジェール川デルタの中では人口密度が非常に高まった。当時の人口はきわめて多く、マリ帝国全体で4000〜5000万人、首都のニアニで約10万人くらいだったと推定されている。トンブクトゥは、すぐに交易、文化、イスラームの中心となった。ハウサ諸国、エジプト、その他のアフリカの王国から商人たちによって商品が持ち込まれ、大学が創設された。イスラームの教えが交易所と大学を介して広がったことによって、トンブクトゥはイスラーム諸学の中心となった。 マリ帝国の繁栄の噂はすぐに地中海を越えて南ヨーロッパにまで伝わり、ヴェネツィア、グラナダ、ジェノバの商人たちは黄金を手に入れられる交易場所としてトンブクトゥを自分たちの地図の中に書き入れた。 トンブクトゥにあるサンコーレ大学は、ムーサの治世下において、イスラーム法学者、天文学者、占星術師などを中東や北アフリカから招聘し、一大文化中心となった。 トンブクトゥは1330年にモシ王国(英語版)に攻め込まれ、征服された。ガオはすでにムーサの将軍により陥落させていたので、ムーサはすぐにトンブクトゥを奪還し、敵の侵入に備えて石造りの城壁を町に張り巡らし、常備軍を常駐させることにした。 マンサ・ムーサがいつ亡くなったかについてはよくわかっていない。マリ帝国の歴史を記録したアラブの学者や現代の歴史研究者の間でも見解の相違がみられる。ムーサの跡を継いだマンサ・マガンとマンサ・スレイマーンの治世と、25年間と記録されているムーサの治世とを比較した場合、ムーサは1332年に亡くなったと計算できる。また別の記録によると、ムーサは息子のマガンに王位を譲ると宣言したあと、1325年のメッカ巡礼から帰ってきたすぐ後に亡くなったという。その一方で、イブン・ハルドゥーンが記した注釈によると、マリーン朝のスルタン・アブー・アルハサン・アリーがザイヤーン朝の首都トレムセンを攻略した1337年に、ムーサがこれを祝賀する使節を寄越してきており、この時点で彼はまだ生きていたと考えられる。 マンサ・ムーサの没後の評価はさまざまである。イスラーム圏では彼のメッカ巡礼と彼が建設したトンブクトゥの繁栄により、その名前が黄金伝説とともに長く記憶された。その一方で、口頭伝承がムーサに言及することはまれである。これは長期にわたる研究の結果、マンサ・ムーサが帝国の富を浪費しマンデの伝統から逸脱した人物と考えられたからであるとわかった。 このようなイスラーム圏中央からの視点、伝統社会からの視点から離れて、ギニアの歴史学者D.T.ニアヌは、ムーサがカイロやメッカに西アフリカからの巡礼者や旅人が泊まれる宿泊所や外交使節が滞在できる大使館を建設したことを指摘する。 また、マンサ・ムーサを、マリ共和国という近代国家を一つにまとめあげる国家統合のシンボルとして捉える考えもある。一例を挙げると、2010年9月22日、マリ独立50周年の機会にマリの実業家アリウ・ブバカル・ジャロ(フランス語版)は、マンサ・ムーサを記念する24金35グラム、8ミスカールの金貨をデザインした。彼は「マリは栄光の歴史とユニークな文化を持っているということ、とりわけ、マンサ・ムーサ王の治世にそうであったということを、思い起こしてもらいたいという、幸福で豊かな発展に値する国へのメッセージを込めて、この金貨をデザインした」と述べた。
※この「巡礼後の治世」の解説は、「マンサ・ムーサ」の解説の一部です。
「巡礼後の治世」を含む「マンサ・ムーサ」の記事については、「マンサ・ムーサ」の概要を参照ください。
- 巡礼後の治世のページへのリンク